続 30
深い、深い水底から浮き上がるように、微かな光が少しずつ大きくなり、空気が体内に入ってくる。
徐々に、鼻から、口から、空気が浸透し、肺が膨らんでいく。
「……さま」
音が聞こえる。囁くような、風のような。
「エルネシア様」
目を開けると、誰かの顔があった。
知らない顔だ。
その人は、すぐに離れ、他の人が触れてくる。触れられているのがわかる。
何かを言おうとしたが、何も言葉にできない。何を言えばいいかわからない。
腕も首も瞼も、鼻も触られ、一瞬「なんて失礼な人」と怒りたくなった。
誰か……男の人と目線が合う。
「ご自分が、誰か、わかりますか」
ゆっくりと話す人だ。もちろん、わかる。自分の事をわからない人などいないだろう。やはり失礼な人だ。
「私の、名、は、エルネ……エルネシア……エルネシア・アルフェリド」
三度目でようやく言えた。
そう、私はエルネシア・アルフェリド。リュゼンティア王国の第一王女。
ここはどこ? 自分の部屋ではないのはわかるが。
首を動かすと、お母さまが近寄ってきた。
「エルネシア――」
寝ている私にお母さまが泣きながら抱き着いてきた。
私は驚いて、ただ瞬きを繰り返す。だって、お母さまが抱きしめてくれるなんて、子どもの時以来ではないかしら。
ふと、左隣にも誰かが寝ていると気が付いた。
抱きしめるお母さまの腕を避けるように隣を見るが、知らない年配の女性だった。
その人も誰かに抱きしめられている。
あれっ、私、誰かと手を繋いでいる――いた。いつのまにか手の平は開き、ただ重なっているだけになり、やがて離れた。
それから急に時間が動き始めたようだ。
私はありもしない罪を責められ、塔に入れられたはず。
ここは塔なの?
「王妃陛下、少し落ち着かれますよう……」
声を掛けたのは、確かお医者さまよね。私、病気だったのかしら。
………………毒!
思い出した。そうだ、毒を!
私は半身を起こす。そこは塔の中ではない。あの恐ろしい鉄格子がない。
お母さまの部屋?
どうして?
「エルネシア王女殿下、何を思い出されましたか」
男の人――さっきの失礼な人が問いかけてきた。
私は少しむくれてしまった。王女らしくないと思うけど、今は取り繕えそうにない。
「あなたは誰ですか」
「失礼しました。私は、宮廷薬師のミリネリンヌと申します。今回王女殿下の主治医のような立場になった者です」
「主治医?」
「はい、王女殿下は、誤って、仮死毒――死んだようになり生き返る薬を飲まれたのですが、覚えていらっしゃいますか」
「あれは、その、死んだように、なる薬だったのですか」
「はい。決して本当に死ぬ毒ではありません。それを証拠に、今、ちゃんと息をして、こうして会話していらっしゃいます」
では、死ねなかったのですね。
胸が痛い。
私は死にたかった。死ななければならなかった。
もう生きる希望がないのだから。
嫌な記憶が蘇る。責める声、詰る言葉、突き放す表情。
「王女殿下、お聞きください。殿下は無実です。もう誰かに責められることなどありません。王妃陛下はもちろん国王陛下も、殿下のことを心から案じております」
「うそ、うそ、うそ――」
私は叫ぶ。
でも、どこか……私の記憶の誰かが、語り掛けてくる。
『でも、もう大丈夫だよ。
あなたの心配することは、もうないよ。
待っている人が、たくさんいるよ。
だから、もう起きようよ』
それは優しく、温かく、心地いい響き。だから信じたくなる。でも信じきれない。
「エルネシア、本当よ。あなたを信じきれずにごめんなさい。あなたを塔に入れ、一人にして、ごめんなさい。あなたを苦しませて、ごめんなさい。あなたを、愛しているわ」
お母さまが泣きながら、抱きしめてくれた。
そこで、堪えていたものが切れた。私も泣いた。
そして、お母さまの背に、手を伸ばし……抱きしめる。
どのくらい泣いただろう。
いつの間にか、お父さまもそばにいて、お母さまごと抱きしめてくれた。
苦しい。けれど、嬉しい。
涙と鼻水でひどい顔になっていると思うけど、でも、この幸せが続いてほしい。
お父さまの言葉は、聞き取れなかったけど、なんとなく優しい言葉だったと感じた。
本当に、信じていいのだろうか。
これが夢でないと、思っていいのだろうか。
涙と声が枯れるまで、さんざん泣いた私は、疲れて眠ってしまった。
目が覚めると、夜だった。
ベッドの中でもぞもぞしていると、灯りを持った誰かが近づいてきた。
ここはどこ? 誰?
静かでゆったりとした声を掛けられた。
「王女殿下、お目覚めでしょうか」
答えるべきかわからず黙っていると、その人影はベッドから数歩のところで止まり、部屋の明かりが点いた。魔道具の灯りは眩しかったが、部屋の様子がわかり安心した。
そして隣でお母さまが寝ていたことに、すごく驚いた。
「あら、起きたのかしら」
「お母さま、どうしてここに?」
「ふふふっ、あなたと離れたくなかったのよ」
穏やかに微笑むお母さまの顔は、髪が乱れているせいか、ずいぶんやつれたように見える。
「王女殿下、お水をお持ちしましょうか」
魔道具の灯りを持った侍女が声を掛けてくる。
言われると、確かに喉が渇いているし、少し……ほんの少しお腹も減っている。
「何か食べてきなさい。私も一緒にいたいけど、ごめんね、少し眠らせて」
「はい。お母さまは、どうぞゆっくりお休みください」
私が静かにベッドを降りると、お母さまはもう寝息を立て始めた。
侍女に上着を着せられ、促されるように進むと、テーブルには軽食が用意されていた。
「温かいスープをお持ちしますので、少々お待ちください」
お腹がすいていたけど、侍女の前ではしたない姿をさらすわけにはいかず、仕方なくコップの水を飲んで、喉を潤す。
すぐに空になった。
もう少し飲みたいな――と思った瞬間、水がコップに溜まり始めた。
驚いて落としそうになり、慌てて掴み直すと、もう水は増えなかった。
頭の中に疑問が湧いてくるが、その時はそれ以上考えることなく、その水を一口、口に含んだ。
ただの水だった。
不思議に思っていると、侍女が湯気の立つスープを持って戻ってきたので、コップはそのままテーブルにおいた。
お腹が空いていると思っていたけど、スープとパンひとつで、もうそれ以上は食べられなかった。
侍女が言うには、三日も何も食べていなかったので、すぐには体が受け付けず、量を食べることはできないとのことだ。
三日も食べていない? たったの三日? あれから三日しか過ぎていないの?
新しい疑問が浮かんでくるが、それをお母さま付きの侍女に聞くのはためらわれたので、黙っていた。
「お休みになられますか。それとも本でも読まれますか」
侍女に問われて眠ることにした。それほど眠気はないけれど、お母さまと同じベッドで眠れるなんて、子どもの時以来だ。
自分が幼子になったみたいで、おかしくなって、笑いが零れる。
お母さまの眠るベッドに静かに入り直す。
侍女は部屋の明かりを消していく。
暗くてお母さまのお顔は見えなくなったけど、温もりは感じる。
瞼を閉じると、いつの間にか眠りに落ちていった。
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