第39話 記録に残らない足跡
砦へ戻ると、東門の空気は先ほどより少しだけ張り詰めていた。
門兵たちは持ち場についている。
補給係も、兵舎へ向かう者も、見た目にはいつも通りに動いている。
でも、目だけが違う。
こちらを見る。
林の方を見る。
そして、何かを聞きたそうにして、聞かない。
そういう目だった。
情報を伏せすぎると不安になる。
出しすぎても不安になる。
本当に、人間の情報管理は面倒くさい。
しかもこの世界は、そこに信仰と勇者と魔王軍まで乗せてくる。
運営の難易度を自分で上げておいて、説明書は配らない。
女神様の仕事ぶりとしては、なかなか雑が極まっている。
「記録を持ってこい。」
ルークが門兵に命じると、兵はすぐに走った。
戻ってきた手には、夜間の出入りを記した薄い帳面がある。
紙質は悪くない。
文字も整っている。
ただ、こういうものは見た目が整っているほど信用しすぎると危ない。
帳面は嘘をつかない。
でも、帳面に書く人間は普通に嘘をつく。
「昨夜、東門から外へ出た者は。」
ルークが帳面を開いた門兵に訊く。
門兵は緊張した顔で答えた。
「記録上は、夜間の外出はありません。」
「本当に?」
私が横から口を挟むと、門兵の肩が跳ねた。
「は、はい。」
「門の開閉は?」
「ありません。」
「小門は?」
「閉じていました。」
「見張りの交代は?」
「三度です。」
「その間、持ち場を離れた者は?」
門兵は帳面を見た。
「記録上は、ありません。」
私は小さく息を吐いた。
便利な言葉だ。
記録上は。
この世界にも、ちゃんと逃げ道のある言い方は存在するらしい。
そういうところだけ現実的なの、本当に嫌になる。
「記録上は、ね。」
私が呟くと、門兵は顔色を悪くした。
「責めてるわけじゃないわ。」
「は、はい。」
「ただ、記録にない足跡が外にあった。」
その一言で、場の空気が固まった。
門兵だけじゃない。
近くにいた兵たちも、わずかに動きを止めた。
ルークが低く言う。
「まだ断定はしない。」
その声で、兵たちは少しだけ呼吸を戻す。
「だが、昨夜、砦の内側から外へ出た可能性がある。」
「この件は、こちらで確認する。」
「他言無用だ。」
「誰にも話すな。」
最後の一言が、かなり重かった。
兵たちが一斉に頷く。
昨日の言葉の毒を見た後だからだろう。
下手な噂がどういう形で広がるか、今は全員が少しは分かっている。
分かっているだけで止められるなら苦労はしないけれど、何もないよりはましだ。
「ミツネ。」
肩の上でサトリが耳を立てた。
「門、違う。」
「門からじゃない?」
「たぶん。」
私は門の横へ目を向けた。
東門には正面の大きな扉がある。
その横には、兵が一人ずつ通れる小さな通用口。
さらに少し離れた壁沿いに、排水用の低い開口部がある。
大人が普通に通るには狭い。
でも、身軽な人間なら無理ではない。
「サトリ。」
「うん。」
「匂い、どこで途切れる?」
サトリは肩から飛び降りると、地面を軽く嗅ぎながら歩き出した。
小さな足で、石畳の継ぎ目をたどる。
兵たちが道を空ける。
サトリは門の正面ではなく、壁沿いへ向かった。
そして、排水口の前で止まる。
「ここ。」
「うわ。」
私は思わず声を出した。
「排水口か。」
ガルドが顔をしかめる。
「臭い場所を使いやがる。」
「逆に言えば、見られにくい場所ね。」
私はしゃがんで排水口を見た。
鉄格子がはまっている。
一見、閉じている。
けれど、下の留め具に細い傷があった。
新しい。
しかも、外側ではなく内側からこじったような傷。
「ルーク。」
「ああ。」
ルークが膝をつく。
「昨夜の巡回で、ここを確認した者は。」
門兵が慌てて帳面をめくる。
「第二交代の時に確認済みと記載があります。」
「確認した者の名は。」
「バレム兵士です。」
「今どこにいる。」
「朝から南倉庫の警備に回っています。」
ルークの目が鋭くなる。
「呼べ。」
「はい。」
兵が走った。
空気がまた少し重くなる。
名前が出た瞬間から、人は勝手に意味を作り始める。
バレムという兵が犯人かもしれない。
違うかもしれない。
確認しただけかもしれない。
確認したと言って見落としたのかもしれない。
もしくは、名前を使われただけかもしれない。
可能性はいくらでもある。
多すぎて、面倒くさい。
「決めつけない。」
私は先に言った。
近くにいた兵たちがこちらを見る。
「名前が出たから犯人、なんて雑な推理をするなら、最初から帳面だけ読んで終わりでいい。」
誰も反論しない。
私は排水口の傷を見たまま続けた。
「でも、帳面だけでは現場は見えない。」
「現場だけでも、人は見えない。」
「両方見る。」
「その上で、まだ疑う。」
ガルドが鼻を鳴らした。
「ややこしいな。」
「ややこしいのよ。」
私は立ち上がった。
「ややこしいものを簡単に処理しようとするから、だいたい失敗するの。」
「耳が痛い話だ。」
「痛いうちは正常。」
ガルドは苦笑した。
ルークは排水口の鉄格子を確認している。
エリシアはその横で、胸元の祈具に触れていた。
その顔は硬い。
祈香の匂い。
女神様の声を思わせる罠。
そして、砦の内側から外へ向かった足跡。
どれも、神殿と完全に繋がったわけではない。
でも、切り離すにも材料が足りない。
こういう半端な疑いが一番嫌だ。
信じるには汚れていて、疑うには早すぎる。
「エリシア。」
私が呼ぶと、彼女は静かに顔を上げた。
「祈香の保管場所を見たい。」
「分かりました。」
返事は早かった。
でも、少しだけ苦しそうだった。
「疑っているわけじゃない。」
私は言った。
「確認順の問題。」
「はい。」
「でも、あなたがつらいなら。」
「つらくないと言えば、嘘になります。」
エリシアは正直に答えた。
「ですが、確認しないまま信じる方が、もっと危うい。」
私は少しだけ彼女を見た。
やっぱり、この王女は強い。
信仰を持っている。
でも、信仰で目を塞がない。
そこはかなり信用できる。
女神様本人より、よほど管理者に向いている気がする。
まあ、本人に言うと困りそうだから言わないけど。
「じゃあ、先に保管場所。」
私は袖の中の黒い針を軽く押さえた。
「ルークはバレム兵士の確認。」
「分かった。」
「ガルドは排水口周りの足跡。」
「任せろ。」
「悠真は。」
言いかけると、悠真がまっすぐこちらを見た。
「俺も行きます。」
早い。
すごく早い。
こういう返事の早さ、本当に勇者らしくて危ない。
「どっちに?」
私は訊いた。
悠真は一瞬詰まった。
「えっと。」
「ほら。」
「すみません。」
「謝らなくていい。」
私は首を振る。
「まず、自分が何に反応したか見る。」
悠真は少し考えてから答えた。
「内通者かもしれないって話に、反応しました。」
「どうして?」
「誰かが疑われるなら、止めたいと思いました。」
「それは悪くない。」
私は言った。
「でも、今のあなたが全方向に出ると、ただの便利な不安回収係になる。」
「便利な不安回収係。」
「嫌な肩書きでしょ。」
「嫌です。」
「なら、役割を決める。」
悠真は真面目に頷いた。
「はい。」
「あなたは私とエリシアと一緒に祈香の確認。」
「いいんですか?」
「いい。」
私は東門の方を一度見た。
「魔王軍側の足跡より、今は女神様や神殿に近い話を聞いた時のあなたの反応を見たい。」
悠真の顔が少し強張る。
「俺の?」
「そう。」
「神殿とか女神様の話になると、自分の中で何が動くのか見る。」
「……分かりました。」
少し不安そうだった。
でも、逃げる顔ではない。
それでいい。
怖くても見る。
今日の課題は、たぶんそれだ。
私たちは東門を離れ、砦の内側にある小さな祈りの間へ向かった。
そこは兵舎と医務室の間にある、石造りの小部屋だった。
扉には簡素な白い布が掛けられている。
中に入ると、空気が少しだけ違った。
清められた匂い。
乾いた花。
白い灰。
そして、あの焦げ跡と似た甘さ。
薄い。
でも、ある。
サトリが私の肩の上で、嫌そうに丸まった。
「これ。」
「同じ?」
「似てる。」
「完全に同じじゃない?」
「焦げたやつの方が、嫌。」
なるほど。
神殿の祈香そのものではなく、加工されたか、混ぜられたか。
あるいは、似せて作ったか。
嫌な選択肢がまた増える。
「こちらです。」
エリシアが棚の前に立つ。
小さな木箱が三つ並んでいた。
それぞれに封がしてある。
エリシアはそのうち一つを手に取り、封を確認した。
「破られてはいません。」
「数は?」
「本来は六包。」
箱が開かれる。
中には、白い紙に包まれた祈香が並んでいた。
一。
二。
三。
四。
五。
エリシアの手が止まる。
悠真も息を呑んだ。
私は口を開かず、箱の中を見た。
一つ足りない。
分かりやすすぎる。
分かりやすすぎて、逆に嫌だ。
「紛失か。」
エリシアの声が低くなる。
「そう見るのが自然。」
私は言った。
「でも、自然すぎる。」
「わざと分かるように?」
悠真が訊く。
「その可能性もある。」
「神殿の人を疑わせるため、ですか。」
「そう。」
私は箱の中を指差した。
「祈香が一つ減ってる。」
「林に似た匂いがあった。」
「砦の中から外へ出た足跡もある。」
「この三つを並べたら、誰だって神殿関係者を疑う。」
悠真が唇を噛む。
「でも、それが罠かもしれない。」
「そういうこと。」
私は小さく息を吐いた。
「ほんと、性格が悪い。」
エリシアは黙って箱を見ていた。
その横顔は、かなりつらそうだった。
信じていた場所から物がなくなった。
しかも、それが敵の仕掛けに使われたかもしれない。
それは痛いだろう。
でも、ここで目を逸らされると困る。
「エリシア。」
「はい。」
「祈香に触れる人間は?」
「私と、神官補佐のリリア。」
「他には?」
「正式にはいません。」
「非正式には?」
エリシアは少しだけ目を伏せた。
「祈りの間の清掃をする兵が二名。」
「鍵は?」
「私とリリアが持っています。」
「予備は?」
「ルーク殿の管理下です。」
私は箱の封を見る。
破れていない。
なら、封を破らずに中身を抜いた。
もしくは、最初から一つ少ない状態で補充された。
あるいは、箱ごと一度すり替えられた。
考え出すと切りがない。
本当に、管理が雑なものほど侵入経路が増える。
「記録は?」
「あります。」
エリシアは棚の下から小さな帳面を取り出した。
祈香の使用記録。
日付。
用途。
使用者。
残数。
文字は丁寧だ。
でも、最後の欄で手が止まった。
昨夜の記録はない。
前回使用時の残数は六。
今は五。
「書かれてない。」
悠真が呟く。
「そうね。」
私は帳面を閉じた。
「記録に残らない足跡。」
そして箱を見る。
「記録に残らない祈香。」
エリシアが深く息を吐いた。
「申し訳ありません。」
「謝るのはまだ早い。」
「ですが、管理下にあったものが失われています。」
「それは事実。」
私は言った。
「でも、責任の話は後。」
「今は、どう失われたかを先に見る。」
エリシアは頷いた。
「はい。」
悠真が箱を見つめている。
その顔に、不安がある。
神殿。
女神様。
祈り。
そういう言葉が、彼の中でまだ特別な重さを持っているのだろう。
当然だ。
この世界に呼ばれた時から、勇者という肩書きと女神様は繋がっている。
そこを疑えと言われるのは、自分の足場を疑えと言われるようなものだ。
雑な召喚の後始末を、本人の精神力に丸投げ。
やっぱり女神様の勇者運用は、根本からひどい。
「悠真。」
「はい。」
「今、何を考えた?」
悠真は少し迷った。
でも、逃げなかった。
「女神様のものが、敵に使われたかもしれないって思うと。」
「うん。」
「怖いです。」
「何が?」
「自分が信じてきたものも、利用されるかもしれないって。」
正直な答えだった。
かなり良い。
綺麗な答えより、今はそっちの方がいい。
「その怖さは持ってていい。」
私は言った。
「捨てなくていいの。」
「いいんですか。」
「いい。」
私は箱を見た。
「信じることと、何も確認しないことは違う。」
「疑うことと、全部を否定することも違う。」
悠真は静かに聞いている。
「見なさい。」
私は短く言った。
「信じたいなら、なおさら見る。」
「見ないまま信じるのは、信仰じゃなくて放置よ。」
エリシアが小さく目を伏せた。
否定ではない。
たぶん、刺さったのだろう。
少し言いすぎたかもしれない。
でも、今はこれくらいでいい。
甘く包んだ言葉だけでは、たぶん間に合わない。
女神様の優しい声が雑に人を動かそうとするなら、こっちは少しくらい冷たい言葉で止めるしかない。
「主。」
後鬼が祈りの間の入口に現れた。
「ルーク殿より伝言です。」
「何。」
「バレム兵士は昨夜、第二交代後に体調不良で一時的に持ち場を離れています。」
「代わりは?」
「同僚が短時間、代行したとのこと。」
「記録は?」
「ありません。」
私は天井を見た。
出た。
記録に残らない交代。
記録に残らない外出。
記録に残らない祈香。
もう少し記録を仕事させてほしい。
「その同僚の名前は?」
「ニール兵士。」
「どちらも確保?」
「ルーク殿が話を聞いています。」
「分かった。」
私はエリシアを見る。
「祈香の件は、まだ広げない。」
「はい。」
「でも、リリアには確認する。」
「分かりました。」
「ただし、一人で責めない。」
エリシアは少しだけ目を見開いた。
私は続ける。
「責められてると思った人間は、正直に話す前に保身に走る。」
「だから、まず確認。」
「詰めるのは証拠が揃ってから。」
悠真が小さく言った。
「ミツネさん、そういうところ冷静ですよね。」
「怒るのが面倒なだけ。」
「それ、冷静とは違う気がします。」
「結果が同じならいいのよ。」
サトリが肩の上で、ふすっと笑った。
「ミツネ、怒ると怖い。」
「うるさい。」
「でも、まだ怒ってない。」
「まだね。」
エリシアが、ほんの少しだけ息を緩めた。
重い空気の中で、その緩みは小さかった。
でも、必要な小ささだった。
祈りの間を出る時、私はもう一度だけ棚を見た。
整った木箱。
綺麗な封。
丁寧な帳面。
それなのに、中身は一つ足りない。
この世界は、本当に表面を整えるのが好きだ。
整っていれば守れていると思っている。
封があれば安全だと思っている。
帳面があれば管理していると思っている。
その結果、抜かれている。
笑えない。
あまりにも笑えない。
廊下に出ると、砦の空気が少しざわついていた。
ルークの方でも、何か出たのだろう。
情報が増える。
疑いも増える。
それでも、混ぜない。
魔王軍。
神殿。
女神様。
砦の中の誰か。
全部を一つの悪意にまとめたら楽だ。
でも、楽な答えほど危ない。
私は袖の中の黒い針と、祈香の記録を包んだ符を確かめた。
「行くわよ。」
「はい。」
悠真が頷く。
その声はまだ硬い。
でも、さっきより少しだけ自分の足で立っている。
なら、いい。
今日のところは、それでいい。
私は廊下の先へ歩き出した。
この世界は――
記録の付け方まで、いちいち雑すぎる。




