第27話 遠くなる声
その夜の砦は、襲来を待つように静かだった。
見張りの数は増えている。
西門側の結界柱には臨時の灯りが足され、神官見習いの代わりに年配の神官が二人、交代で張りついていた。
東門側でも回収した補給物資の積み直しがまだ続いていて、荷車の車輪が時々だけ低い音を立てている。
止まってはいない。
でも、誰も騒がない。
砦全体が、息を浅くして朝を待っているみたいだった。
「……嫌な静かさね」
窓の外を見ながらそう言うと、肩の上でサトリが耳を揺らした。
「うん。みんな無理してる感じ」
「寝ないと回らないからでしょ」
「でも、眠れてない人も多いよ」
それはそうだろう。
昼は、魔王軍の斥候に補給路を探られた。
夜は結界の綻びを撫でられた。
しかも相手は、壊しに来るんじゃない。
見て、確かめて、覚えて帰る。
気味が悪いに決まっている。
私は卓の上に並べた霊符を見下ろした。
それでも、悠真には休ませないといけない。
今夜使うのは二枚。
一枚は護眠符。
もう一枚は、さっき急いで書き足した補助符だ。
「また増えた」
リゼが、いつの間にか背後から覗き込んでいた。
「近い」
「今日は近いってよく言うわね」
「みんな距離が近いのよ」
リゼは笑って、でもすぐ霊符へ視線を戻した。
「その新しいのは?」
「夢の入口を少しずらす」
「またずらすの」
「今回は少し深めに」
私は札の端を指で押さえた。
「昼は魔王軍が外から様子を探ってきた。夜は女神が内側から勇者を探ってくる」
リゼが小さく首を傾げる。
「でも?」
「探り方だけは、妙に似てる」
対象をちゃんと見ない。
疲労を軽く見る。
とにかく、自分の思惑どおり動かせればいい。
そういう雑さだけが、嫌なくらい重なる。
「……感じ悪いわね」
「ええ」
砦内で勇者一行に割り当てられた部屋。
今夜も悠真の寝床は窓際に置かれていた。
他の連中も同じ部屋にいる。前線で個室なんて贅沢はない。
ルークはもう壁際で目を閉じている。
ガルドは座ったままうとうとしていて、フィーナは毛布を抱えたまま眠気と戦っていた。
前鬼は言うまでもなく、とっくに寝ている。
後鬼だけが、少し離れた場所で静かに立っていた。
「ミツネ様」
「なに」
「今夜は、昨日より深く眠りに落としますか」
「ええ」
「反発は?」
「あるでしょうね」
私は札を持ち上げる。
「でも、今夜は強く押すより、静かに入り込んでくる気がする」
後鬼が静かに目を細めた。
「女神がこちらの反応を見たからですね」
「たぶんね。勇者の内側を、慎重に探ってくるはずよ」
「順に確かめてくるのですね」
「ええ。そういうやり方」
その時、部屋の入口で小さく気配がした。
悠真だ。
さっきまでフィーナと何か話していたはずなのに、気づけばこっちを見ていた。
「……なに」
私が言うと、悠真は少しためらってから口を開いた。
「今夜も、やるんですよね」
「やるわよ」
「その、護眠符」
「ええ」
悠真は少し黙る。
言葉を選んでいる顔だ。
「昨日よりよく眠れたの、たぶんそれのおかげですよね」
「たぶんじゃなくて、かなりそう」
「ですよね」
彼は苦笑した。
それから、視線を少しだけ落とす。
「……ありがとうございます」
私は思わず黙った。
真正面から礼を言われると、少し困る。
しかもこの子、こういう時だけ妙に真っ直ぐだ。
「礼を言うのは、ちゃんと眠れてからにしなさい」
「はい」
素直だ。
でも、その返事のあとに少し間があった。
「まだ何かあるの?」
「あります」
悠真は小さく息を吸った。
「今日の西門の見習いの人みたいに、知らないところで無理してる人が他にもいるなら」
「いるでしょうね」
「……やっぱり」
彼はまた黙る。
嫌な予感がした。
「言っとくけど」
先に切る。
「全部を助けに行かないで」
悠真が顔を上げた。
「まだ何も言ってないです」
「顔が言ってる」
少しだけ、部屋の空気が緩んだ。
リゼが肩を震わせている。
ガルドも薄く笑った。
悠真は少し困った顔をしたあと、それでも頷いた。
「……気をつけます」
「気をつけるじゃなくて、やめる方向で考えなさい」
「努力します」
「そこは即答しなさいよ」
思わずそう返すと、今度は悠真も少しだけ笑った。
その顔を見て、私はようやく札を持って近づく。
「寝るわよ」
「はい」
枕元に護眠符。
その少し下に、もう一枚。
「これは?」
「夢の深さをずらす」
「また難しいこと言ってる」
「理解しなくていい」
私は小さく唱えた。
「護。沈」
札が淡く光る。
すぐにその光は沈み、部屋の空気に溶けていった。
「これで少しはマシになる」
「少し、ですか」
「相手が相手だから」
「そうでした」
悠真は苦笑したまま横になる。
その顔にはまだ緊張が残っている。
でも、最初の頃よりはずっとましだ。
少なくとも、全部を一人で抱えたまま眠りに落ちる顔ではなくなってきている。
夜が深くなる。
見張りの交代。
結界柱の低い唸り。
風の音。
砦の中で誰かが咳をする気配。
私は壁にもたれ、目を閉じた。
悠真の眠りは、最初は静かだった。
護眠符は効いている。
今夜は落ちるのも早い。
でも、その深さの向こうで、何かが待っていた。
「……来る」
サトリが囁く。
私は目を閉じたまま、意識だけを寄せる。
白い場所。
またあの、輪郭のない明るさだ。
でも前までと少し違う。
静かすぎる。
急げ。
止まるな。
遅れれば被害が増える。
そういう押し方じゃない。
代わりに、見られている感じだけが、じわじわ広がる。
「……嫌な変わり方」
私が小さく呟くと、後鬼が答えた。
「押すより、選ばせる方向へ寄せていますね」
「ええ」
次の瞬間だった。
眠ったままの悠真の指先が、わずかに強張る。
「……えら、べ」
小さな声だった。
私は目を開く。
来た。
今度は“急げ”じゃない。
「……どれ、を」
言葉が途切れる。
それでも十分だった。
前より静かだ。
でも、だから余計に悪い。
圧の方向が変わっている。
進めと押すんじゃない。
何かを選ばせる。
選ばなければ間に合わないと、そう思わせる形だ。
「やり方を変えてきたわけね」
私の声は低かった。
「昼の探りとは別のやり方。こっちはこっちで、内側から攻めてくる」
後鬼が静かに目を細める。
「ええ。より直接的ではなく、より厄介に」
珍しく、意見が完全に一致した。
私は護眠符の端を指で押さえる。
もう一枚の補助符が薄く光り、夢の深さを少しだけ揺らした。
白い空間が遠のく。
悠真の呼吸が少しだけ落ち着く。
でも、完全には消えない。
「選べって、何を……」
サトリが不安そうに言う。
「まだわからない」
私は首を振る。
「でも、今までより悪い」
急がせる方が単純だ。
選ばせる方があとに残る。
しばらくして、悠真の表情はようやく緩んだ。
深くはない。
でも、眠りは保てた。
それで十分だった。
朝。
砦の窓から薄い光が差し込むころ、悠真は自分から起き上がった。
顔色は昨日と大差ない。
でも、寝起きの表情が少しだけ硬い。
「おはよう」
私が言うと、彼はすぐにこっちを見た。
「おはようございます」
「眠れた?」
少しだけ、間。
「前よりは」
「夢は?」
悠真は毛布を握ったまま、視線を落とした。
「……変でした」
「どう変だったの」
「白い場所は、同じでした」
そこでまた止まる。
「でも、急げって感じじゃなくて」
「ええ」
「もっと静かで……その代わり、何かを選ばないといけない感じがしました」
私は黙って聞く。
「よくわからないんです。何をって聞かれてるのかも、はっきりしないのに」
悠真は眉を寄せた。
「間違えたらまずいって、それだけはわかるみたいな」
嫌な言い方をする。
でも、たぶん正確だった。
「……なるほどね」
私がそう言うと、悠真は不安そうにこっちを見た。
「やっぱり悪い方ですか」
「ええ」
私は迷わず答えた。
「前よりね」
「そうですか」
落ち込む前に、続ける。
「でも、こっちも見えた」
「見えた?」
「向こうがやり方を変えてきた」
リゼが寝起きのまま口を挟む。
「それって、こっちが効いてるから変えたってこと?」
「そういうこと」
彼女は少しだけ笑った。
「なら、完全に悪いだけでもないわね」
その言い方は助かる。
エリシアも起きていたらしく、静かにこちらを見ていた。
「記録に残る“神託”も、同じように変質していった可能性がありますね」
「ええ」
私は頷く。
「押してもだめなら、選ばせる方へ寄る。雑だけど、よくあるやり方」
ガルドが欠伸を噛み殺しながら言う。
「やっぱり面倒くせぇな、この世界」
「今さら?」
「今さらだな」
少しだけ、部屋の空気が和らぐ。
私は立ち上がって、窓の外を見た。
砦の朝。
補給路。
結界。
夢。
押し込み。
選択。
全部が少しずつ形を変えながら、同じところを締め上げてくる。
急がせる。
選ばせる。
考える余裕を削る。
そういうの、本当に嫌いだ。
私は小さく息を吐く。
この世界は――
追い込み方まで、雑すぎる。




