第38話 焦げ跡の森
東門を抜けると、朝の森の冷気が少し濃くなった。
砦の中とは違う匂いがする。
湿った土。
踏み荒らされた草。
夜露を含んだ木の葉。
そして、その奥に混じる、甘い焦げ臭さ。
炭の匂いではない。
薪を燃やした匂いでもない。
もっと薄くて、鼻の奥に残るような嫌な甘さだった。
「サトリ」
「うん」
肩の上で、サトリが耳を伏せた。
「甘い」
「やっぱり?」
「焦げた花みたい」
「焦げた花ね」
あまり良い予感のする表現ではない。
悠真を同行させるかは、東門を出る直前まで迷っていた。
けれど、後鬼の後押しもあり、今回は一緒に来てもらっている。
ガルドが先頭を歩き、その後ろにルークが続く。
私は悠真とエリシアを少し後ろに置き、前鬼と後鬼を左右に散らした。
「悠真、前に出ない」
「はい」
「何か聞こえても、見えても、まず止まる」
「はい」
返事は早い。
でも、早い返事ほど油断できない。
人間は分かりましたと言いながら、次の瞬間には分かっていない動きをする。
勇者ならなおさらだ。
この世界の勇者運用は、感情で突撃させる前提が強すぎる。
安全装置なしで聖剣だけ渡すとか、設計思想からしてだいぶ危ない。
「ミツネさん」
悠真が少し困った顔をする。
「何」
「今、何か失礼なこと考えてませんでした?」
「勇者制度の安全基準について」
「失礼ではないけど、不安になる内容ですね」
「不安になっていいわよ」
私は前を見たまま言った。
「不安を持ってる人間の方が、無警戒な人間より生き残る」
「それ、褒めてます?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「現場次第」
悠真は微妙な顔をした。
でも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
それならいい。
緊張しすぎると、視野が狭くなる。
怖がらないより、怖がったまま見られる方がずっといい。
東門から少し離れると、地面に昨日の騒ぎの跡が残っていた。
踏み荒らされた草。
兵士の足跡。
斥候を追った時に折れた枝。
その中に、妙に綺麗に避けられている一角があった。
「ここだ」
ガルドが足を止めた。
林の入口から少し入った場所。
大きな木の根元に、黒く焼けた跡がある。
円形ではない。
焚き火の跡なら、中心に灰が残る。
でも、これは違った。
地面の表面だけが細く焼き切られている。
まるで、糸を這わせてから火をつけたみたいだった。
「触らないで」
私は先に言った。
ガルドの手が止まる。
「分かっている」
「ならいい」
「俺はそこまで無作法ではない」
「この世界、現場保存の概念が薄いから念のため」
ルークが少し眉を寄せた。
「現場保存?」
「触る前に見るってこと」
「それくらいはする」
「できない人も多いのよ」
私はしゃがみ込み、袖から符を一枚出した。
地面に直接触れないよう、符の端で焦げ跡の外側をなぞる。
反応はすぐに返ってきた。
ぴり、と指先の神経が弾かれる。
「残ってる」
「魔力か?」
ルークが訊く。
「魔力もある」
「も?」
「それ以外も混ざってる」
私は符をもう一枚出して、焦げ跡の横に置いた。
符の墨が、じわりと薄く滲む。
黒ではなく、灰色。
そこへ、ほんの少しだけ白が混じった。
「嫌な色」
エリシアが近づき、息を呑んだ。
「これは」
「見覚えある?」
「断言はできません」
「断言できない程度には?」
「神殿で使う祈香に、少し似ています」
祈香。
嫌な単語が増えた。
「祈りの香?」
「はい」
エリシアは焦げ跡を見つめた。
「神殿で祈祷を行う際、場を清めるために使う香です」
「魔王軍がそれを使うの?」
ルークの声が低くなる。
エリシアは首を横に振った。
「普通は使いません」
「普通は、ね」
私は符を拾い上げた。
「本物の神殿由来なら面倒」
「偽物なら?」
悠真が訊いた。
「それも面倒」
「どっちでも面倒なんですね」
「神様関係の道具が敵の現場で見つかって、面倒じゃない道があると思う?」
「ないです」
「でしょうね」
私は焦げ跡の周囲をゆっくり見た。
土の表面に、細い線が何本も残っている。
魔法陣というより、簡易的な結線。
何かを呼び出すというより、何かを受け取って流す形だ。
「これは大きな術じゃない」
「では、何だ?」
ルークが低く訊く。
「中継点」
私は答えた。
「たぶん、砦の中か門の周辺を見て、情報をどこかへ流すための場所」
「斥候の目か」
「目と耳ね」
私は焦げ跡の一部を指さした。
「ここが焼け切れてる」
「証拠隠滅?」
「そう見せたいのか、本当に消し損ねたのか、まだ分からない」
「わざと残した可能性もあるのか」
「ある」
私は小さく息を吐いた。
「雑な消し方に見せかけた誘導ってこともある」
この世界は、本当に面倒だ。
術式いや魔法の扱いは高度なのに、運用がところどころ雑。
でも、その雑さに慣れた人間が、さらに雑な手段を使ってくる。
管理が穴だらけの建物で、泥棒が合鍵を作っているようなものだ。
そりゃ侵入される。
「ミツネ」
サトリが小さく鳴いた。
「声」
「どこ?」
「土の下」
その瞬間だった。
林の奥から、かすかな声が聞こえた。
「助けて」
悠真の肩が動いた。
ルークが剣に手をかける。
ガルドも身構えた。
「助けて」
今度は、少し近い。
女の子の声にも聞こえる。
若い兵士の声にも聞こえる。
形が定まっていない声。
昨日の夜、夢の中で聞いたものと似ている。
「悠真」
私は名前だけ呼んだ。
悠真は一歩踏み出しかけて、止まった。
足が地面の上で止まる。
呼吸が浅い。
でも、止まっている。
「声は、林の奥から聞こえました」
悠真が言った。
声が少し震えている。
「でも、変です」
「何が?」
「最初に聞こえた場所と、今聞こえた場所が違います」
私は口元を少し緩めた。
「正解」
悠真がこちらを見る。
「え?」
「よく止まった」
言いながら、私は符を地面に投げた。
「前鬼」
「応」
林の影から前鬼が飛び出す。
その手の爪が、焦げ跡の上を横切った。
見えない糸が切れるように、空気がぴんと鳴る。
次の瞬間、助けを呼ぶ声が途切れた。
林の奥は静かになる。
鳥の声すらない。
「やっぱり罠か」
ルークが剣を抜きかけたまま言う。
「罠というより、釣り針ね」
私は焦げ跡の中心を見る。
「助けてって声で、勇者を動かす」
「昨夜と同じ」
悠真が小さく言った。
「似てるけど、同じじゃない」
私は首を横に振った。
「昨夜は夢の中」
「これは現実側の仕掛け」
「別の相手が、同じ弱点を押してきてる」
悠真の顔が少し青くなる。
「俺の弱点」
「助けたいと思うことは弱点じゃない」
私はすぐに言った。
「それを利用する奴がいるだけ」
「はい」
「そこを間違えると、自分を責める方向に行く」
悠真は黙って頷いた。
エリシアが胸元に手を当てている。
祈るような仕草だった。
ただ、その顔は険しい。
「女神様の声に似せたのでしょうか」
「似せた可能性はある」
私は答えた。
「でも、決めつけない」
「はい」
「魔王軍が神殿の道具を手に入れたのか」
「神殿側の何かが流出したのか」
「それとも、誰かがわざと混ぜているのか」
私は焦げ跡の黒い線を見た。
「どれでも嫌」
「ミツネ殿の判断は?」
ルークが訊く。
「今の時点で決めるのは雑」
私は短く返した。
「雑な相手に、こっちまで雑に付き合う必要はない」
ルークは一瞬だけ黙り、それから頷いた。
「分かった」
ガルドが周囲の草をかき分ける。
「こっちに小さな穴がある」
「触らないで」
「だから触っていない」
「よし」
私は近づいた。
木の根の下に、小さな黒い針のようなものが刺さっていた。
長さは指一本分ほど。
金属ではない。
焼けた骨にも見える。
炭化した木片にも見える。
そこに細い文字が刻まれていた。
この世界の文字ではない。
少なくとも、私が今まで見たリーフグラッセの文字とは違う。
「後鬼」
「はい」
「抜かずに周囲ごと取る」
「承知しました」
後鬼が膝をつき、短い刃で土ごと針を切り出す。
動きは静かで無駄がない。
こういう時、後鬼は本当に頼りになる。
前鬼だったら、たぶん勢いで根っこまで引っこ抜く。
必要な場面ならそれでいいけど、今はやめてほしい。
「主」
後鬼が土ごと針を差し出した。
私は符を重ねて包む。
触れた瞬間、符の端が少し焦げた。
「生きてる」
「まだ動くのか?」
ルークが身を乗り出す。
「動くというか、残ってる」
「危険か?」
「危険」
私は即答した。
悠真が少し後ろへ下がる。
正しい。
今のは正しい後退だ。
「でも、暴れるほどじゃない」
「なら、持ち帰れるか」
「持ち帰る」
私は符をさらに二枚重ねた。
「ただし、誰にも触らせない」
「神殿にも?」
エリシアが訊いた。
「今すぐは駄目」
私ははっきり言った。
「祈香に似た匂いが出ている以上、神殿系の人間に渡すのは後」
エリシアは少しだけ顔を強張らせた。
でも、反論はしなかった。
「分かりました」
「信用してないわけじゃない」
私は言った。
「確認順の問題」
「はい」
「信仰が絡むと、人は見たいものを見る」
「ええ」
エリシアは静かに頷いた。
「私も、例外ではありません」
その返事は、思ったより冷静だった。
エリシアのこういうところは信用できる。
自分が揺れる可能性を分かっている人間は、まだ踏みとどまれる。
問題は、自分だけは正しいと信じ込んでいる人間だ。
そういう人間に世界運営を任せると、だいたいろくなことにならない。
女神様がその代表例になりつつあるの、本当に笑えない。
「サトリ」
「うん」
「他に匂いは?」
サトリは焦げ跡から少し離れ、地面へ降りた。
小さな足で草の上を歩き、鼻をひくひく動かす。
「こっち」
サトリが林の奥ではなく、東門側から少し外れた場所へ向かった。
「門の方?」
ガルドが眉を寄せる。
「違う」
サトリは首を振る。
「門から出たにおい」
場の空気が固まった。
「砦から?」
ルークの声がさらに低くなる。
サトリは地面を嗅ぎ、尻尾をぴんと立てた。
「一人」
「いつ?」
「夜」
「昨日の夜か?」
「たぶん」
私は足元を見る。
確かに、草が細く倒れている。
兵士の巡回路とは少しずれている。
しかも、足跡が浅い。
重装備の兵ではない。
斥候にしては、砦側からの動きが混ざっている。
「内通者か?」
ガルドの顔が険しくなる。
「まだ決めない」
私はすぐに言った。
「夜に外へ出た人間がいる」
「今言えるのはそれだけ」
「だが、この焦げ跡と無関係とは思えん」
「そうね」
私は草の倒れ方を見た。
「無関係と考える方が、少し苦しい」
悠真が唇を引き結んでいる。
「砦の中に、魔王軍の協力者がいるってことですか」
「可能性の一つ」
「神殿関係者の可能性も?」
エリシアが静かに訊いた。
自分でその可能性を口にするのは、たぶん苦しかったはずだ。
でも、言った。
「それも一つ」
私は答えた。
「ただし、魔王軍が神殿由来の物を奪って使っただけかもしれない」
「この現場を見つけさせるために、わざと匂いを残したのかもしれない」
「こっちを疑心暗鬼にするためか」
ルークが言う。
「そう」
私は頷いた。
「疑いは必要」
「でも、雑に広げると敵の思う壺」
「昨日の言葉の毒と同じね」
悠真が言った。
私は少しだけ悠真を見る。
「そう」
ちゃんと繋げた。
それでいい。
「毒は、剣より安い」
私は言った。
「匂いも、足跡も、声も」
「安く置ける」
「でも、こっちが勝手に飲み込めば高くつく」
ルークが剣から手を離した。
「砦へ戻る」
「全員に伝えるのか?」
ガルドが訊いた。
「いや」
ルークは首を横に振った。
「今すぐ広げれば混乱する」
「まず門の出入り記録を確認する」
「夜間に外へ出た者を絞る」
「神殿の祈香については、エリシア殿とミツネが確認する」
「俺も立ち会う」
エリシアは頷いた。
「分かりました」
私は包んだ黒い針を袖の中へ収めた。
直接肌に触れないよう、符をさらに重ねる。
そこまでしても、薄い甘さがまだ鼻についた。
「ミツネさん」
悠真が小さく呼んだ。
「何」
「俺、さっき止まれましたか」
「止まった」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
私は短く言った。
「走りそうにはなったけど」
「なりました」
「でも、止まった」
「はい」
「それで十分」
悠真は少しだけ息を吐いた。
安心したような、まだ怖いような顔だった。
その顔でいい。
怖くないふりをするより、ずっといい。
「次も、止まれるとは限りません」
「限らないわね」
「そこは励ましてくれないんですね」
「次も絶対大丈夫なんて言う方が無責任でしょ」
私は肩をすくめた。
「だから、準備する」
「はい」
「次に止まりやすくする」
「はい」
「それが訓練」
悠真は真面目に頷いた。
本当に、真面目すぎるくらい真面目だ。
こういう子を勇者に選んで、説明も保護も足りないまま戦場に放り込む。
やっぱり運営が雑すぎる。
素材が良いから雑に扱っても育つと思っているなら、神様の人材育成はかなり危険だ。
砦へ戻る途中、林の奥から風が吹いた。
木々の葉が揺れ、焦げ跡の甘い匂いが薄く広がる。
もう助けを呼ぶ声はしない。
それでも、何かがまだこちらを見ているような感覚が残っていた。
私は振り返らない。
振り返る必要がある時は、サトリが教える。
前鬼が動く。
後鬼が止める。
そして、私は疑う。
それが今の役割だ。
東門が見えてくる。
門兵たちがこちらに気づき、姿勢を正した。
ルークはすぐに指示を飛ばし、夜間の出入り記録を持ってこさせる。
ガルドは門周辺の足跡を確認し始めた。
エリシアは黙ったまま、胸元の祈具を握っている。
悠真は門の内側で立ち止まり、外の林をもう一度見た。
その横顔には、不安がある。
でも、昨日とは違う。
ただ押されるだけの不安ではない。
見ようとする不安だ。
それなら、まだ折れない。
私は袖の中の黒い針を確かめた。
魔王軍の目。
神殿に似た甘い匂い。
女神様の声に似せた罠。
砦の中から外へ出た、誰かの足跡。
材料が増えた。
増えすぎた。
この世界は本当に雑だ。
そして、その雑さを、誰かがきちんと利用している。
それが一番、たちが悪かった。




