第25話 黒い刺
砦の上を吹き抜ける風が、冷たくなってきた。
昼間の熱気は、日が暮れるに従って石壁の隙間から少しずつ逃げていく。
負傷者は救護所に運ばれ、東門前で転倒した荷車は起こされ、散乱した箱や荷も兵士たちの手で回収が進んでいた。
見た目だけなら、もう元通りだ。
でも、現場の空気はまだ戻っていない。
兵たちの顔には、戦いのあとの緩みはなかった。
砦の様子を探られた。
その嫌な感触だけが、まだ残っている。
「京ちゃん」
肩の上で、サトリが小さく尻尾を揺らす。
「みんな、落ち着いてるふりしてる」
「でしょうね」
私は手の中の黒い刺を見つめた。
小さい。
針というには太く、短剣というにはあまりに粗末。
艶もなく、黒ずんだ石みたいな見た目をしている。
でも、嫌な気配だけはちゃんとある。
「それ、ここで見るのか?」
ガルドが覗き込んでくる。
距離が近い。
「近い」
「悪い」
悪いと思ってる顔じゃない。
私は一つ息をついて、砦の内側、東門脇の空き部屋へ目を向けた。
元は物資確認か何かに使っていたのか、木箱と空樽が隅に寄せられ、中央だけが空いている。
「中で見る」
そう言うと、エリシアがすぐに応じた。
「使ってください。外で扱うものではないでしょう」
「助かる」
短く返して、私は部屋へ入った。
後鬼が無言で後ろにつき、前鬼は当然のように先に入って、空樽のひとつに勝手に腰を下ろす。
ガルドとリゼが続き、ルークは扉のそばへ。
フィーナは少し不安そうな顔で、それでもちゃんと入ってきた。
悠真だけは、一歩だけ遅れて入ってくる。
その遅れ方が、いまの彼らしい。
「広くはないけど、十分ね」
私は床の中央にしゃがみ込み、刺を手のひらに乗せた。
「ミツネさん」
悠真が、まだ少しぎこちない声で呼ぶ。
「なに」
「それ、危なくないですか」
「危ないわよ」
「えっ」
「だから観察するの」
私がそう返すと、悠真は言葉に詰まった。
たぶんもっと安心する答えを期待していたんだろう。
でも、危ないものを危なくないと言う方が雑だ。
「リゼ」
「なに?」
「火。少しだけ明るく」
「はいはい」
リゼが杖の先を軽く振ると、部屋の隅に置いたランプの火が少しだけ明るさを増した。
強すぎない。
でも影の輪郭が見える程度には十分だ。
私は袖から霊符を三枚抜く。
「封。清。隔」
札を順に落とす。
淡い光が床の上に薄く広がり、刺の周囲だけ空気がひやりとした。
前鬼がその光景を見ながら鼻を鳴らす。
「面倒くせぇな」
「面倒なものを雑に触ると、後でもっと面倒になるの」
「それはそうか」
珍しく納得が早い。
少し不気味だ。
私は再度、刺へ意識を集中させた。
まず見えるのは、粗さだ。
作りが雑。
均一じゃない。
どこかで急いで削り出したみたいな形をしている。
でも、雑なわりに“通す場所”だけはわかっている。
「……ああ、嫌」
思わず呟くと、リゼが眉を上げた。
「何が見えたの?」
「効かせたいところだけ効いてる」
「つまり?」
「使い捨て前提」
私は刺の先端を指で示す。
「これ、長持ちさせる気がない。壊れてもいい。対象が摩耗してもいい。とにかく一時的に押して動かせればいいって作り」
エリシアの表情が静かに曇った。
「魔物の制御にしては、粗いと」
「粗い。でも、足りてる」
後鬼が私の横でかがみ込む。
「主、流れは?」
「細い。浅い。深くは入ってない」
私は頷いた。
「命令を刻むほどの術じゃない。対象の衝動を押して、向きをつけるだけ」
ルークが腕を組んだ。
「つまり、飢えや闘争心を煽る類か」
「それに近い。でも、もう少し狙いが細かい」
「細かい?」
フィーナが小さく聞き返す。
私は刺を霊符の上に置いたまま、ゆっくり答える。
「“あそこへ行け”“そこを探れ”“止まるな”――そういう、単純で短い押し込み」
部屋の中が静まる。
悠真だけじゃない。
エリシアも、リゼも、たぶん同じことを思い出している。
夢だ。
「……似てるわね」
リゼがぽつりと言った。
「ええ」
私は否定しない。
「雑な押し込み方が、少し」
少し、と言ったけど、本当はもう少し強い。
夢への干渉と同じだ、とはまだ断定しない。
でも、発想が気に食わないくらい似ている。
対象をちゃんと理解しようとしない。
対象が耐えるか壊れるかを後回しにする。
そして、とにかく押す。
「壊れても構わない前提で動かすの、ほんと雑ね」
私がそう言うと、エリシアが静かに目を伏せた。
たぶん、女神のことも少しよぎったんだろう。
前鬼が頬杖をつく。
「雑ってのはよくわかった。で、誰がやったんだ?」
「そこまではまだ読めない」
「使い手の癖も残っていませんか」
後鬼が問う。
「残ってる。でも弱すぎて読めない」
私は刺にもう一枚札を足した。
じわりと、黒い表面が熱を持つ。
次の瞬間、刺の中からほんの一瞬だけ黒い煙のようなものが浮いた。
フィーナがびくりと肩を揺らす。
「っ……」
「大丈夫。ただの残滓」
そう言いながら見ていたけれど、その残滓はすぐに消えた。
いや、消えたというより、ほどけた。
最初から長く留まるように作られていない。
「これ、ほんとに使い捨てね」
リゼが顔をしかめる。
「解析される前に消えるようになってる?」
「そこまで上等じゃない」
私は札を指で押さえた。
「上等じゃないけど、短命で済むように作ってある。粗くて軽くて、痕跡が残りにくい」
ガルドが腕を組む。
「やり口がちっせえな」
「前線に出すにはちょうどいいんでしょ」
「褒めてるのか?」
「全然」
悠真が、少し迷いながら口を開く。
「それって……夢とは違うんですよね」
私は一瞬だけ彼を見た。
聞きたいんだろう。
でも、夢と同じだと言われるのは怖い。
そんな顔だった。
「違う」
まず、そう言った。
彼の肩が少しだけ下がる。
「でも」
続けると、今度はまた力が入る。
「似た考え方はある」
悠真は黙った。
「対象を理解するより、押して動かす方を優先してる。そういう意味では、嫌なくらい似てる」
「……そうですか」
その返事は小さかった。
私は少しだけ間を置いてから言う。
「ただし、同じ手口とはまだ言わない。雑な運用なんて、別の場所でも起きる」
エリシアが低く息を吐く。
「雑な運用、ですか」
「ええ。人でも魔物でも、とにかく使えればいいって発想」
ルークが扉の横で静かに頷いた。
「前線には多い」
「でしょうね」
私は刺を布に包んだ。
「だから嫌いなのよ」
少し、間が落ちた。
その沈黙を破ったのは、珍しくフィーナだった。
「でも……少しだけ、安心しました」
「何が」
私が見ると、フィーナは少しためらってから言った。
「夢のことと、同じじゃないって聞けたので」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
私はすぐには返事をしなかった。
同じじゃない。
でも、似てる。
その半端さが、たぶん一番怖い。
「安心するには早いわよ」
そう返すと、フィーナは困ったように笑った。
「はい」
「でも」
自分でも少し意外だったけど、私は続けた。
「切り分けられるだけ、前よりはまし」
フィーナの顔が少しだけほころぶ。
悠真も、ほんの少しだけ息を吐いた。
それで十分だった。
エリシアが私を見た。
「今夜、勇者様が見る夢の方にも変化は出るでしょうか」
「出るかも」
「魔物側の動きと連動する可能性は?」
「否定しない」
王女の表情がまた引き締まる。
「なら、今夜は砦の警戒も少し厳しくします」
「勇者前提にはしないで」
「ええ」
返事は早かった。
リゼが椅子の背にもたれたまま笑う。
「だいぶ染まってきたわね、王女様」
「必要な修正です」
エリシアは真顔で答えた。
それを聞いて、私は少しだけ笑いそうになった。
こういうところは嫌いじゃない。
その時だった。
部屋の外を、ばたばたと足音が通り過ぎた。
ひとつじゃない。
複数だ。
ルークがすぐに扉へ目を向ける。
ライオネルも空気を変えた。
次の瞬間、短く鋭い声が廊下から飛んだ。
「西門側、結界に干渉あり!」
部屋の空気が止まる。
エリシアが最初に動いた。
「報告を通しなさい」
外からすぐ返事が飛ぶ。
「はい!」
私は布に包んだ刺を袖へしまった。
昼は補給路を狙い。
夜は結界を狙う。
私たちを休ませる気がないらしい。
「……ほんと、段取りが雑」
小さく呟くと、後鬼が静かに笑った。
「ですが、わかりやすくはあります」
「それだけが救いね」
前鬼はもう立ち上がっていた。
退屈そうだった顔が、少しだけ楽しそうに見える。
腹立つ。
でも、まだだ。
まだ何が来るかは決まっていない。
私は扉の方へ向き直る。
補給路の探り。
黒い刺。
夢への干渉。
そして、砦の結界への干渉。
全部がばらばらで、でも同じ方向へ押してくる。
まるで、確認しているみたいに。
この世界は――
押し方まで、雑すぎる。




