第37話 言葉の毒と、砦の朝
朝の砦は、昨日より静かだった。
静かすぎる、というほどではない。
炊事場からは、配給係が鍋をかき混ぜる音がしている。
見張りの交代も行われている。
兵たちは武器を手入れし、水桶を運び、いつも通りの朝の準備を進めていた。
けれど、声が小さい。
笑い声が短い。
誰かが話していても、すぐに周囲を見て口を閉じる。
普段通りを装っている人間ほど、普段通りではないことがよく分かる。
こういう空気は、あまり好きじゃない。
何かが起きた後の場所に残る、湿った沈黙。
火事の後に焦げた匂いだけが壁に染みつくみたいに、昨日の言葉が砦の中に残っていた。
勇者が自発的に出ない砦は、内側から腐る。
捕らえられた魔王軍の斥候が置いていった、安っぽい毒。
安っぽいのに、効く。
そこが一番たちが悪い。
高級な呪詛より、雑に投げられた一言の方が、人の心に深く刺さることがある。
「主。」
後鬼が横に並んだ。
朝日を受けても、後鬼の表情はいつも通り静かだった。
「昨夜の符に、異常は残っていません。」
「悠真の部屋の周囲は?」
「夜明け前に一度、弱い揺れがありましたが、侵入には至っていません。」
「女神様、まだ諦めてないわね。」
「はい。」
まあ、そうだろう。
一晩失敗した程度で引き下がるなら、最初から夢に干渉なんてしない。
神様というものは、だいたい自分の都合を善意の形に包む。
包み紙だけ綺麗で、中身の扱いが雑。
贈り物としては最悪だ。
「ミツネ、悠真のにおい、少しまし。」
肩の上のサトリが、眠そうに目をこすりながら言った。
「寝た?」
「ちょっと。」
「ちょっとか。」
「でも、昨日より沈んでない。」
「なら十分。」
寝不足は問題だけど、夢に影響されて眠れないよりはましだ。
勇者を召喚しておいて、睡眠管理までこちらに丸投げ。
女神様の運営は、今日も安定して雑だった。
私は中庭へ出た。
朝礼のために、兵たちが集まり始めている。
ルークがすでに中庭の中央に立っていた。
ただ、目は昨日より少し鋭かった。
噂を放置するつもりはないらしい。
エリシアも少し離れた場所にいて様子を見ている。
今日はいつもの装束ではなく、動きやすい服装だった。
悠真はその横にいた。
少し顔色は悪い。
目元にも疲れが残っている。
けれど、立ち方は崩れていなかった。
私と目が合うと、小さく頷く。
昨日の夜、夢の中で止まった少年。
その事実は、まだほとんど誰も知らない。
でも、本人は知っている。
それだけで、今日は意味がある。
「全員、聞け。」
ルークの声が中庭に響いた。
兵たちのざわめきが収まる。
「昨日、東門付近で魔王軍の斥候を捕らえた。」
短く、低い声だった。
余計な飾りはない。
だからこそ、兵たちは顔を上げた。
「敵はこの砦を見ている。」
中庭の空気がわずかに固まる。
「だが、こちらも敵を捕らえた。」
ルークは兵たちを見渡した。
「それは、見張りが持ち場を守り、指示なく動かなかったからだ。」
何人かの兵が、わずかに目を動かした。
昨日、悠真が門へ飛び出さなかったことを気にしている顔だった。
ルークは、そこを見逃さなかった。
「勇者殿も同じだ。」
悠真の肩が少しだけ動いた。
「勇者殿は、敵の誘いに乗らなかった。」
ルークははっきりと言った。
「砦が襲われたからといって、勝手に飛び出せば守りは崩れる。」
「敵がそれを狙っていたなら、こちらは敵の望む形で動いたことになる。」
「昨日、勇者殿は踏みとどまった。」
「それは臆病ではない。」
「命令待ちでもない。」
「砦を守るために、必要な判断だった。」
中庭に、短い沈黙が落ちる。
私は少しだけ息を吐いた。
悪くない。
かなり悪くない。
ルークは口下手だけど、必要な言葉を外さない。
そこは本当に助かる。
「捕虜になった斥候は、移送の際に言葉を残した。」
兵たちの視線が集まる。
「勇者が出ない砦は、内側から腐る。」
ざわめきが起きかけた。
ルークはそれより先に声を重ねた。
「敵の言葉の毒を、自分たちで飲むな。」
「惑わされるな。」
今度こそ、空気が止まった。
「敵は剣だけで攻めてくるとは限らん。」
「言葉で守りを乱し、人の目を疑わせ、味方同士を腐らせることもある。」
「自分の不安を、敵の武器にするな。」
「以上だ。」
短い朝礼だった。
でも、昨日から残っていた噂の一部は、確かに地に落ちた。
完全に消えたわけじゃない。
言葉は一度入り込むと、そう簡単には抜けない。
けれど、放置はされなかった。
それだけでも十分に意味がある。
兵たちが解散し始める。
私は悠真に近づいた。
「おはよう。」
「おはようございます。」
「顔色、あまり良くないわね。」
「……少しは寝ました。」
「睡眠の質の話よ。」
悠真は苦笑した。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
「ルークさん、すごかったですね。」
「そうね。」
私はちらりとルークを見た。
「昨日の言葉の毒を、ちゃんと朝のうちに吐かせた。」
「毒。」
「そう。」
私は悠真を見る。
「敵がわざと置いていった言葉を、そのまま胸の中で育てる必要はない。」
悠真は少し黙ってから頷いた。
「分かっているつもりです。」
「つもりでいいわよ。」
「いいんですか?」
「一日で全部分かった顔をされる方が怖い。」
「それは、たしかに。」
悠真は小さく笑った。
その時、兵舎の方から少し荒い声が聞こえた。
「だから、勇者殿は女神様の声を聞けなくなったんじゃないのか。」
足が止まる。
悠真の顔から笑みが消えた。
声の方を見ると、若い兵士が二人、兵舎の前で言い争っていた。
周囲の兵たちも止まっている。
片方は戸惑い、片方は不安を怒りに変えている顔だった。
「違うだろ。」
もう一人の兵が言う。
「ルーク隊長が言ったじゃないか。」
「でも、勇者なら女神様の導きで動くんだろ。」
「昨日は動かなかった。」
「それって、女神様が黙ったってことじゃないのか。」
「それとも、勇者殿が声を聞けなくなったのか。」
嫌な方向に転がった。
噂というものは、本当に手癖が悪い。
少し隙間があるだけで、勝手にそこへ入り込む。
私は一歩前へ出た。
「そこ、ずいぶん面白い話をしてるわね。」
兵士たちがびくりと肩を揺らした。
「ミ、ミツネ殿。」
「続けて。」
私は静かに言った。
「女神様の声が聞こえるかどうかと、目の前の人間が考えて動けるかどうかが、どう繋がるのか聞きたい。」
若い兵士は言葉に詰まった。
「いえ、その。」
「声がしたら正しいの?」
「それは。」
「声がしなければ間違い?」
誰も答えない。
私は少しだけ首を傾けた。
「便利ね。」
「え?」
「自分で考えなくて済むもの。」
兵士の顔がこわばる。
私は続けた。
「女神様の声が聞こえたから正しい。」
「聞こえなかったから不安。」
「聞いた人間が動かなかったから疑う。」
「それで守れるなら、兵士じゃなくて人形を並べた方が早いわ。」
周囲の空気が冷える。
言いすぎない。
でも、引かない。
ここは少し刺しておく。
「昨夜、悠真は自分で考え止まるという練習をした。」
私は言った。
悠真がこちらを見る。
驚いた顔だった。
ただし、止める顔ではない。
「助けを呼ぶ声が聞こえた時、すぐに走らない。」
「誰が言っているのか見る。」
「何に反応しているのか考える。」
「本当に自分で選んでいるのか確かめる。」
私は兵士たちを見た。
「それをした。」
若い兵士が、小さく息を呑んだ。
「勇者殿が、ですか。」
「そう。」
私は短く答えた。
「それは、見放されたからじゃない。」
「声が聞こえないからでもない。」
「自分の足で立とうとしたからよ。」
沈黙が落ちた。
悠真が、ゆっくり前に出る。
顔色はまだ悪い。
でも、目は逃げていなかった。
「俺は、女神様を否定したいわけじゃありません。」
声は少し震えていた。
それでも、ちゃんと届く声だった。
「でも、誰かに言われたから動くだけなら、それは俺が選んだことにならないと思います。」
兵士たちは黙って聞いている。
「昨日、俺は出ませんでした。」
「怖くなかったわけじゃありません。」
「助けに行きたい気持ちもありました。」
「でも、勝手に動いたら砦の守りを崩すと教えられました。」
悠真は一度、息を吸った。
「だから、止まりました。」
「次も全部うまくできるかは分かりません。」
「でも、考えます。」
「女神様の声でも、敵の声でも、誰かの不安でも。」
「そのまま飲み込まずに、ちゃんと見ます。」
若い兵士たちは、気まずそうに目を伏せた。
さっきまで言葉を荒げていた兵が、小さく頭を下げる。
「申し訳ありません。」
悠真は慌てたように手を振った。
「いえ、責めたいわけでは。」
「責められた方がいい時もあるわよ。」
私が横から言うと、悠真が困った顔でこちらを見た。
「ミツネさん。」
「何。」
「今、俺が収めようとしていたところです。」
「そうだったわね。」
私は肩をすくめた。
「じゃあ、続けて。」
悠真は少しだけ困った顔をしたあと、兵士たちに向き直った。
「俺も不安です。」
「だから、みなさんが不安になるのも分かります。」
「でも、その不安を魔王軍に使われたくありません。」
「俺も、使われないようにします。」
「だから、皆さんも一緒に踏みとどまってください。」
それは上手な演説ではなかった。
声もまだ揺れていた。
けれど、妙にまっすぐだった。
兵たちの顔から、少しずつ刺々しさが抜けていく。
完璧じゃない。
劇的でもない。
でも、十分だ。
人の心を立て直すのに、毎回派手な奇跡が必要なわけじゃない。
むしろ、派手な奇跡ばかり求めるから、世界の運営が雑になる。
「勇者殿。」
最初に声を荒げていた兵が、もう一度頭を下げた。
「軽率でした。」
「いえ。」
悠真は少し迷ってから言った。
「俺も、もっとちゃんと立てるようになります。」
兵士たちが去っていく。
場のざわめきは完全には消えていない。
でも、さっきまでとは違う。
不安が、不安のまま口に出せる空気になった。
それなら、まだ扱える。
腐るよりずっとましだ。
エリシアが近づいてきた。
少し心配そうな顔をしている。
「昨夜のことを、少し話したのですね。」
「必要な分だけ。」
「女神様の声を疑う形になるため、扱いには注意が必要です。」
「分かってる。」
私は小さく息を吐いた。
「だから、女神様が間違ってるとは言ってない。」
「はい。」
「ただ、声を聞いた人間が考えることまで禁止されたら、それは信仰じゃなくて操作よ。」
エリシアは黙った。
その沈黙は、否定ではなかった。
私は中庭の隅で、まだ悠真の背中を見ている兵たちを見る。
「人間は道具じゃない。」
「そこを分かっていない管理者に、世界運営を任せるのはどう考えても危ないわよね。」
エリシアの目が少しだけ揺れた。
「ミツネ殿は、本当に遠慮がありませんね。」
「これでも言葉は選んでる。」
「それで、ですか。」
「ええ。」
私は薄く笑った。
「本気で言ったら、朝礼じゃ済まないもの。」
エリシアは小さくため息をついた。
怒ったわけではない。
むしろ、少しだけ安心したようにも見えた。
そこへ、東門の方からガルドが足早にやってきた。
大柄な体を揺らしながら、こちらへ向かってくる。
「ミツネ殿。」
「今度は何。」
「林の奥で、妙な焦げ跡が見つかった。」
ルークもこちらを見た。
「焦げ跡?」
「ああ。」
ガルドは眉を寄せる。
「焚き火の跡じゃない。」
「火魔法の跡にも見えるが、少し違う。」
「斥候が潜んでいた辺りか?」
ルークが訊く。
「東門から少し外れた場所だ。」
「昨日の斥候の逃走経路とは重なる。」
私はサトリを見る。
サトリは鼻をひくつかせ、嫌そうに耳を伏せた。
「焦げたにおい。」
「ただの火?」
「違う。」
サトリは短く言った。
「甘い。」
「甘い焦げ跡ね。」
私は眉を寄せる。
嫌な響きだった。
「魔物の気配は?」
「薄い。」
「人は?」
「いくつか混ざってる。」
「面倒ね。」
サトリが眠そうに頷く。
「面倒。」
ルークがすぐに兵へ指示を出した。
「東門の警戒を二名増やせ。」
「林に入る者は俺が選ぶ。」
「勝手に近づくな。」
兵たちが動き出す。
さっきまでの湿った不安とは違う緊張が走った。
今度は外側の問題だ。
内側の毒を少し薄めたと思ったら、外側から焦げ跡。
本当に忙しい。
世界の不具合対応窓口にでも配属された気分だ。
もちろん、そんな辞令をもらった覚えはない。
私は袖の中の符を確認した。
残りは十分。
ただし、精神的な余裕は足りない。
「悠真は残していく?」
ルークが訊いた。
悠真が少し身構える。
私は一瞬考えた。
昨日までなら、残すと即答したかもしれない。
でも、今は違う。
守るために閉じ込めすぎれば、それもまた毒になる。
「東門までは一緒。」
私は言った。
「林の奥へ入るかは、現地を見て決める。」
悠真が目を見開いた。
「いいんですか?」
「よくはない。」
「え。」
「でも、何も見せずに部屋へ戻すのもよくない。」
私は悠真を見る。
「ただし、勝手に走らない。」
「はい。」
「声が聞こえても、音がしても、何かが倒れても、まず見る。」
「はい。」
「返事が早いのはいいけど、ちゃんとやって。」
「分かっています。」
「ならよし。」
エリシアがそっと悠真の横に立った。
「私も同行します。」
「助かる。」
ルークは短く頷いた。
ガルドが東門へ向かって歩き出す。
その背を追う前に、私は中庭を振り返った。
兵たちはまだこちらを見ている。
不安は消えていない。
でも、朝礼前よりは目が動いている。
考えようとしている目だ。
それなら、腐るにはまだ早い。
門の外へ出る前に、私は小さく息を吐いた。
この世界は、本当に雑だ。
表面だけ整えて、肝心なところは穴だらけ。
それを信仰で覆えば管理になると思っているなら、女神様の運営感覚は相当危ない。
だからこそ、こちらも雑に飲み込まれるわけにはいかない。
言葉の毒も。
夢の声も。
林の奥に残された焦げ跡も。
全部、ひとつずつ見る。
ひとつずつ疑う。
ひとつずつ、ほどく。
私は狐面の位置を指先で確かめ、東門へ向かった。




