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冒険者の街

洞窟を抜ける風は、どこか鉄の匂いを含んでいた。

 ノアは山道を歩きながら、小さく息を吐く。

 魔物との戦いから一夜。

 暗殺者たちの武器や荷物を最低限だけ回収し、地図を頼りに歩き続けていた。

 幸い、山道は初等部の校外学習で一度だけ通ったことがある。

 あの時は教師や騎士団が同行し、安全な街道しか歩かなかった。

 だが今は違う。

 頼れる者は誰もいない。

 背負っている荷物も、自分の命も、自分で守らなければならなかった。

 それでも足は止めなかった。

 立ち止まれば、追手が来るかもしれない。

 王都へは戻れない。

 ヴァイス領へ戻れば、家族に迷惑が掛かる。

 もう、自分には前へ進む以外の道は残されていなかった。

 山道を下りきったその時だった。

 視界が開ける。

 巨大な城壁が目に飛び込んできた。

「……大きい。」

 思わず声が漏れる。

 王都ほど美しく整った城壁ではない。

 至る所にひびが入り、黒く焼け焦げた跡が残っている。

 魔物の爪で削られたような深い傷まで刻まれていた。

 それでも崩れない。

 何度壊されても、そのたびに修復されてきた証だった。

 城門の上では見張りが周囲を警戒している。

 門を出入りする人の数は王都以上かもしれない。

 魔物の死骸を積んだ荷車。

 傷だらけの鎧を着た冒険者。

 巨大な荷物を背負う商人。

 魔核を満載した馬車。

 様々な人々が絶え間なく行き交っていた。

 城門の上には、大きく一枚の旗が掲げられている。

 剣と盾。

 そして中央に紫色の魔核を描いた紋章。

 王家の旗ではない。

 冒険者ギルドの旗だった。

「ここが……フロンティア。」

 世界最大の洞窟、ノルディア山へ最も近い街。

 人類最前線の都市。

 毎日、多くの冒険者が洞窟へ入り、多くの者が帰ってくる。

 そして同じ数だけ、帰ってこない者もいる。

 それでも人は集まる。

 世界樹を守るため。

 生活に欠かせない魔核を持ち帰るため。

 それが、この街の日常だった。

 門をくぐる。

 その瞬間、空気が変わった。

 王都とはまるで違う。

 鉄を叩く音。

 酒場から響く笑い声。

 威勢のいい呼び込み。

「武器の修理ならこっちだ!」

「回復薬、今日入荷したぞ!」

 通りの両側には店が隙間なく並び、人々が忙しなく歩いている。

 誰も立ち止まらない。

 誰も他人を気にしない。

 活気がある。

 だが不思議と殺伐とはしていなかった。

 傷だらけの冒険者同士が笑い合い、店主と冗談を交わしている。

 王都のような格式高さはない。

 その代わり、この街には生きる力が溢れていた。

(思っていたより……温かい街だ。)

 校外学習で訪れた時は、街並みを見る余裕などなかった。

 教師に連れられ、決められた場所だけを歩いた。

 だから知らなかった。

 この街には、人を惹きつける何かがある。

 その時だった。

 すれ違った小さな少女が、大きな籠を抱えて歩いていく。

 中には淡く紫色に光る魔核がいくつも入っていた。

 その隣では鍛冶師らしき男が、大量の魔核を受け取り工房へ運んでいる。

(本当に、この街は魔核で生きているんだ。)

 王都では魔核は生活の一部だった。

 街灯も、水路も、暖炉も。

 魔核があることが当たり前だった。

 けれど、この街では違う。

 魔核は生活そのものだった。

 洞窟から持ち帰られた魔核が、この街を動かし、王国を支え、人々の暮らしを支えている。

 ノアは自然と腰の革袋へ手を当てる。

 中には父から渡された生活費。

 そして暗殺者から回収した金貨が入っていた。

 十分な額ではない。

 だが、しばらくは何とかなる。

(まずは……。)

 周囲を見回す。

 銀髪。

 この髪は目立ちすぎる。

 王都では珍しくなかった。

 だが、この街で王都の貴族を思わせる髪色は、余計な注目を集めるだけだ。

 それに――。

(また暗殺者が来るかもしれない。)

 あの襲撃は偶然ではない。

 誰かが、自分の死を望んでいる。

 ならば。

 ノア・ヴァイスとして生きることは、もうできない。

 父からもらった剣を静かに握る。

 これは捨てない。

 自分がノアであった証だから。

 だが、それ以外は変えられる。

 名前も。

 髪も。

 服も。

 全部。

 ノアはゆっくりと顔を上げた。

 街の中央。

 人通りの多い大通りの先に、一際大きな建物が見える。

 無数の冒険者が出入りし、その入口には先ほど城門で見たものと同じ、剣と盾、そして魔核の紋章が掲げられていた。

 ――冒険者ギルド。

 これから始まる新しい人生は、あの建物から始まる。

 ノアは一度だけ深呼吸をすると、その前にまず、街角で見つけた理髪店へ向かって歩き出した。

 理髪店の扉を押すと、小さな鈴が軽やかな音を鳴らした。

「いらっしゃい。」

 奥から現れたのは、白髪混じりの老人だった。

 ノアは店内を見回す。

 王都の店のような豪華さはない。

 木造の小さな店内には、椅子が二脚と大きな鏡が一枚置かれているだけだった。

「髪を切りたいんですが。」

「もちろんだ。」

 老人は椅子を指さす。

「長旅だったのか?」

「……はい。」

 それ以上は聞かれなかった。

 それが、この街らしかった。

 椅子へ腰掛ける。

 鏡に映る自分を見つめた。

 銀色の髪。

 十二年間、王城で過ごした自分。

 父や母、コアと笑い合った日々。

 アレンやリリアと剣を交えた毎日。

 その全てが、この髪を見るたびに思い浮かぶ。

「どれくらい切る?」

 老人の問いに、ノアは少しだけ目を閉じた。

「短く。」

「思い切ってください。」

 老人は何も言わず、鋏を入れ始めた。

 銀色の髪が、一房ずつ床へ落ちていく。

 その音が、どこか胸を締めつけた。

「染めるか?」

 鏡越しに老人が尋ねる。

「この街じゃ銀髪は珍しい。」

「目立つぞ。」

 やはりそうか。

 ノアは静かに頷いた。

「お願いします。」

「魔染料だ。効果は三ヶ月ほどでその間は生え際まで染まる。」

 老人は棚から小さな瓶を取り出した。

「黒でいいな?」

「はい。」

 液体が髪へ塗られていく。

 しばらくして洗い流されると、鏡の中には別人が座っていた。

 短い黒髪。

 どこにでもいそうな少年。

 もう、王城で暮らしていたノア・ヴァイスには見えなかった。

「これなら誰も気づかん。」

 老人は満足そうに頷く。

 ノアは小さく礼を言い、代金を支払って店を出た。

 次に向かったのは古道具屋だった。

 店主は無精髭を生やした大男で、カウンターの上には武器や防具が無造作に積まれている。

「売りたい物がある。」

 ノアは暗殺者から回収した短剣や防具を並べた。

 店主は一本一本手に取り、刃こぼれや傷を確かめる。

「……全部まとめて買おう。」

 提示された金額は思っていたより高かった。

「いいんですか?」

「品質は悪くねぇ。手入れもしっかりされてる。」

 店主は肩をすくめる。

「それに、この街じゃ中古の武器はいくらあっても足りん。」

 ノアは静かに頷いた。

 父から渡された剣だけは、売らなかった。

 あれだけは手放せない。

 店を出ると、革袋は少しだけ重くなっていた。

 だが、不思議と安心はできなかった。

 金があるから生きられるわけじゃない。

 ここでは、自分の力だけが頼りなのだ。

 大通りを歩く。

 目の前には、この街で最も大きな建物が見えてきた。

 冒険者ギルド。

 五階建てはあろうかという石造りの建物で、入口には多くの冒険者が出入りしている。

 中へ入ると、想像以上の広さだった。

 依頼が貼られた巨大な掲示板。

 魔核を買い取る窓口。

 酒場。

 武器の手入れ場。

 応接室。

 多くの受付が並び、それぞれに冒険者たちが列を作っている。

 ここだけで一つの街のようだった。

 空いている受付へ向かう。

「登録ですか?」

 受付の女性が穏やかに笑った。

「はい。」

「では、お名前を。」

 ノアは一瞬だけ言葉に詰まる。

 もう、本名は名乗れない。

 少しだけ考え、口を開いた。

「……セム。」

「セム・クロウです。」

 受付は迷いなく紙へ書き込む。

「年齢は?」

「十二歳です。」

「属性は?」

 ここで少しだけ息を止める。

 判定不能。

 そう答えるわけにはいかない。

「風属性です。」

「承知しました。」

 受付は何の疑いもなく頷いた。

 自己申告なのだろう。

 それ以上、属性について尋ねられることはなかった。

「それでは最後に一つだけ。」

 受付は真剣な表情になる。

「冒険者ギルドの規則をご説明します。」

 ノアも自然と姿勢を正した。

「この街には様々な事情を抱えた人が集まります。国を追われた者。貴族から逃げてきた者。家族を失った者。私たちは、その過去を問いません。」

 受付は穏やかな口調のまま続ける。

「ですが、登録後に街で罪を犯した者、依頼人を裏切った者、仲間を故意に害した者には、ギルドが責任をもって裁きを下します。洞窟内やフロンティアでの犯罪は、決して許されません。」

 その声には、先ほどまでの柔らかさはなかった。

「その代わり――」

 受付は微笑む。

「ギルドに登録した以上、あなたは私たちの仲間です。正当な理由なく追われることがあれば、ギルドがあなたを守ります。」

 ノアは思わず息を呑んだ。

 その一言が、胸の奥に深く響いた。

 もう、自分は一人ではない。

 そんな気がした。

 受付係は、一枚の金属板を机の上へ置いた。

 手のひらほどの大きさ。

 鈍い銀色に輝くその板には、まだ何も刻まれていない。

「こちらがギルドカードになります。」

 ノアは恐る恐る手に取る。

 思っていたより軽い。

「魔核を加工して作られた特殊な金属です。」

 受付係は説明を続ける。

「登録者本人の魔力に反応するため、他人が使用することはできません。紛失した場合は再発行できますが、本人以外では一切使用できない仕組みになっています。」

 受付係がカードへ指先を触れるよう促した。

 ノアは言われた通りカードへ触れる。

 すると、銀色だった表面へ淡い光が走った。

 次の瞬間、文字が浮かび上がる。

 セム・クロウ

 Eランク

 ノアは思わず見入ってしまった。

「これで登録完了です。」

 受付係は微笑む。

「このカードは身分証明書にもなります。宿屋や商店でも提示を求められることがありますので、失くさないようにしてください。王国の身分証より信用されている、と言えば分かりやすいでしょうか。」

 思わず目を見開く。

「そんなに……ですか?」

「はい。」

 受付係は頷いた。

「この街では、ギルドカードを持つ者は『ギルドが身元を保証している』という意味になります。ですので、商人も宿屋も安心して取引ができるのです。」

 なるほど、とノアは頷いた。

 王都では家名が信用だった。

 だが、この街では違う。

 信用されるのは家柄ではない。

 ギルドの一員であるという事実だった。

「それと、こちらも覚えておいてください。」

 受付係は壁に掛けられた大きな掲示板を指差した。

 そこには六つの文字が並んでいる。

 S

 A

 B

 C

 D

 E

「Eランクが新人冒険者です。依頼をこなし、実績を積むことで昇格していきます。Dランクで一人前。」

「Cランクになる頃には、街でも名前を知られる冒険者になっているでしょう。」

「Bランクは精鋭。」

「Aランクともなれば、一国の騎士団長にも匹敵する実力者です。」

 そして、一番上。

 Sランク。

「Sランクは……?」

 ノアが尋ねると、受付係は少しだけ笑った。

「英雄級、と呼ばれています。現在、この世界に存在するSランク冒険者は片手で数えるほどしかいません。」

「ほとんどの方は一生届かない場所ですね。」

 ノアは自然と掲示板を見上げた。

(英雄級……。)

 王都では、英雄とは生まれ持った才能を持つ者のことだと思っていた。

 だが、この街では違うのかもしれない。

 努力を積み重ね、数え切れない依頼をこなし、多くの人々から認められた者。

 それもまた英雄なのだろう。

「あと、もう一つ。」

 受付係はギルドの奥を見た。

 酒場では、多くの冒険者が楽しそうに酒を飲んでいる。

 その中には同じ紋章を肩へ付けた者たちもいた。

「あの人たちは?」

「クランです。」

 受付係は答えた。

「冒険者同士が作る組織ですね。仲間を集め、洞窟へ挑み、大きな依頼を受けることもあります。もちろん、一人で活動する冒険者もいますが、多くの方はいずれクランへ所属します。」

 ノアは酒場を見つめる。

 笑い合う者。

 肩を叩き合う者。

 戦利品を自慢する者。

 家族のようにも見えるその光景を見ていると、不思議と胸が温かくなった。

「今日は登録だけで大丈夫です。」

 受付係は優しく微笑む。

「初依頼は明日以降でも構いません。まずは街に慣れてください。」

 ノアは深く頭を下げた。

「ありがとうございました。」

 ギルドを出る頃には、空は赤く染まり始めていた。

 夕暮れの大通りは、朝以上の活気に包まれている。

 洞窟から戻ってきた冒険者たちが、それぞれの戦利品を抱えて歩いていた。

 傷だらけの者もいる。

 包帯を巻いた者もいる。

 それでも皆、どこか誇らしげな表情を浮かべていた。

 ノアは紹介された宿へ向かう。

 部屋は六畳ほどしかない。

 王城の部屋とは比べものにならないほど狭かった。

 それでも。

 窓があり。

 ベッドがあり。

 屋根がある。

 今の自分には、それだけで十分だった。

 荷物を床へ置き、ゆっくりと腰を下ろす。

 革袋から地図を取り出した。

 ノルディア山。

 フロンティア。

 世界樹。

 そして、自分が歩いてきた道。

 そこへ、今日受け取ったギルドカードをそっと重ねる。

 カードには、見慣れない名前が刻まれていた。

 セム・クロウ。

 もう王都でノア・ヴァイスとして生きることはできない。

 それでも、この名前なら生きていける。

 いつか真実を明かせる日が来るまで。

 この街で強くなる。

 誰にも負けないくらい。

 世界樹へ辿り着けるくらい。

 ノアは静かにギルドカードを握り締めた。

 窓の外では、夜になっても街の灯りは消えない。

 魔核の光が、まるで星々のようにフロンティアを照らしていた。

 その景色を見つめながら、ノアは小さく呟く。

「ここからだ。」

 追放された英雄候補ではない。

 一人の冒険者として。

 俺、セム・クロウの新しい人生が、静かに始まろうとしていた。

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