第31話 選ばせる声
夜の砦は、昼より静かなぶんだけ落ち着かない。
見張りの足音。遠くで鳴る鎧の金具。風に揺れる旗の布擦れ。
耳を澄ませば、いくらでも音は聞こえてくる。
それでも夜は静かだった。
その静けさの奥で、見えないものだけが動いている気がする。
「準備はできたわ」
私は札を指で整えながら言った。
部屋の中央には簡易の寝台があり、その周囲に浅く円を描くように符を置いてある。
昨日までとは少し違う並びだ。
閉じきらない。
守りきらない。
その代わり、夢に入ってきたものがどう動くかを見る。
今夜は、そのための配置だった。
寝台の端に腰かけた悠真が、落ち着かない様子で周囲を見る。
「これ、昨日までと違いますよね」
「違うわよ」
「やっぱり」
私は最後の一枚を置いてから顔を上げた。
「今日は守るだけじゃないの。見る」
「……痛かったりしますか」
「夢の中で揺さぶられる可能性はある」
「それ、だいぶ嫌ですね」
「でしょうね」
でも、もう見ないふりはできない。
後鬼は部屋の隅で静かに目を伏せていた。
前鬼は廊下側の警戒。
サトリは私の肩の上で、いつもより尻尾を細くしている。
「ミツネ。来るなら、今日もたぶん奥からだよ」
「ええ。わかってる」
私は悠真を見る。
「ひとつだけ。今夜、何か声がして問われても、すぐに答えようとしないで」
「答えたら駄目ですか」
「駄目とまでは言わない。でも、選ばされてると思ったら止まって」
「選ばされる?」
その顔は、まだ半分わかっていない。
それでいい。
「“今すぐ決めろ”って押されるのと、“自分で選んだでしょ”って形にされるの、どっちが厄介だと思う?」
「……後者、ですか」
「そう。だから今日はそこを見る」
悠真は少し黙ってから、小さく息を吐いた。
「わかりました」
「よろしい」
私は寝台の脇に腰を下ろす。
「じゃあ、始めるわよ」
札に指を当て、息を整える。
浅く、一定に。閉じすぎず、開きすぎず。
術は、その加減がいちばん面倒だ。
部屋の空気が少しずつ薄く張る。
後鬼が低く唱和し、私の術式を下から支えた。
白く細い線のようなものが、寝台の周りにぼんやりと浮かぶ。
悠真が目を閉じた。
「眠って」
「はい」
返事はすぐだった。
そのまま呼吸が、ゆっくり深くなる。
私は目を閉じないまま、意識だけを浅く潜らせた。
暗い。
でも、昨日より暗さが均一じゃない。
沈みかけた水の底みたいな感触の中に、やわらかく明るい場所がある。
ああ、と思う。
これだ。
向こうは、最初からここを作っていた。
冷たい闇じゃない。
怖い声でもない。
安心して踏み込みたくなる、都合のいい場所。
草原。風。眩しすぎない光。
夢の形を借りているけれど、夢ではない。
誰かの意図が、綺麗に均されている。
「……来たわね」
私が小さく呟くと、サトリが耳を伏せた。
「やな感じ」
「知ってる」
草原の向こうに、人影が立っている。
顔は見えない。
輪郭も曖昧だ。
でも、不快なくらい自然に、そこにいる。
悠真がそちらへ一歩、踏み出しかけた。
私はすぐに札へ指を滑らせる。
止めない。
今夜は、止めるためじゃなく見るための術だ。
影が手を差し出す。
声がした。
『急がなくていい』
『君が決めればいい』
『選ぶのは、君だ』
優しい声だった。
優しすぎる、と言っていい。
昨日までみたいな急かし方じゃない。
責めもしない。命じもしない。
ただ、選択だけを差し出してくる。
その形が、いちばん悪い。
悠真の呼吸が少しだけ乱れた。
草原の景色が揺れる。
光の奥に、砦の門が見えた。
誰かが倒れている。
兵の叫び。血。
遅れれば間に合わない。そう思わせる場面を、丁寧に見せてくる。
雑だ。
雑なくせに、刺さる場所だけは外してこない。
『間に合うかもしれない』
『助けられるかもしれない』
『君なら、助けられる』
私は眉をひそめた。
そういうことか。
命令じゃない。
責任感に寄せてる。
悠真自身の「助けたい」を使って、心を動かすつもりだ。
「……ほんと、感じ悪い」
その瞬間、悠真の指先がわずかに動いた。
夢の中で、さらに一歩出ようとする気配。
そこだった。
「後鬼」
「はい」
私は札を一枚、裏返す。
術の流れが少しだけ変わる。
閉じるのではなく、ひっかける。
夢の縁に爪を立てるように。
景色がぶれる。
草原の光が揺れ、差し出された手の輪郭がわずかに歪んだ。
その奥に、別のものが見える。
細い糸みたいな干渉。
声そのものより、その手前。
迷いが立ったところへ、すっと滑り込んでくる線。
「見えた」
私が低く言うと、後鬼が静かに頷いた。
「一点からではありませんね」
「ええ。問いを投げて、揺れた方へ寄せてる」
つまり、最初から答えを押し込んでいるわけじゃない。
迷わせる。
揺れた方へ、優しく押す。
その方が、本人の意志に見える。
厄介極まりない。
悠真の眉間にしわが寄った。
『選んだのは、君だ』
また、その声。
今度は少し近い。
私はためらわず、二枚目の札を切った。
「そこまで」
鈴を鳴らす。
澄んだ音が一度、部屋に広がった。
夢の景色がひび割れる。
草原が消え、光が散り、人影の輪郭だけが最後にわずかに揺れた。
その瞬間、声の温度が変わった気がした。
優しさの下に、ほんの少しだけ焦りが混じる。
――見られた。
そんな感じの、揺れだった。
悠真が大きく息を吸って、目を開けた。
「っ……は」
汗が額に滲んでいる。
私はすぐに水差しを寄せた。
「飲む?」
「……もらいます」
受け取った手が、少し震えている。
「どうだった」
「怖い夢、って感じじゃなかったです」
「ええ」
「なのに、行かなきゃ駄目な気がした」
私は黙って続きを待つ。
悠真は水をひと口飲んでから、低く言った。
「命令されてる感じじゃないんです。自分で決めるしかないって思わされるというか……」
「でしょうね」
「でも、あれ、変です」
少しだけ顔を上げる。
「自分で決めるはずなのに、考える時間がない」
「そこよ」
私は頷いた。
「選ばせる形をしてるだけ。本当は、迷った先をいちばん都合のいい方へ流してる」
「……そういうの、いちばん嫌ですね」
「私も嫌い」
サトリが肩の上で、ふす、と息を吐いた。
「優しいふりしてるの、きらい」
「ほんとそれ」
後鬼が静かに整理するように言った。
「干渉は一点突破ではありません。勇者殿の迷いに反応して、複数の位置から薄く入り込んでいました」
「ええ。だから閉じるだけじゃ足りない」
私は指先で札を撫でる。
「次は“入ってきたあと”じゃなくて、“迷いが立つ手前”を押さえる」
「できますか」
「面倒だけど、やる」
「面倒なんですね」
「ものすごくね」
そう返すと、悠真は少しだけ笑った。
その笑い方が、さっきよりまともだったから、少しだけ安心する。
私は立ち上がって、窓の外を見る。
夜はもう深い。
砦の灯りは点いているけれど、その外は暗い。
暗いまま、何かがこちらを見ている気配がする。
「主」
廊下側に立っていた前鬼が、短く声をかけてきた。
「魔王軍、少し動きがありました」
「砦の外?」
「はい。見張りが二度、合図を返しています」
私は窓から視線を外した。
魔王軍も動く。
女神も、夢で勇者を誘導して都合よく動かそうとする。
ほんとに、休ませる気がない。
「……まあ、そうよね」
私は小さく息を吐く。
今日見えたのは、たぶん入口だけだ。
でも、入口が見えたなら十分だった。
切り方を考えられる。
次は、もう少し深く踏み込める。
悠真が寝台の上で、まだ少し青い顔のままこちらを見た。
「ミツネさん」
「なに」
「今日のあれ、また来ますか」
「来るわよ」
私は即答した。
「たぶん、向こうも今日ので終わったとは思ってない」
「ですよね」
「でも、こっちも同じ」
私は札を一枚、袖へ戻した。
「見られたままで終わるつもりはないから」
風が窓を鳴らす。
夜はまだ長い。
でも、昨日までよりはましだった。
見えなかったものが、少し見えたからだ。
私は灯りの揺れる部屋の中で、静かに目を細める。
この世界は――
優しい顔をした押しつけ方まで、雑すぎる。




