旅立ち
魔物の息は、完全に止まっていた。
静まり返った森の中に、荒い息遣いだけが響く。
僕はその場に膝をついた。
「……はぁ……はぁ……」
身体が重い。
さっきまで感じていた不思議な高揚感は消え去り、全身から力が抜けていく。
右手を見る。
魔法を使った感覚はない。
火も、水も、風も、雷も。
何一つ発動した覚えはなかった。
それなのに、身体だけが異常なほど軽くなり、目の前の景色がゆっくり見えていた。
「……何だったんだ」
答えてくれる者はいない。
倒れた魔物も。
地面に転がる暗殺者たちも。
誰一人として動かなかった。
僕はゆっくり立ち上がる。
暗殺者たちは、魔物との戦闘に巻き込まれて命を落としていた。
僕は誰一人として手に掛けていない。
それでも。
胸の奥には、言いようのない苦しさが残っていた。
「……ごめん」
小さく呟き、目を閉じる。
もし僕にもっと力があったなら。
もっと違う結末もあったのだろうか。
そんな考えが一瞬よぎる。
だが、首を振った。
今は生きることが先だ。
僕は暗殺者の荷物を調べ始めた。
腰袋の中には、水袋、干し肉、保存食、小さな救急箱。
そして革袋いっぱいの銀貨。
「……使わせてもらうよ」
胸は痛んだ。
でも、生きるためには必要だった。
最後に、一枚の地図を取り出す。
王国全土が描かれた地図だった。
「……これは」
目的地を示す印が付けられている。
そこへ目を向けた瞬間、僕は言葉を失った。
「ヴァイス領……じゃない」
印が付いていたのは、ノルディア山だった。
「そんな……」
指が震える。
街道を確認する。
今いる場所。
進んできた道。
すべてを照らし合わせても、間違いなかった。
馬車は最初からヴァイス領へ向かっていなかった。
僕を人気のない山道まで運び、そこで始末する。
それが最初から決められていた計画だったのだ。
「追放じゃ……なかった」
静かに呟く。
「最初から、殺すつもりだったんだ」
誰が命じたのかは分からない。
でも、一つだけ分かることがあった。
王都へ戻れない。
ヴァイス領へも戻れない。
もし僕が生きていることを知られれば、また刺客が送られてくる。
そして、その矛先は家族へ向くかもしれない。
コアだけは、守らなければならない。
僕は地図を広げたまま考え込む。
その時、一つの街の名前が目に入った。
フロンティア。
ノルディア山の麓。
王国最大の冒険者の街。
世界樹へ挑む者たちが集う、最前線。
「……ここなら」
誰も僕を知らない。
貴族もいない。
王家の目も届きにくい。
身元を隠して生きていくには、一番都合がいい場所だった。
その名前を見た瞬間、一つの記憶が蘇る。
初等部四年の校外学習。
僕は初めてフロンティアを訪れた。
巨大な城壁。
絶えず出入りする冒険者たち。
傷だらけの鎧。
荷車いっぱいに積まれた魔核。
市場には見たこともない魔物の素材が並び、鍛冶屋では武器を打つ音が鳴り響いていた。
あの時の僕たちは目を輝かせて歩いていた。
『うわぁ……』
誰よりも興奮していたのはアレンだった。
『やっぱり冒険者って格好いいよな!』
教師が苦笑する。
『ライゼル君。君は伯爵家の跡取りでしょう』
『分かってますよ。でも一度くらい世界樹を見てみたいじゃないですか』
『危険です』
『だから面白いんです!』
隣で聞いていたリリアが呆れたようにため息をつく。
『アレン。伯爵家の跡取りがそんなこと言わないの』
『王女様は真面目すぎるんだよ』
『私は現実を見ているだけ』
『ノアはどう思う?』
突然話を振られた僕は困ってしまった。
『えっと……』
二人の顔を見比べる。
『僕も、一度世界樹を見てみたい』
『ほら!』
アレンが嬉しそうに笑う。
リリアはまたため息をついた。
『二人とも、本当に似た者同士なんだから』
あの日は笑って終わった。
まさか。
本当に一人でその街へ向かう日が来るなんて思ってもいなかった。
僕は地図を丁寧に折り畳み、荷物へしまう。
そして、もう一度だけ王都のある方向を見た。
父さん。
母さん。
コア。
「僕は、生きるよ」
小さく呟く。
それが家族を守ることになると信じて。
振り返ることはしなかった。
地図が示す先。
冒険者の街フロンティアへ向けて、僕は静かに歩き始めた。




