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追放の果て

 王都を出る朝は、驚くほど静かだった。

 いつもなら朝を告げる鐘の音が響き、城下町には人々の声が溢れている。

 しかし今日。

 僕が向かう城門には、ほとんど人の姿はなかった。

 当然だと思った。

 僕はもう、王家が期待する存在ではない。

 英雄候補ではない。

 ただの、魔法すら確認できなかった少年だ。

 馬車の前で立ち止まり、僕は一度だけ王城を振り返った。

 十二年間。

 ここで過ごした時間は、僕の人生そのものだった。

 剣を教えてくれた騎士たち。

 歴史を教えてくれた先生たち。

 そして。

「……ノア。」

 聞き慣れた声に振り返る。

 そこには父さんがいた。

「父さん。」

 エドガー・ヴァイス。

 僕を王城へ連れてきた人。

 そして今、僕を送り出す人。

 父さんはしばらく何も言わず、僕の顔を見ていた。

「……大きくなったな。」

 その言葉に、少しだけ笑ってしまう。

「十二年一緒にいたのに、今さら?」

「いや。」

 父さんは首を横に振る。

「今日、初めてそう感じた。」

 その声は少し震えていた。

 僕は何も言えなかった。

 父さんがどれだけ苦しんでいたのか。

 分かっていたから。

「ノア。」

「はい。」

「すまなかった。」

 突然の言葉だった。

「父さん?」

「お前を守ると言いながら、結局……守りきれなかった。」

 父さんは拳を握る。

「王家を責めるつもりはない。陛下も苦しんでいた。」

「だが、それでも。」

「私は父親として、お前を王城へ送り出した責任がある。本当にすまない。」

 僕は首を横に振った。

「違うよ。」

「ノア。」

「僕は……嫌じゃなかった。」

 王城での日々を思い出す。

 厳しい訓練。

 膨大な勉強。

 期待という重圧。

 苦しいこともあった。

 でも。

「アレンにも、リリアにも会えた。陛下にも、騎士のみんなにも。」

 僕は笑う。

「全部、僕の大切な思い出だよ。」

 父さんは黙った。

 そして、小さく息を吐く。

「……お前は本当に優しいな。」

 その言葉が、少しだけ胸に刺さった。

 優しい。

 でも。

 本当は悔しかった。

 自分でも分からない力のせいで。

 積み重ねてきた十二年間が、たった一日の結果で変わってしまったことが。

 それでも。

 僕には守りたいものがある。

「これを持っていきなさい。」

 父さんが小さな袋を差し出した。

「お金ですか?」

「ああ。」

 受け取ると、ずしりと重かった。

「多くはない。」

 父さんは言う。

「だが、しばらく暮らすには足りるはずだ。」

「食事をすること。」

「寝る場所を確保すること。」

「困った時に誰かへ助けを求めること。」

 父さんは僕を見る。

「力がなくても、人は生きていかなければならない。」

 その言葉に、僕は袋を握りしめた。

「ありがとう。」

「それと……。」

 父さんは少し迷った後、続ける。

「もし、本当に困った時はヴァイス家を頼りなさい。追放されたとはいえ、お前は私の息子だ。」

 胸が熱くなる。

「……はい。」

 その時。

 遠くから馬車の準備が整った合図が聞こえた。

 もう時間だった。

「ノア。」

 父さんが最後に言う。

「一つだけ約束してくれ。」

「何?」

「自分を否定するな。」

 静かな声だった。

「魔法が使えなかったから何だ。英雄になれなかったから何だ。お前が歩いてきた十二年間まで、偽物になるわけではない。」

 僕は唇を噛む。

 泣きそうになるのを堪えた。

「……うん。」

「行ってきます。」

 父さんは笑った。

 いつもの優しい笑顔だった。

「行ってこい。」

「ノア・ヴァイス。」

 僕は馬車へ乗り込む。

 窓から外を見る。

 城門の向こう。

 王都の景色が少しずつ遠ざかっていく。

 ここで過ごした十二年間。

 僕を育ててくれた場所。

 僕が英雄になると信じていた場所。

 もう戻れないかもしれない。

 それでも。

(僕は僕だ。)

 そう言い聞かせる。

 馬車はゆっくりと進み始めた。

 馬車の揺れは、王都を離れるほど強くなっていった。

 整備された石畳の道はいつの間にか終わり、車輪が土を踏む音へ変わっている。

 窓の外に見える景色も、見慣れた王城の白い壁から、どこまでも続く草原へと変わっていた。

 遠くに見える王都の城壁。

 その中心には、幼い頃から何度も見上げてきた王城が小さく見えている。

 あそこが、僕の居場所だった。

 十二年間。

 剣を学んだ。

 魔物について学んだ。

 世界樹について学んだ。

 いつか人々を守るために。

 いつか英雄になるために。

 努力してきた場所。

 でも。

 もう戻ることはないのかもしれない。

 そう考えると、胸の奥が少しだけ締め付けられた。

「……父さん」

 出発前のことを思い出す。

 最後に会った父さんは、いつものように優しく笑っていた。

 でも。

 その笑顔の奥に、隠しきれない苦しさがあった。

『これを持っていきなさい』

 そう言って渡された小さな袋。

 中には数ヶ月分の生活費が入っていた。

『贅沢はできないかもしれない』

『でも、お前が一人で生きていくためには必要だ』

 父さんはそう言った。

 冒険者になるための資金ではない。

 武器を買うためでもない。

 ただ。

 生きるためのお金。

 それが、今の僕に対する父さんの精一杯だった。

 本当なら。

 一緒に来たかったはずだ。

 僕を守りたかったはずだ。

 でも。

 それをすれば、今度はコアが狙われるかもしれない。

 僕を庇うヴァイス家。

 王家が特別扱いした少年。

 その妹。

 全てを疑われることになる。

 だから。

 父さんも母さんも、僕を追放するしかなかった。

 僕は袋を握りしめる。

(大丈夫)

(僕は一人でも生きていける)

 そう言い聞かせる。

 少なくとも。

 剣だけは。

 誰にも負けないくらい努力してきた。

 魔法がなくても。

 英雄になれなくても。

 生きる道くらいは、自分で切り開ける。

 そう思っていた。

 その時だった。

 馬車が突然、大きく揺れた。

「……っ?」

 身体が前へ投げ出されそうになる。

 慌てて壁に手をつき、体勢を戻す。

 おかしい。

 街道はそこまで荒れていない。

 速度が落ちている。

 いや。

 止まろうとしている。

「どうしたんだ?」

 御者へ声をかける。

 しかし。

 返事はなかった。

 胸の奥に、嫌な感覚が広がる。

 静かすぎる。

 さっきまで聞こえていた鳥の声も。

 風で揺れる草の音も。

 いつの間にか消えていた。

 ゆっくりと扉へ手を伸ばす。

 その瞬間。

 ――ザシュッ。

 乾いた音。

 何かが馬車の壁を貫いた。

「……!」

 反射的に身体を捻る。

 次の瞬間。

 僕が座っていた場所へ、黒い刃が突き刺さった。

 あと少し遅れていたら。

 間違いなく死んでいた。

 考えるより先に身体が動いた。

 扉を蹴り開け、外へ飛び出す。

 地面を転がりながら距離を取る。

 顔を上げる。

 周囲は森だった。

 王都から離れ、人の目が届かない場所。

 そして。

 木々の間から。

 黒い服をまとった人影が現れる。

 一人。

 二人。

 三人。

 さらに奥にも気配がある。

 完全に囲まれている。

「ノア・ヴァイス」

 一人の男が名前を呼んだ。

 声には感情がない。

「ここなら騒ぎになることもない」

 その言葉で理解した。

 偶然じゃない。

 これは。

 僕を殺すための襲撃だ。

「誰に頼まれた」

 問いかける。

 返事はない。

 ただ。

 男たちは静かに武器を抜いた。

「お前には、生きていてもらっては困る」

 胸の奥が冷たくなる。

 追放された。

 もう王家の庇護はない。

 英雄候補でもない。

 それでも。

 僕を消したい人間がいる。

「……そういうことか」

 僕は剣を抜いた。

 父さんが用意してくれた剣。

 まだ一度も人へ向けて振ったことのない剣。

 でも。

 ここで迷えば死ぬ。

 最初に動いたのは暗殺者だった。

 速い。

 騎士の剣とは違う。

 美しさもない。

 正しさもない。

 ただ相手を殺すためだけの動き。

 短剣が迫る。

 僕は紙一重で避け、剣で受け流す。

 金属音が森に響く。

「……!」

 暗殺者の目が僅かに揺れた。

 僕の動きが予想外だったのだろう。

 次の瞬間。

 僕の剣が相手の手首を打つ。

 短剣が地面へ落ちた。

 しかし。

 そこで止まる。

 倒すことはできる。

 でも。

 斬れない。

 相手は僕を殺そうとしている。

 分かっている。

 それでも。

 人の命を奪う覚悟だけは、まだ持てなかった。

 その一瞬。

 暗殺者の口元が歪む。

「甘いな」

 背後。

 殺気。

 しまった。

 最初から一人ではなかった。

 避けきれない。

 刃が迫る。

 その瞬間。

 身体の奥で。

 何かが弾けた。

熱い。

 全身の血が一気に巡るような感覚。

 けれど。

 これは魔法ではない。

 火のような熱でもない。

 風のような軽さでもない。

 雷のような鋭さでもない。

 ただ。

 自分自身が、今までとは違う存在になったような感覚だった。

 迫っていた刃が、ゆっくりに見える。

 違う。

 遅くなったわけじゃない。

 僕の身体が、追いついている。

「……っ」

 考えるより先に、身体が動いた。

 半歩下がる。

 短剣が髪をかすめる。

 そのまま相手の腕を掴み、身体を回転させる。

「なっ……!?」

 暗殺者の身体が宙へ浮いた。

 自分でも驚くほど自然な動きだった。

 地面へ叩きつける。

 鈍い音が響く。

 男は起き上がろうとする。

 でも。

 もう遅い。

 僕の剣が、相手の喉元で止まる。

「……」

 殺せる。

 今なら。

 簡単に。

 でも。

 手が動かなかった。

「どうして……」

 暗殺者が苦しそうに呟く。

「どうして殺さない……」

 僕自身にも分からない。

 相手は僕を殺そうとした。

 放っておけば、また誰かを傷つけるかもしれない。

 それでも。

 命を奪うことだけはできなかった。

「……僕は」

 剣を握る手に力が入る。

「英雄になりたかったんだ」

 だから。

 人を守るための力が欲しかった。

 人を殺すための力じゃない。

 剣を振り下ろす代わりに、柄で相手の首元を打つ。

 男の身体から力が抜ける。

 意識を失った。

 その直後。

 背後から殺気を感じる。

 振り返る。

 別の暗殺者が迫っていた。

 いつの間に。

 普通なら気付けない距離。

 でも。

 今は分かる。

 足音。

 呼吸。

 筋肉の動き。

 すべてが見えていた。

 身体が勝手に反応する。

 一歩。

 踏み込む。

 次の瞬間には、僕の剣が相手の武器を弾き飛ばしていた。

「化け物……」

 誰かが呟いた。

 違う。

 僕だって分からない。

 こんな動き。

 こんな力。

 僕は知らない。

 でも。

 今だけは。

 使わなければ死ぬ。

 次々と襲いかかる暗殺者たち。

 数では圧倒的に不利だった。

 けれど。

 身体が軽い。

 視界が広い。

 剣が迷わない。

 まるで身体だけが、僕より先に答えを知っているようだった。

 一人。

 また一人。

 武器を落とす。

 足を止める。

 腕を封じる。

 急所だけは狙わない。

 それでも。

 暗殺者たちは立ち上がれなくなっていく。

 最後の一人が、膝をついた。

「ありえない……」

 男は震える声で言う。

「魔法も使わず……この動き……」

 その言葉に、僕は一瞬だけ固まった。

 魔法。

 違う。

 僕は魔法を使っていない。

 封魔環は外れている。

 なのに。

 何かが身体の中で起きている。

 考える時間はなかった。

 最後の暗殺者も意識を失う。

 森に静寂が戻った。

「……終わった」

 荒い息を吐く。

 身体を見る。

 傷はある。

 疲労もある。

 でも。

 さっきまでとは違う。

 力が残っている。

 まるで身体の奥に、まだ何かが眠っているようだった。

「僕は……」

 自分の手を見る。

 何だったんだ。

 あの力は。

 その時。

 森の奥から。

 低い音が響いた。

 ドン。

 地面が揺れる。

 鳥たちが一斉に飛び立つ。

「……?」

 空気が変わった。

 暗殺者たちとは違う。

 もっと本能的な恐怖。

 身体が警告している。

 逃げろ、と。

 木々の向こうから巨大な影が現れる。

 四足歩行。

 鋭い牙。

 岩のように硬そうな皮膚。

 魔物。

 しかも。

 ただの魔物ではない。

 冒険者でも避けるような大型種。

 僕は剣を構える。

 しかし。

 身体が重い。

 さっきの力は、もうほとんど残っていなかった。

 暗殺者との戦いで使い切ったのだろう。

 魔物は僕を見る。

 そして。

 倒れた暗殺者たちを見る。

 周囲に残る血の匂い。

 折れた武器。

 荒れた地面。

 まるで。

 ここで戦闘が起きた証拠そのものだった。

 僕は理解する。

 もし。

 このまま僕が死ねば。

 誰かはこう考える。

 暗殺は成功した。

 帰り道で魔物に襲われたのだ、と。

 だから。

 こいつがここにいることは。

 偶然じゃない。

「……僕は」

 剣を握り直す。

「まだ死ねない」

 魔物が咆哮する。

 次の瞬間。

 巨体が迫った。

 速い。

 避ける。

 間一髪。

 地面が大きくえぐれる。

 一撃でも受ければ終わる。

 魔法もない。

 身体強化もいつ発動するか分からない。

 それでも。

 僕には剣がある。

 暗殺者が落とした短剣。

 そして。

 この状況を生き抜くしかないという意志がある。

 魔物が再び襲いかかる。

 僕は横へ跳ぶ。

 爪が空を切る。

 その瞬間。

 地面に落ちていた一本の武器が目に入った。

 暗殺者の短剣。

 僕はそれを拾う。

 魔物の動きを見る。

 攻撃の瞬間。

 わずかな隙。

 そこへ。

 短剣を突き立てる。

 硬い。

 普通なら弾かれる。

 でも。

 魔物の皮膚の薄い場所。

 暗殺者が使うために作られた刃。

 その一撃は深く入り込んだ。

 魔物が苦しそうに咆哮する。

 僕は距離を取る。

 そして。

 最後の力を振り絞った。

 魔物が倒れる。

 森に静寂が戻った。

 僕はその場に膝をついた。

「……勝った」

 でも。

 勝った実感はなかった。

 自分が何をしたのか。

 まだ分からない。

 ただ。

 目の前に残ったのは。

 暗殺者との戦闘跡。

 そして。

 魔物に襲われた痕跡。

 誰かが見れば。

 きっとこう思うだろう。

 ノア・ヴァイスは暗殺された。

 その帰り道。

 魔物に襲われ捕食されたのだ、と。

 僕は知らなかった。

 この出来事が。

 僕の新しい人生の始まりになることを。

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