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初めての洞窟

 朝、目覚めてもお腹は空いていなかった。

 昨日は夕食も食べず、そのまま眠ってしまった。

 目を閉じれば、王都での出来事ばかりが浮かんでくる。

 成人の儀。

 追放。

 暗殺者。

 そして、あの力。

 身体の奥から湧き上がった、魔法とは違う何か。

「……考えても仕方ないか」

 小さく呟き、ベッドから起き上がる。

 窓を開けると、朝の冷たい空気が部屋へ流れ込んだ。

 フロンティアの朝は早い。

 通りにはすでに鎧姿の冒険者たちが歩き始め、武器屋の店主が店先を掃除している。

 遠くからは鍛冶場の金属を打つ音も聞こえてきた。

 この街では、一日が始まる音だった。

 腹は減っている。

 けれど、不思議と食欲は湧かない。

「……食べなきゃ」

 生きるために。

 それだけを理由に、俺は一階の食堂へ向かった。

 木の扉を開くと、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。

 宿泊客や冒険者たちが思い思いに朝食を取っていた。

「おはよう、坊主。」

 宿の女将が笑顔を向ける。

「朝飯ならまだあるよ。」

「お願いします。」

「元気ないねぇ。」

「少し疲れてるだけです。」

「昨日来たばかりだったね。無理するんじゃないよ。」

 温かなスープと黒パン、それに卵料理が運ばれてくる。

 王城の食事とは比べものにならない。

 けれど、どこか懐かしい味だった。

 パンを一口ちぎる。

 ゆっくり噛む。

 味はする。

 でも、喉を通るまで少し時間がかかった。

 その時だった。

「聞いたか?」

 近くの席から話し声が聞こえてきた。

「王都の成人の儀だろ?」

「今年はすごかったらしいな。」

 思わず耳がそちらへ向く。

「雷七が出たんだってよ。」

「ライゼル伯爵家の坊ちゃんだ。」

「まだ十二歳だろ? 将来が恐ろしいな。」

「しかも王女も水七だったらしい。」

「今年は英雄候補が二人も生まれたって話だ。」

 僕は静かにスープへ目を落とした。

 アレン。

 リリア。

 二人ならきっと、この街でも噂になる。

 あれほどの才能だ。

 当然だった。

「でも、それだけじゃ終わらなかったらしい。」

 別の男が声を潜める。

「ほら、例のガキだよ。」

「王城で育てられてたっていう。」

 胸が少しだけ締めつけられる。

「結局どうなったんだ?」

「魔法が使えなかったらしい。」

「え?」

「いや、正確には分からねぇ。」

「光でも闇でもなかったとか。」

「判定不能だったって聞いた。」

 食堂が少しざわつく。

「そんなことあるのか?」

「聞いたことねぇぞ。」

「王家も大変だな。」

 そして、一人がぽつりと呟いた。

「その日のうちに王城を追い出されたらしい。」

 俺の手が止まる。

 噂になるのは分かっていた。

 けれど。

 こうして他人の口から語られると、まるで別人の話のようだった。

「まぁ仕方ねぇよ。」

 年配の冒険者が腕を組む。

「王も期待したんだろ。」

「でも結果が出なきゃ切るしかねぇ。」

「国ってのはそういうもんだろ。」

「かわいそうだけどな。」

「まだ子どもだろ?」

「子どもでも英雄候補なら話は別だ。」

 誰も悪意で話しているわけではなかった。

 ただ事実として語っているだけだ。

 それでも胸は痛んだ。

「……ごちそうさまでした。」

 まだ半分ほど残っていたパンを食べ終え、席を立つ。

 食欲は最後まで戻らなかった。

 宿を出ると、朝の日差しが石畳を照らしていた。

 フロンティアは今日も活気に満ちている。

 誰も昨日の自分を知らない。

 それが少しだけ救いだった。

「さて……。」

 今日は依頼を受けない。

 昨日登録したばかりだ。

 まずは洞窟という場所に慣れる必要がある。

 ギルドで地図を見た限り、一階層なら初心者でも十分探索できる。

 魔物は弱い。

 迷う心配も少ない。

 経験を積むにはちょうどいい。

 俺は腰の剣へ手を添えた。

 身体の中に眠る、あの力。

 まだ何なのか分からない。

 だからこそ。

 試したい。

 人ではなく、魔物相手に。

 ギルドへ向かおうと歩き始めた、その時だった。

「また十階層へ行くつもりか!」

 怒鳴り声が街角に響いた。

 思わず振り返る。

 冒険者ギルドの前で、一人の女性が受付職員と言い争っていた。

 栗色の長い髪を後ろで束ね、土埃の付いた革鎧を身につけている。

 年齢は十五、六歳ほどだろうか。

 腰には使い込まれた片手剣と、小ぶりな盾。

 冒険者だ。

「今回で四回目です!」

 受付の女性が珍しく声を荒げていた。

「三回とも救援要請が出ています!」

「次は本当に命を落としますよ!」

「今回は大丈夫です。」

 女性は真っ直ぐ答える。

「そう言って三回失敗しています!」

 ギルド前を歩く冒険者たちも足を止めていた。

「あいつ、またか。」

「まだ諦めてねぇのか……。」

 誰も笑ってはいない。

 呆れた表情ばかりだった。

 女性は周囲の視線を気にすることなく、静かに言う。

「今日で終わらせます。」

 その声だけは、不思議なくらい揺るがなかった。

 俺はその言葉の意味を知らない。

 けれど、その瞳だけは昨日の自分とどこか似ている気がした。

 何かを守るために、引き返せなくなった人の目な気がした。

 話が終わったみたいで栗毛の女性はギルドを後にした。

 するとさっきまで言い合いをしていた受付の女性が俺に気付き、小さく笑った。

「おはようございます、セムさん。」

「おはようございます。」

「今日は依頼ですか?」

「いえ。」

 俺は首を横に振る。

「まずは一階層を歩いてみようと思います。」

 受付の女性は安心したように頷いた。

「それが一番です。焦る必要はありません。最初は洞窟に慣れることが何より大切ですから。」

 そう言うと、一枚の簡単な地図を差し出してくれた。

「一階層の地図です。主要な道だけですが、迷うことは少ないと思います。」

「ありがとうございます。」

「あと一つ。」

 女性は真剣な表情になる。

「ギルドカードは絶対に無くさないでください。」

「はい。」

「この街では身分証明にもなりますし、万が一亡くなった場合は身元確認にも使われます。」

 その言葉に、一瞬だけ息を呑んだ。

 死。

 この街では、それが特別なことではない。

「……分かりました。」

 ギルドを出る。

 正面には、巨大な城壁。

 その先に広がるのは、人類が千年かけても踏破できていない巨大洞窟――ノルディア大洞窟。

 深く潜るほど魔物は強くなる。

 最深部には何があるのか、誰も知らない。

 記録に残る最深到達地点は四十七階層。

 それも百五十年前、光属性七本を持つ英雄を含む貴族の精鋭パーティーが到達した場所だ。

 それより先へ進んだ者は、一人もいない。

 俺はその巨大な入口を見上げた。

「……行こう。」

 まだ一階層。

 今日の目的は戦うことじゃない。

 洞窟という世界を知ること。

 そして――

 あの身体能力が、本当に自分の力なのかを確かめることだった。

 洞窟まではギルドから専用の通路があり、皆そこから向かう。

 大昔の土魔法使いが苦労してギルドから洞窟まで安全に通行できる様に作った道だ。

 これがないと洞窟へ向かうまでに危険な山を登らないといけない。

 現在もギルド管理下で日々点検と修繕が行われている。

 長い道が終わると開放的な空間に繋がった。

 空気が変わった。

 ひんやりとした冷気が肌を撫でる。

 先程までの通路より10倍以上の幅広い通路が続いていた。

 天井は高く、壁にはところどころ青白く光る鉱石が埋まっている。

 その淡い光だけで、足元は十分見えていた。

「これが……洞窟。」

 初等部の校外学習で訪れたことはある。

 けれど、その時は入口付近を見学しただけだった。

 実際に武器を持ち、一人で足を踏み入れるのとはまるで違う。

 地図を開き、現在地を確認する。

 一階層は比較的単純な構造だが、それでも枝道は多い。

 地図に書き込まれた赤い印は、初心者が立ち入るべきではない危険区域らしい。

「まずは地図通りに進もう。」

 焦る必要はない。

 今日は洞窟に慣れる日だ。

 歩幅を一定に保ちながら進んでいく。

 時折、向こうから戻ってくる冒険者とすれ違う。

 血で汚れた鎧。

 腰袋からは紫色の魔核が覗いていた。

 彼らは俺を見ると軽く手を挙げ、そのまま通り過ぎていく。

 新人を珍しがる様子はない。

 この街では、毎日のように新人が洞窟へ入り、そして何人かは戻ってこない。

 それが当たり前なのだろう。

 しばらく歩くと、広い空間へ出た。

 天井はさらに高くなり、岩柱が何本も立ち並んでいる。

 地図にも『広間』と書かれていた場所だ。

 その時だった。

 ガサッ。

 岩陰から何かが飛び出した。

 反射的に剣を抜く。

 現れたのは、腰ほどの高さしかない灰色の魔物だった。

 丸い体に鋭い牙。

 短い前足には爪が生えている。

「……ロックラット。」

 授業で見た図鑑を思い出す。

 一階層に多く生息する魔物。

 初心者が最初に戦う相手として有名だ。

 しかし。

 図鑑で見るのと、目の前で睨まれるのとでは話が違う。

 ロックラットが低く唸る。

 次の瞬間、一直線に飛びかかってきた。

「っ!」

 横へ飛んで避ける。

 勢いよく地面へ着地した魔物は、そのまま素早く向きを変えた。

 速い。

 思っていた以上だ。

 剣を構える。

 王城では人との剣術しか学んでこなかった。

 魔物の動きは、人とは全く違う。

 読めない。

 もう一度突進してくる。

 今度は落ち着いて迎え撃つ。

 剣を振り下ろした。

 だが、わずかに遅い。

 ロックラットは身体を捻り、刃をかすめるように避けた。

「しまっ――」

 鋭い爪が腕を掠める。

 革鎧が裂け、熱い痛みが走った。

「くっ……!」

 傷は浅い。

 だが、その一撃だけで十分だった。

 ここは訓練場ではない。

 相手は俺を殺そうとしている。

 その事実を身体が理解した。

 深く息を吸う。

 剣を握り直す。

 すると、不思議な感覚が身体を巡った。

 昨日、暗殺者に襲われた時と同じだった。

 筋肉が熱を帯びる。

 呼吸が軽くなる。

 視界が少しだけ鮮明になった。

「……まただ。」

 魔法を使っている感覚はない。

 けれど、身体が自然と動く。

 ロックラットが飛び込んでくる。

 今度は見えた。

 踏み込む足。

 牙が届く軌道。

 すべてがゆっくりに感じる。

 身体を半歩ずらし、剣を振る。

 ザシュッ。

 一閃。

 ロックラットは勢いのまま地面を滑り、そのまま動かなくなった。

 静寂が戻る。

「倒した……。」

 初めて、自分の手で魔物を倒した。

 胸の鼓動が速い。

 嬉しいというより、現実味がなかった。

 恐る恐る近づく。

 魔物の身体は少しずつ黒い粒子となって崩れ始めた。

「これが……。」

 図鑑の知識は本当だった。

 肉体は世界樹へ還り、残るのは魔核だけ。

 やがて、拳ほどの大きさの紫色の結晶が地面に転がった。

 俺はそれを拾い上げる。

 ひんやりとしていて、微かに温もりも感じる不思議な感触だった。

「これが、人々の暮らしを支えてる……。」

 街灯も。

 暖炉も。

 水道も。

 すべてはこの小さな魔核から始まる。

 だから冒険者は命を懸けて洞窟へ潜る。

 その意味を、少しだけ理解できた気がした。

 魔核を腰袋へしまい、もう一度剣を握る。

 腕の傷は少し痛む。

 それでも、足は止まらなかった。

 今日の目的は魔核を持ち帰ることだけではない。

 この洞窟で生き残る術を、一つでも多く覚えること。

 そして、自分の中に眠るあの力の正体へ、一歩でも近づくことだった。

 ロックラットから得た魔核を腰袋へしまい、僕はゆっくりと息を吐いた。

 たった一体。

 それだけなのに、額には汗が滲んでいる。

「思ったより……疲れる。」

 剣術の訓練なら、朝から夕方まで続けても平気だった。

 けれど、本物の戦いは違う。

 相手は手加減をしない。

 一瞬の油断が命取りになる。

 その緊張が、想像以上に体力を奪っていた。

 俺は近くの岩へ腰を下ろし、水筒の水を一口飲む。

 まだ探索を始めて一時間も経っていない。

 今日は無理をするつもりはなかった。

「あと一体か二体だけ……。」

 そう決めて立ち上がる。

 歩き始めると、洞窟の静けさが耳についた。

 遠くから聞こえる水滴の音。

 どこからともなく吹き抜ける風。

 そして、自分の足音。

 冒険者が「洞窟では静けさこそ危険だ」と話していた意味が、少しだけ分かる気がした。

 音がないからこそ、小さな物音にも敏感になる。

 ガリッ。

 前方の岩陰から音がした。

 今度は慌てない。

 剣へ手を添えながら距離を詰める。

 現れたのは二体のロックラットだった。

 一体がこちらを見つけると、すぐに威嚇するように唸る。

「二体か……。」

 昨日までの俺なら、不安の方が大きかっただろう。

 けれど今は違う。

 真正面から突っ込む危険さも、一体ずつ確実に対処する大切さも、さっきの戦いで少しだけ学んだ。

 一体が飛び込む。

 避ける。

 その動きに合わせるように、もう一体が横から襲いかかる。

「連携……!」

 思わず後ろへ飛ぶ。

 人間ほど高度ではない。

 それでも群れで狩りをする本能なのだろう。

 囲まれれば危ない。

 広間の中央へ移動し、背後を岩壁に預けた。

「これなら……!」

 正面からしか来られない。

 一体目が飛びかかる。

 剣を振る。

 今度は確かな手応えがあった。

 ロックラットは地面へ倒れ、そのまま粒子となって崩れていく。

 しかし、安心する暇はない。

 二体目は仲間が倒れた直後を狙っていた。

 鋭い牙が目前まで迫る。

 その瞬間だった。

 身体の奥が、また熱を帯びる。

 世界がゆっくりになる。

 腕が軽い。

 足が自然に動く。

 考えるより先に身体が反応していた。

 半歩踏み込み、剣を横へ払う。

 銀色の軌跡が走る。

 ロックラットは僕に触れることなく地面へ転がった。

 静寂。

 そして二つ目の魔核が転がる。

「……やっぱり。」

 自分の手を見る。

 この力は偶然じゃない。

 昨日だけのものでもない。

 確かに俺の中に存在している。

 けれど、魔法ではない。

 火も、水も、風も、雷も使っていない。

 魔力を放つ感覚もない。

 ただ身体だけが異常なほど強くなる。

「これが……俺の力なのか。」

 答えは出ない。

 それでも一つだけ分かったことがある。

 この力があったから、暗殺者から生き延びることができた。

 そして今、この洞窟でも戦えている。

 腰袋へ三つ目の魔核をしまう。

 そこで初めて、周囲を見回す余裕ができた。

 岩壁には古い剣傷が残っている。

 折れた槍の穂先。

 錆びついた短剣。

 誰かがここで戦った証だった。

 そして、生きて帰れなかった者もいたのだろう。

 俺は自然とギルドで言われた言葉を思い出す。

『ギルドカードは絶対に無くさないでください。』

『身分証明にもなりますし、亡くなった場合は身元確認にも使われます。』

 ここへ来るまでは現実味がなかった。

 でも今なら分かる。

 この洞窟では、生きて帰ること自体が当たり前ではない。

「……今日は帰ろう。」

 初日の目的は十分果たした。

 地図を確認し、来た道を戻り始める。

 帰り道では、何組もの冒険者とすれ違った。

 巨大な魔物を担ぐパーティー。

 傷だらけになりながら笑い合う仲間たち。

 彼らは皆、命懸けで今日を生き抜いた者たちだった。

 洞窟を抜け、眩しい陽射しを浴びた瞬間、思わず目を細める。

「……戻ってきた。」

 たった半日。

 それだけなのに、外の空気が懐かしく感じる。

 ギルドへ向かい、受付へ魔核を差し出す。

「初探索、お疲れさまでした。」

 受付の女性は魔核を確認すると、穏やかに微笑んだ。

「一階層で三個なら十分ですよ。」

「ありがとうございます。」

 換金を終え、革袋へ受け取った硬貨をしまう。

 金額は決して多くない。

 この額だと毎日洞窟へ行かないとだ。

 それでも、自分の力で初めて得た報酬だった。

 王城で暮らしていた頃とは違う。

 今日の一枚一枚の硬貨は、自分が命を懸けて手に入れたものだ。

 ギルドを出ると、夕日が街を赤く染めていた。

 今日もまた、多くの冒険者が洞窟から帰ってくる。

 誰かは笑い、誰かは仲間を支え、誰かは静かに空を見上げている。

 フロンティアでは、それが一日の終わりだった。

 俺はその光景を見つめながら、小さく拳を握る。

「もっと強くならないと。」

 もう大切なものを失わないために。

 誰かに守られるだけの自分でいないために。

 その日、セムとして初めての洞窟探索は終わった。

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