第42話 水音のない夜
夕方、日が沈みかける頃、砦の空気は一見すると落ち着いて見えた。
東門の見張りは、増員した。
祈りの間は、封鎖された。
共用の水差しは元の位置から回収され、共用の水は一時的に管理しやすい場所へ移された。
表向きの動きは、それだけだ。
兵たちは普段通り夕食を取り、見張りや巡回に立ち、廊下を歩いている。
けれど、普段通りに見せようとしている人間ほど、無意識に足音が硬い。
声が低い。
笑いが短い。
不安は、隠そうとすると余計に顔を出そうとする。
本当に扱いづらい。
毒なら符で祓える。
呪いなら術式を見ればいい。
でも、人の不安はそうはいかない。
雑に押さえ込めば、だいたい別の場所から漏れる。
「主。」
後鬼が水差しを置いた机の横に立った。
「東門、祈りの間、井戸周辺への符は配置済みです。」
「ありがとう。」
私は机の上に並べた小さな符を見下ろした。
水差し用。
井戸用。
廊下用。
祈りの間用。
悠真の部屋用。
並べてみると、ずいぶん広い。
勇者の夢を見張っていたはずが、気づけば水回りまで見張っている。
異世界調査って、ここまで生活インフラに踏み込む仕事だっただろうか。
少なくとも、陰陽寮から渡された依頼書には書いてなかった。
説明不足にもほどがある。
この世界の女神様だけじゃなく、うちの上もなかなか雑かもしれない。
「ミツネ。」
サトリが机の上に乗り、符の端を前足でつついた。
「これ、鳴る?」
「鳴るというか、揺れる。」
「水が?」
「水と、それに触れた気配が。」
「においも?」
「それはサトリの方が早い。」
サトリは少し得意げに尻尾を揺らした。
「まかせて。」
「頼りにしてる。」
「もっと褒めて。」
「今、忙しい。」
「けち。」
このくらいのやり取りがある方がいい。
部屋の空気が重すぎると、全員が必要以上に身構える。
身構えすぎた人間は、逆に小さな異変を見落とす。
肩に力が入りすぎると、視野が狭くなる。
それは悠真を見ていて、よく分かった。
その悠真は、机の向こうで水差しをじっと見ていた。
顔は真面目だ。
真面目すぎる。
「悠真。」
「はい。」
「水差しを睨んでも、たぶん自白はしないわよ。」
「すみません。」
「謝るところじゃない。」
悠真は困ったように視線を上げる。
「でも、水にまで仕掛けがあると思うと、何を信じればいいのか分からなくなります。」
「水は信じていい。」
「いいんですか?」
「水そのものはね。」
私は水差しを指で軽く叩いた。
「問題は、それを扱う仕組みと、そこへ何かを混ぜる人間。」
悠真は少し考え込む。
「信じる相手を、分ける。」
「そう。」
私は頷いた。
「水が悪いんじゃない。」
「水差しが悪いんでもない。」
「水を管理する仕組みと、そこへ入り込むやつが悪い。」
「女神様の夢も、ですか。」
悠真の声が少し小さくなった。
私は即答しなかった。
ここは軽く答える場面じゃない。
「女神様も、同じように見た方がいい。」
「同じように。」
「女神様という存在。」
「女神様の名前。」
「女神様の声に似たもの。」
「女神様の導きだと思い込ませる仕掛け。」
私は一つずつ指を折る。
「それを全部一緒くたにまとめると、見誤る。」
悠真はゆっくり頷いた。
「怖いですね。」
「怖くていい。」
「またそれですか。」
「ええ。」
私は袖の中の符を直した。
「怖くないふりをする勇者より、怖いと分かって止まれる勇者の方がまし。」
悠真は少しだけ笑った。
「まし、なんですね。」
「褒め言葉よ。」
「ミツネさんの褒め言葉、だいたい分かりづらいです。」
「分かりやすい褒め言葉は、エリシアに任せる。」
少し離れた場所にいたエリシアが、困ったように微笑んだ。
「私に振られても困ります。」
「得意そうだから。」
「得意ではありません。」
「でも、私よりは上手いでしょ。」
エリシアは否定しなかった。
その横顔には、まだ疲れが残っている。
祈りの間。
リリア。
祈香。
女神様の導きに似た鈴。
信仰を持つ彼女にとって、今日の出来事はかなり重いはずだ。
それでも逃げずにここにいる。
それだけで十分強い。
女神様本人より、よほど管理に向いている気がする。
現場の運用を知らない管理者ほど迷惑なものはない。
神様なら、なおさらだ。
「ミツネ殿。」
ルークが部屋に入ってきた。
「東門は表向き通常通りにしている。」
「見張りは?」
「二人増やしたが、配置は変えて見えにくくした。」
「いいわね。」
「外の足跡は、今のところ増えていない。」
「今のところ、ね。」
「ああ。」
ルークは机の上の水差しを見る。
「これを囮にするのか。」
「囮というほど派手なものじゃない。」
私は答えた。
「触られたら分かる。」
「水に反応が出ても分かる。」
「誰かが近づいても、サトリがだいたい気づく。」
「だいたい。」
サトリが少し不満そうに言った。
「かなり気づく。」
「じゃあ、かなり。」
サトリは満足げに頷いた。
ルークが小さく息を吐く。
「これで相手が動くと思うか。」
「動かないかもしれない。」
「なら。」
「でも、こちらが水を見張ると決めたことは、相手にとって面白くないはず。」
私は水差しの底を見る。
「仕掛けが残っているか確認したいなら、今夜は来る。」
「仕掛けを放置するつもりなら、来ない。」
「来なければ?」
「水差し以外を使ってくる。」
ルークの眉が寄る。
「井戸か。」
「あるいは、人。」
部屋が静かになる。
人を経路にする。
ここ数話、ずっとその話をしている気がする。
勇者。
兵士。
神官補佐。
門番。
清掃係。
人は物より扱いにくい。
でも、うまく使われると物より厄介だ。
しかも、この世界の仕組みは人の善意を前提にしすぎている。
善意を前提にした管理は、善意のない相手に弱い。
当たり前だ。
当たり前なのに、なぜか偉い人ほど忘れる。
「今夜、悠真殿はどうする。」
ルークが訊いた。
悠真が少し背筋を伸ばす。
「俺も見張ります。」
返事が早い。
やっぱり早い。
私は悠真を見る。
「見張るって、何を?」
「えっと。」
悠真は一瞬詰まった。
「水差しと、俺自身の反応を。」
私は少しだけ口元を緩めた。
「合格。」
「合格なんですか。」
「さっきより良い答え。」
悠真は少し安心した顔をした。
「ただし、前に出ない。」
「はい。」
「誰かが倒れても、まず見る。」
「はい。」
「声がしても、すぐに走らない。」
「はい。」
「水差しが爆発しても?」
悠真が固まった。
「爆発、するんですか。」
「しないと思う。」
「思う。」
「絶対とは言わない。」
「怖いです。」
「だから見る。」
悠真は諦めたように頷いた。
「分かりました。」
夜が深くなり、夜警を除いて皆が寝静まると、砦の音は少しずつ減っていった。
食堂の火が落ちる。
兵舎の話し声が小さくなる。
廊下を歩く足音が一定になる。
見張りの靴音。
鎧の擦れる音。
遠くで水桶が置かれる音。
そして、時々、誰かが咳をする音。
何もない夜ではない。
でも、何かが起きる前の夜だった。
そういう夜は、嫌なほど静かに聞こえる。
私は水差しの前に座り、指先を符に乗せていた。
サトリは机の端で丸まっている。
後鬼は扉の横。
前鬼は廊下の奥。
悠真は少し離れた椅子に座っている。
エリシアは祈りの間側の符を見ている。
ルークは東門とこの部屋を行き来していた。
完全に小さな夜戦だ。
相手は姿を見せていない。
剣も持っていない。
水と匂いと鈴で攻めてくる。
本当に陰湿だ。
派手な魔王軍より、こういう相手の方が私にはずっと嫌だ。
「ミツネ。」
サトリがふと耳を立てた。
「におい。」
「どこ。」
「水。」
私はすぐに水差しを見る。
水面は静かだった。
符もまだ揺れていない。
「触られてない。」
「でも、におい来た。」
「外から?」
「違う。」
サトリは鼻をひくつかせる。
「中から。」
中。
水差しの中。
私は符に力を込める。
墨がわずかに滲んだ。
灰色。
白。
それから、黒が細く浮かぶ。
「来た。」
悠真が息を呑む。
「誰か触りましたか。」
「触ってない。」
私は水面を見た。
「触ってないのに、動いた。」
水面に、小さな輪が広がった。
ぽつん。
まるで、見えない水滴が落ちたみたいに。
もう一度。
ぽつん。
音はしない。
水音がない。
でも、水面だけが揺れる。
かなり嫌な感じだった。
「鈴は?」
ルークが低く訊く。
「まだ。」
そう答えた直後だった。
遠くで、りん、と鳴った。
小さい。
本当に小さい。
普通なら聞き逃す。
でも、今の部屋では全員がその音を拾った。
悠真の肩が動く。
エリシアの指が祈具に触れる。
後鬼が目を細める。
前鬼の気配が廊下で低くなった。
「どこから。」
ルークが訊く。
私は水差しから指を離さない。
「水差し。」
「水差しが鳴ったのか。」
「違う。」
私は奥歯を噛む。
「水を通して鳴らしてる。」
「井戸か。」
「たぶん。」
水は繋がっている。
井戸。
桶。
水差し。
人の口。
体の中。
そこを通して、鈴の感覚を流す。
かなり悪質だ。
そして、かなり現実的でもある。
この世界の水管理は、神殿の清めと生活用水が近すぎる。
清めるものと飲むものを、感覚で同じように扱っている。
信仰の匂いを混ぜれば、それらしく見える。
雑な設計だ。
本当に、運用前に誰か止めなかったのか。
「主。」
後鬼が廊下へ視線を向けた。
「誰か来ます。」
足音がする。
ふらついた足音。
急いでいるわけではない。
でも、まっすぐこちらへ近づいてくる。
ルークが扉の横に立つ。
私は悠真を見る。
「動かない。」
「はい。」
悠真は膝の上で拳を握った。
足は動いていない。
よし。
扉の前で足音が止まった。
小さな声がする。
「水を。」
ルークが扉を開けた。
そこに立っていたのは、ニールだった。
顔色が悪い。
目が少し虚ろだ。
「水を、飲ませてください。」
ルークが一歩前に出る。
「ニール。」
「喉が、渇いて。」
ニールの声は乾いていた。
でも、汗はほとんどない。
本当に喉が渇いている人間の様子とは少し違う。
「自分の部屋に水は?」
ルークが訊く。
「ここで飲めば、大丈夫だと。」
「誰に言われた。」
ニールは瞬きをした。
「誰に。」
「そうだ。」
「分かりません。」
「分からないのに来たのか。」
「水を飲めば、大丈夫だと。」
まただ。
目的の分からない安心。
意味のない確信。
人を動かすには十分で、説明するには空っぽの言葉。
本当に嫌になる。
「悠真。」
私は小さく呼んだ。
「はい。」
「今、何に反応した?」
悠真はニールを見つめたまま答えた。
「助けたくなりました。」
「どうしたい?」
「水を渡したくなりました。」
「渡す?」
悠真は一度、唇を噛んだ。
「渡しません。」
「理由は。」
「ここに来た理由が、本人の意思か分からないから。」
「よし。」
ニールの体がふらつく。
悠真の肩がまた動いた。
でも、足は動かない。
止まっている。
かなり良い。
「ルーク。」
「分かっている。」
ルークがニールの腕を取り、その場に座らせた。
後鬼が静かに背後へ回る。
「主。」
「符を。」
後鬼がニールの額の前に符をかざす。
符の墨が薄く滲んだ。
灰色。
白。
黒。
そして、ほんの少しだけ水色。
「水系の誘導。」
私は呟いた。
「やっぱり、水を経由してる。」
「水を飲ませたらどうなる。」
ルークの声が低い。
「分からない。」
「だが、良くはないな。」
「ええ。」
私は水差しの前に戻り、符を一枚追加した。
「水を飲めば、大丈夫。」
「大丈夫の中身が空っぽ。」
「それなのに、人は動く。」
エリシアが低く言う。
「祈りの間でリリアが感じた安心と同じ。」
「そう。」
私は頷いた。
「安心を餌にしてる。」
悠真が顔を歪める。
「助けて、じゃなくて。」
「今度は、大丈夫。」
「はい。」
「危険を煽るんじゃなくて、安心をぶら下げる。」
私は水差しを見る。
「本当に、たちが悪い。」
ニールは座り込んだまま、小さく震えていた。
「すみません。」
「謝る前に、今何が聞こえたか言いなさい。」
私が言うと、ニールは必死に思い出そうとした。
「鈴の音がしました。」
「どこで。」
「部屋で。」
「その後は。」
「喉が渇いて。」
「本当に渇いた?」
「分かりません。」
「水を飲まなければならないと思った?」
「はい。」
「ここの水差し?」
「はい。」
「どうして、この水差しだと分かった?」
ニールの顔が青ざめる。
「分かりません。」
分からない。
でも、来た。
それが答えだ。
道筋を頭に入れられた。
あるいは、水の匂いを追わされた。
「ニール自身の意思だけじゃない。」
ルークが言った。
「そうね。」
私は答える。
「本人を責める前に、仕掛けを切る。」
悠真がニールを見ている。
その目には不安があった。
でも、前みたいにただ揺れていない。
「ミツネさん。」
「何。」
「俺も、同じように動かされるかもしれませんか。」
「可能性はある。」
「水を飲んだら?」
「飲まなくても、声や夢で来る。」
「じゃあ、どうすれば。」
「一人で判断しない。」
私は言った。
「喉が渇いたと思ったら、水を飲む前に誰かに言う。」
悠真が困った顔になる。
「そこまでですか。」
「そこまで。」
私は水差しを指で叩いた。
「水も、夢も、祈りも、全部確認対象。」
「本当に生活しづらいですね。」
「管理が雑な世界で生きるって、そういうことよ。」
サトリがこくこく頷いた。
「水も疑う。」
「疑いすぎてもよくないけどね。」
「むずかしい。」
「そう。」
私は小さく息を吐いた。
「難しいのよ。」
その時、水差しの符が強く揺れた。
水面が、今度は内側から盛り上がる。
ぽつん、ではない。
ぐ、と何かが押してくる。
「来る。」
私は符を掴んだ。
水差しの中で、白い糸のようなものが浮かび上がる。
細い。
細すぎる。
でも、確かにある。
それは水の中で輪を描き、鈴のような形を作りかけていた。
「前鬼。」
「応。」
前鬼が廊下から飛び込んでくる。
「割るか。」
「水差しは割らない。」
「難しいな。」
「中だけ断つ。」
「もっと難しいな。」
「後鬼。」
「はい。」
後鬼が前鬼の横に立つ。
私は水差しの口に符を貼り、短く息を吹き込んだ。
「流れを止める。」
符が水面に触れる。
じゅ、と小さな音がした。
白い糸が暴れる。
鈴の形が崩れ、音にならない音が部屋に広がる。
耳ではなく、頭の奥に響く。
悠真が顔を歪めた。
エリシアも膝をつきかける。
ニールが苦しそうに喉を押さえた。
「見るな。」
私は言った。
「聞くな。」
「流れてくるものを、自分の声だと思うな。」
悠真が歯を食いしばる。
「はい。」
私は符を押し込む。
「留まれ、水脈。」
白い糸が切れた。
水面が跳ねる。
その瞬間、部屋の外で何かが倒れる音がした。
「外。」
ルークが剣に手をかける。
「待って。」
私は即座に止めた。
「今の音も釣りかもしれない。」
ルークは動きを止めた。
さすがに早い。
悠真も動いていない。
よし。
「サトリ。」
「人が倒れた。」
「誰。」
「トーマ。」
清掃の少年兵か。
悠真の顔が変わる。
「トーマが。」
「動かない。」
私は強めに言った。
悠真の足が止まる。
「でも。」
「見る。」
私は後鬼に視線を向けた。
「後鬼、確認。」
「承知。」
後鬼が音もなく部屋を出る。
数秒。
長く感じた。
すぐに戻ってくる。
「トーマ兵士が廊下で倒れています。」
「状態は。」
「意識あり。」
「罠は。」
「周囲に強い反応はありません。」
「運ぶ。」
「はい。」
後鬼がトーマを抱えて戻ってきた。
トーマは顔色が悪く、額に汗を浮かべている。
「水を。」
かすれた声だった。
「やっぱり。」
私は低く呟いた。
一人ではない。
ニールだけではない。
水を飲ませるために、人を動かしている。
「トーマ。」
私は膝をついた。
「鈴の音は聞いた?」
トーマは小さく頷いた。
「桶の、水が。」
「水が?」
「呼んで。」
エリシアが息を呑む。
私は奥歯を噛んだ。
水が呼ぶ。
最悪だ。
信仰の声。
夢の声。
助けを求める声。
安心させる声。
今度は、水。
この世界の生活の中にあるものを、どんどん経路にしてくる。
本当に、相手は人間の動かし方を分かっている。
そして、人間の尊重はまるでしていない。
仕組みは丁寧。
人の扱いは雑。
もう、笑えないくらいそのままだ。
「ルーク。」
私は立ち上がった。
「今夜、井戸を閉じる。」
部屋の空気が凍る。
「井戸を閉じれば、砦の水が止まる。」
ルークが言う。
「分かってる。」
「長くは無理だ。」
「一晩だけ。」
私は水差しを見る。
「今夜だけは、管理下の水以外を飲ませない。」
「兵の反発が出る。」
「出るでしょうね。」
「理由は。」
「言える範囲で言う。」
私は低く言った。
「水に仕掛けが混ざった可能性がある。」
「それだけで十分。」
ルークは一瞬だけ考え、すぐに頷いた。
「分かった。」
「ガルドに井戸を押さえさせる。」
「エリシア。」
私は振り向いた。
彼女はまだ少し顔色が悪い。
でも、立っていた。
「祈りの間側の水と清めの水も全部止める。」
「はい。」
「反発が出る。」
「承知しています。」
「信仰を否定してるんじゃない。」
「分かっています。」
エリシアは小さく息を吐いた。
「清めの水を悪用された可能性があるなら、止めるべきです。」
「強いわね。」
思わず言うと、エリシアは少しだけ苦笑した。
「強くはありません。」
「強いわよ。」
私は言った。
「目を逸らさないだけで、十分強い。」
エリシアはそれ以上何も言わなかった。
悠真がトーマの横に膝をついている。
でも、水は渡していない。
手を握っているだけだ。
「大丈夫です。」
悠真がトーマに言った。
「水は今、確認してからです。」
「少し待ってください。」
トーマは苦しそうだったが、頷いた。
その様子を見て、私は少しだけ息を吐く。
悠真は動けている。
助けたい気持ちを捨てずに、勝手に水を渡さず、止まれている。
かなり進歩だ。
女神様が雑に勇者へ背負わせたものを、現場で一つずつ解体している気分になる。
本当に、教育費を請求したい。
「主。」
後鬼が静かに言った。
「外に気配があります。」
「東門?」
「井戸側です。」
来た。
やっぱり来た。
水の経路を切られたことに気づいたのか。
それとも、切らせるために仕掛けたのか。
まだ分からない。
でも、相手は見ている。
こちらがどこまで気づいたか。
どこを閉じるか。
誰を動かすか。
全部、見ている。
「追う?」
前鬼が低く訊いた。
「追わない。」
私は即答した。
「今追えば、井戸が空く。」
「なら守るか。」
「そう。」
私は袖の中の符を取った。
「今夜は追う夜じゃない。」
「閉じる夜。」
ルークが剣を抜いた。
「東門と井戸に人を回す。」
「見せすぎないで。」
「ああ。」
「相手が見ている前提で。」
「分かっている。」
悠真が立ち上がった。
「俺は。」
「ここ。」
私は言った。
「ニールとトーマを見る。」
「でも。」
「水に反応した二人を見て。」
私は悠真を見る。
「あなたが一番、自分のこととして見られる。」
悠真は息を呑んだ。
それから、頷く。
「分かりました。」
「勝手に水を飲ませない。」
「はい。」
「二人が苦しんだら、呼ぶ。」
「はい。」
「自分も喉が渇いたら言う。」
「はい。」
サトリが小さく笑った。
「勇者、水も報告。」
「もう何でも報告ですね。」
悠真が苦笑する。
「そう。」
私は水差しを抱え、符で封じた。
「雑な世界では、報告が命綱。」
「それ、兵士向けの標語にできますね。」
「嫌すぎるわ。」
私は扉へ向かった。
廊下の向こうでは、兵たちが慌ただしく動き始めている。
ただし、まだ大声は出していない。
ルークの指示が効いている。
井戸を閉じる。
水を止める。
たったそれだけのことが、砦全体を揺らす。
水は毎日使う。
誰も疑わない。
だからこそ、そこを突かれると痛い。
信仰も同じ。
勇者も同じ。
正しそうなものほど、疑われない。
疑われないものほど、使われる。
本当に、嫌な相手だ。
廊下の窓から、夜の中庭が見えた。
井戸の周りに、影が落ちている。
その影の奥に、何かがいる気配がした。
はっきりとは見えない。
でも、見られている感じだけが残る。
私は狐面の位置を指先で確かめた。
この世界は、雑だ。
水の管理も、信仰の扱いも、勇者の育て方も、何もかも穴だらけだ。
そして、その穴を丁寧に使ってくる相手がいる。
だから、今夜は閉じる。
一つずつ。
面倒でも。
地味でも。
水音のしない夜の中で、私は井戸へ向かった。




