第36話 内側から揺れる夜
魔王軍の襲撃に備えた対策は、なによりも先に始めた。
いつもなら、兵たちの動きが落ち着いてから符を張る。
でも今日は違う。
昼に起きた一件で、もう十分に面倒だった。
魔王軍は砦の外からこちらを見ている。
女神様は悠真の内側に触れて、操ろうとしてくる。
どちらも別の話。
別の話なのに、押してくる場所が似ている。
そこが、とても嫌だった。
「主。北側の廊下、張り終えました」
後鬼が静かに戻ってきた。
手には、未使用の札が数枚残っている。
「早いわね」
「兵の往来が少ない場所から済ませました」
「ありがと」
私は中庭に面した柱へ、細い符を貼りつけた。
魔除けというより、相手の反応を見るためのものだ。
強く弾くための結界じゃない。
何かが触れたら、こちらに違和感として返ってくる程度。
雑に例えるなら、玄関に鈴を吊るす感じだ。
ただし、鳴るのは耳じゃなくて神経。
あまり気持ちのいい仕組みではない。
「ミツネ」
肩の上で、サトリが鼻をひくつかせた。
「人のにおい、落ち着かない」
「でしょうね」
私は廊下の向こうを見る。
兵たちは夜に備え、夕食の準備に向かっている。
笑い声もある。
怒鳴り声もある。
水桶を運ぶ音も、煮えた鍋の匂いも、いつもの砦の夜に見えた。
けれど、少し違う。
視線が揺れている。
勇者を見る目。
門を見る目。
捕虜になった魔王軍の斥候が連れていかれた部屋を、ちらちらと見る兵士の目。
みんな、何かを知りたいのに、何を聞けばいいのか分からない顔をしていた。
「まあ、無理もないか」
昼に捕らえた斥候。
魔王軍が見ていたという事実。
勇者の動きが読まれていたという話。
それを完全に隠すのは無理がある。
むしろ、隠しすぎると余計な噂になる。
でも、全部を開いて説明できるほど、この砦の空気も単純じゃない。
人間というのは、知らされないと不安になる。
けれど、知らされすぎても不安になる。
面倒な生き物だ。
私もその一人だから、あまり偉そうなことは言えないけど。
「ミツネ殿」
廊下の曲がり角から、エリシアがこちらに向かって歩いてきた。
表情は落ち着いている。
ただ、いつもより目が少し疲れていた。
「悠真殿の部屋の周辺は、こちらで人払いを済ませました」
「ありがとう。変な反応は?」
「今のところはありません。ただ、兵の間に少し噂が出ています」
「勇者が出なかった、ってやつ?」
エリシアは小さく頷いた。
「はい。まだ悪意あるものではありません。ですが、言葉だけが先に歩き始めています」
「早いわねえ」
私は思わず天井を見た。
噂は足が速い。
馬より速い。
しかも、だいたい余計な尾ひれを含んで、勝手に大きくなって広まる。
「内容は?」
「勇者殿は命令がなければ動けないのか。魔王軍はそれを知っているのか。次に本当に襲われた時、誰が前に出るのか。そのようなものです」
「最悪ではないけど、良くもないわね」
「ええ」
エリシアの声は低かった。
「勇者殿のお耳にも、入るかもしれません」
「もう入ってる可能性もある」
私が言うと、サトリが小さく頷いた。
「悠真、さっき、におい沈んでた」
「でしょうね」
助けたい。
でも、勝手に出るなと言われた。
見られている。
利用される。
そこで噂が流れれば、刺さらないわけがない。
魔王軍がそこまで見越しているなら、かなり嫌らしい。
見越していないとしても、結果的に嫌らしい。
どちらにしても嫌だ。
「捕虜の斥候は?」
私が訊くと、エリシアは少しだけ眉を寄せた。
「黙っています。ただ、移送の時に門兵へ一言だけ」
「一言?」
「勇者が出ない砦は、内側から腐る、と」
「うわ」
思わず声が出た。
「性格悪い」
「同感です」
「それ、わざと聞かせたわね」
「おそらく」
後鬼が静かに言う。
「言葉を置いていった、ということですか」
「そうね」
私は柱に貼った符を指で軽く押さえた。
「刃物より安上がりで、効く相手にはよく効く」
捕虜を捕らえた。
こちらは一枚取った。
でも、向こうもただでは終わらせない。
捕まった斥候が、砦の中に小さな毒を落としていった。
勇者が打って出ない砦。
内側から腐る。
くだらない。
くだらないけれど、兵の不安に混ざれば、それは形を持つ。
それが嫌だった。
「じゃあ、先に潰す」
私は言った。
「噂を?」
「噂そのものは潰さない。潰そうとすると増えるから」
エリシアが少し目を細める。
「では、どうしますか」
「悠真本人に、言葉を持たせる」
「言葉を」
「そう。本人が黙って沈むと、周りが勝手に意味を作る。だったら、先にこっちで意味を置く」
私は廊下の先を見る。
食堂の方から、兵たちの声が聞こえた。
「勇者が出なかったんじゃない。砦の指揮に合わせて踏みとどまった。そう見せる」
「事実でもありますね」
「事実は使える時に使うものよ」
私は軽く肩をすくめた。
「嘘より長持ちするし」
エリシアは、ほんの少しだけ笑った。
「ミツネ殿らしい言い方です」
「褒めてる?」
「はい」
「ならいいけど」
私は符の残りを後鬼に渡した。
「後鬼、悠真の部屋の外と、食堂から兵舎へ行く途中に追加で二枚」
「承知しました」
「サトリは悠真の様子を見る。変に沈みすぎてたら教えて」
「分かった」
「私は少し、本人と話してくる」
そう言って歩き出そうとしたところで、廊下の奥からルークが来た。
手には木の杯を二つ持っている。
片方を私へ差し出してきた。
「飲め」
「なにこれ」
「薄い果実水だ。毒ではない」
「そこまで疑ってないわよ」
「顔が疑っていた」
「職業病ね」
私は杯を受け取った。
少し甘い匂いがする。
喉が乾いていたので、ありがたく一口飲んだ。
「噂の件、聞いた?」
「ああ」
ルークは短く頷いた。
「兵の間で広がる前に、明日の朝礼で言う」
「何を?」
「勇者殿はこちらの行動を理解し、砦の守りを乱さなかった。門兵もそれに合わせて動いた。今日の対応は失敗ではない、と」
「いいわね」
思ったより早い。
というか、私が言うまでもなく、ルークは同じことを考えていたらしい。
こういう現場の指揮官がいると、本当に助かる。
「ただ」
ルークの表情が少し硬くなる。
「本人が納得していなければ、言葉だけになる」
「そこは今から行く」
「頼む」
「ずいぶん素直に頼むのね」
「俺が言うと、命令になる」
ルークは中庭の方へ目を向けた。
「お前が言うと、腹は立つが残る」
「それ、褒めてる?」
「半分は」
「もう半分は?」
「言わない」
「言いなさいよ」
ルークは私の問いに答えずに歩いていった。
逃げた。
あの騎士、自分に都合が悪いと無言で逃げる。
まあいい。
私は杯の残りを飲み干し、悠真の部屋へ向かった。
悠真は、部屋にはいなかった。
正確には、部屋の前の廊下にいた。
窓際に立ち、外を見ている。
夜の砦は、昼と違って音が少ない。
松明の火が風に揺れて、壁に長い影を落としている。
悠真はその影をじっと見ていた。
「寝る前に黄昏れるには、ちょっと早くない?」
私が声をかけると、悠真はびくっと肩を揺らした。
「ミツネさん」
「驚きすぎ」
「すみません」
「謝るところじゃない」
私は隣に立った。
窓の外には、東門が見える。
見張りが二人。
そのさらに向こうは、もう暗い。
「聞いた?」
私は遠回りせずに訊いた。
悠真は少し黙ってから、頷いた。
「はい」
「勇者が打って出ない砦は内側から腐る、ってやつ?」
「……それも、聞きました」
「最悪ね。言葉の趣味が悪い」
悠真は窓枠に手を置いた。
「でも、少し分かる気もしました」
「何が?」
「俺が出なかったことで、誰かが不安になるなら」
「うん」
「それは、俺が勇者だからですよね」
「そうね」
「じゃあ、俺はどうすればいいんですか」
責める声ではなかった。
ただ、迷っていた。
自分の立ち位置が、まだ掴めていない声だった。
「出たら利用される。出なかったら不安にさせる。だったら、何を選べば正解なんですか」
「正解が一つだけなら楽なんだけどね」
私は窓の外を見た。
「たぶん、正解は状況で変わる」
「それ、一番困るやつです」
「でしょうね」
私は苦笑した。
「でも、今日の正解はあった」
悠真がこちらを見る。
「あなたは止まった。勝手に走らなかった。砦の守りを崩さなかった」
「でも」
「でも、じゃない」
私は少し強めに言った。
「反省はしていい。でも、自分を罰する材料にするのは違う」
悠真は口を閉じた。
「敵が言葉を置いていったのよ。勇者が出ない砦は腐る、ってね」
「はい」
「それを、あなたが自分で飲み込んでどうするの」
悠真の目が揺れた。
「飲み込む?」
「そう。敵が投げた毒を、自分から拾って飲んでる」
「……そう、なんですかね」
「そうよ」
私ははっきり言った。
「あなたが悩むのはいい。助けたいと思うのもいい。でも、敵が言った言葉で自分を殴るのは駄目」
悠真は、窓枠を握る手に少し力を込めた。
「難しいです」
「難しいわよ」
「ミツネさん、すぐそれ言いますよね」
「だって簡単じゃないもの」
私は肩をすくめた。
「簡単って言ってできなかったら、余計にしんどいでしょ」
「それは、そうです」
「だから難しいって言っておく。その上で、やることを小さくする」
「小さく」
「今日の夜は、まず寝る」
「そこからですか」
「そこからよ。寝不足の勇者なんて、判断力が落ちた危険物でしかない」
悠真が微妙な顔をした。
「危険物……」
「爆発しそうな聖剣持ち」
「やめてください。不安になります」
「不安になったなら、ちゃんと寝なさい」
肩の上でサトリが頷いた。
「寝不足、におい悪い」
「サトリまで」
「事実」
悠真は少しだけ笑った。
さっきより、顔がましになっている。
完全に晴れたわけじゃない。
でも、沈み切ってはいない。
それでいい。
今夜は、それで十分だ。
「ミツネさん」
「なに」
「夢、また来ますかね」
「来ると思う」
私はごまかさなかった。
悠真も、ごまかされたい顔はしていなかった。
「女神様が」
「ええ」
「また、勇者ならこうしろって」
「たぶんね」
私は袖の中から、小さな符を一枚出した。
細長い紙に、簡単な術式を入れてある。
「これ、枕元に置いて」
「お守りですか」
「半分は」
「もう半分は?」
「私が異変に気づくための鈴」
「鈴」
「あなたが夢の中で強く揺れたら、こっちに分かる」
悠真は符を受け取った。
少し緊張した顔で、それを見つめる。
「夢の中でも、今日の練習を思い出して」
「音がしたら走らない、ですか」
「そう」
「夢でも?」
「夢でも」
私は頷いた。
「誰かが助けてって叫ぶ。女神様が行けって言う。目の前で何かが起きる。そういう時ほど、まず周囲を見る」
「周囲を見る」
「おかしなところを探す。誰が言っているのか見る。自分が本当に選んでいるのか、それとも押されているのかを見る」
悠真は、ゆっくり頷いた。
「分かりました」
「完全にできなくてもいい」
「はい」
「ただ、夢の中で一回でも立ち止まれたら、それは勝ち」
「勝ちなんですか」
「勝ちよ。少なくとも、向こうの思い通りに走らなかったなら」
悠真は符を握った。
「やってみます」
「うん」
私は軽く息を吐いた。
「じゃあ寝なさい」
「命令が急ですね」
「寝るのも仕事」
「勇者って、本当に面倒ですね」
「でしょうね」
悠真は今度こそ少し笑って、部屋へ戻った。
扉が閉まる。
私は廊下に残り、扉の横にもう一枚符を貼った。
これで、外側はそれなりに見える。
問題は内側だ。
夢。
信仰。
勇者という肩書き。
そこに入り込む女神様の手。
物理的な結界より、ずっと面倒だった。
「主」
後鬼がいつの間にか、廊下の向こうに立っていた。
「準備は整いました」
「ありがと」
「今夜、来ますか」
「来るでしょうね」
私は扉を見る。
「魔王軍は外から内側を揺らそうとしてる。女神様は最初から勇者に触れてくる」
「別の敵でありながら、狙う場所が近い」
「そう」
私は小さく息を吐いた。
「ほんと、嫌な偶然」
いや。
偶然と言い切るには、少し気持ちが悪い。
でも、今は繋げすぎない。
昼の敵と夜の女神を、同じものとして扱うと判断を間違える。
違う相手。
違う手段。
ただ、どちらも悠真を動かしたがっている。
それだけは確かだった。
夜が深くなると、砦の音はさらに減った。
食堂の火は落とされ、兵舎の灯も一つずつ消えていく。
見張りの足音だけが、一定の間隔で廊下に響いた。
私は悠真の部屋から少し離れた空き部屋に座っていた。
机の上には、符を三枚。
水を入れた小皿を一つ。
そして、悠真に渡した符と繋いだ細い紙縒り。
これが揺れたら、夢が大きく動いた合図になる。
地味。
すごく地味。
でも、夢の中に勝手に飛び込むより安全だ。
陰陽術は万能じゃない。
無理に覗けば、こっちが引っ張られることもある。
女神様相手に、雑な力技はしたくなかった。
「ミツネ、眠い?」
サトリが机の上で丸くなりながら訊いてきた。
「眠い」
「寝る?」
「寝たら怒って」
「分かった。噛む」
「優しく起こして」
「じゃあ、ちょっと噛む」
「噛む前提なのやめて」
後鬼は部屋の隅に立っている。
前鬼は扉の外だ。
エリシアとルークには、異変があれば知らせるとだけ伝えてある。
呼べばすぐ来られる距離にはいる。
けれど、この場に入れるつもりはなかった。
これは夢の奥に触れる術だ。
人が増えれば、それだけ悠真の意識も揺れる。
完全に小さな夜戦だった。
ただし、相手は剣を持っていない。
夢の奥で、優しい声をしてくる。
そういう相手の方が、正直やりづらい。
どれくらい時間が経っただろう。
小皿の水面が、ほんの少し揺れた。
風はない。
机も揺れていない。
来た。
「サトリ」
「うん」
サトリが体を起こす。
後鬼も静かに目を細めた。
紙縒りが、ぴんと張る。
悠真が夢の中で、何かに強く反応している。
私は指先を符に乗せた。
無理に引かない。
ただ、繋がりの端を掴む。
耳の奥に、遠い声が触れた。
助けて。
誰かが叫んでいる。
女の子の声にも聞こえる。
兵士の声にも聞こえる。
たぶん、夢が形を決めきっていない。
次に、柔らかい声が重なった。
『勇者なら、迷わないで』
背筋が冷えた。
やっぱり来た。
『あなたには、救う力があるでしょう』
水面が、もう一度揺れる。
紙縒りが細かく震えた。
悠真が動こうとしている。
私は符に息を吹きかけ、短く唱えた。
「留まれ、境」
強く止める術ではない。
夢の中の悠真に、違和感を送る。
足元に小石を置く程度の術。
でも、今の悠真にはそれでいい。
たぶん、必要なのは壁じゃない。
立ち止まるきっかけだ。
『早く』
女神様の声が、少しだけ近くなる。
『あなたが行かなければ、失われます』
水面が赤く染まったように見えた。
実際に染まったわけじゃない。
そう見えただけだ。
夢の圧が、こちら側にも滲んでいる。
嫌な感じ。
綺麗な声のくせに、やっていることが雑だ。
いや、雑というより、強引。
優しさの形をした命令。
それが一番、たちが悪い。
「悠真」
私は小さく呼んだ。
届くかは分からない。
けれど、呼んだ。
「走る前に、見なさい」
紙縒りが大きく揺れた。
次の瞬間、揺れが止まる。
完全にではない。
でも、さっきまでの引っ張られるような震えが、少しだけ弱くなった。
サトリが耳を立てる。
「止まった」
「うん」
私は符から指を離さない。
夢の向こうで、悠真の息遣いが聞こえた気がした。
走り出す直前の息。
でも、足を止めた息。
『なぜ止まるのです』
女神様の声が、初めて少しだけ揺れた。
『あなたは勇者でしょう』
水面が波立つ。
私は奥歯を噛んだ。
言い方が本当に嫌だ。
勇者なら。
救えるなら。
力があるなら。
それは、責任の形をしている。
でも、中身は選択肢を奪う言葉だ。
悠真の声が、かすかに返った。
『……周囲を、見る』
私は息を止めた。
『誰が、言ってるのか。何に、反応してるのか』
声は震えていた。
たぶん怖い。
夢の中でも、怖いものは怖い。
それでも、止まった。
止まって、見ようとしている。
十分。
今夜は、それで十分だった。
『勇者なら、救いなさい』
女神様の声が、もう一度強くなる。
私は符を押さえ、短く言った。
「切るわよ」
後鬼が一歩前に出る。
「承知」
「悠真には少し響くかも」
「問題ありません」
「問題あるかどうかは本人が決めるんだけどね」
言いながら、私は符の端を指で弾いた。
ぱん、と小さな音がした。
水面が跳ねる。
紙縒りが切れる。
同時に、悠真の部屋の方から小さな声が聞こえた。
「っ……!」
私は立ち上がり、扉を開けた。
悠真の部屋の扉を開ける。
悠真は寝台の上で体を起こしていた。
額に汗が浮いている。
息が荒い。
けれど、夢に飲まれきった目ではない。
「悠真」
私が声をかけると、悠真はこちらを見た。
「……止まりました」
第一声がそれだった。
私は少しだけ口元を緩めた。
「うん」
「走りそうになりました。でも、止まりました」
「見てた」
「夢の中で、声がして」
「うん」
「助けてって。女神様も、行けって」
「うん」
「でも、変でした」
悠真は震える手で布団を握った。
「助けを呼ぶ声が、同じ場所から聞こえなかった。女神様の声だけが、ずっと後ろから押してきた」
「よく気づいたわね」
「ミツネさんの声も、聞こえた気がしました」
「気のせいかも」
「たぶん、気のせいじゃないです」
「じゃあ、気のせいじゃないってことで」
悠真は、少しだけ笑った。
かなり疲れた顔だった。
でも、折れてはいない。
「今は寝なさい」
私が即座に言うと、悠真は苦笑した。
「やっぱりそこなんですね」
「そこよ」
私は枕元の符を回収し、新しい符を置いた。
「次に来たら、さっきより弱く弾く。完全には防げないけど、深くは入れないはず」
「ありがとうございます」
「礼は寝てからでいい」
「それ、礼言えなくないですか」
「起きたら言いなさい」
悠真は少し笑って、ゆっくり横になった。
今度は、さっきより呼吸が落ち着いている。
「……怖かったです」
目を閉じる直前、悠真が小さく言った。
「でも、止まれました」
「うん。それでいい」
怖かった。
それを言えるなら、まだ大丈夫だ。
怖くないふりをし始める方が危ない。
私は悠真の部屋を出て、静かに扉を閉めた。
夜の冷たい空気が肌に触れた。
私は廊下の奥を見る。
沈黙の中で、見張りの足音が遠くに聞こえる。
私は息を吐いた。
眠い。
かなり眠い。
でも、頭は変に冴えていた。
夜はまだ長い。
魔王軍が本当に内側を揺らすつもりなら、噂だけで終わるとは限らない。
女神様も、今夜これで終わりとは限らない。
それでも一つ、分かったことがある。
悠真は止まれた。
夢の中で。
女神様の声を聞きながら。
それは小さなことかもしれない。
でも、小さくない。
勇者が、自分の足で止まったのだ。
「主」
後鬼が静かに声をかけてくる。
「次の符を用意します」
「お願い」
「はい」
私は廊下の窓から、夜の外を見た。
門の向こうは暗い。
林も見えない。
そこに魔王軍の目があるのかは分からない。
でも、見られている前提で動く。
押されている前提で踏みとどまる。
そして、言葉の毒は飲ませない。
今日決めたことが、夜になってようやく形になった。
私は袖の中で、残りの符を確かめる。
この世界は――
寝かしつけひとつ取っても、いちいち雑すぎる。




