第5話 死んでも一緒はまっぴらだ!熟年夫婦の墓事情。
「主人と……死別した後に、離婚したいんです。主人の家のお墓には、絶対に、1秒たりとも一緒に入りたくありません!」
深夜10時を過ぎた新政寺の客殿。
目元を真っ赤に腫らした54歳の女性、松永恵美子さんは、震える手で1枚の離婚届を僕の前に差し出していた。上品なローゲージのニットを着ているが、その肩は小さく震えている。
「死後離婚……。法的には『姻族関係終了届』ですね」僕は温かい緑茶を彼女の前に置き、静かに椅子に座った。
「はい。4ヶ月前に、夫の修一が脳梗塞で急死したんです。それから毎日、夜も眠れなくて……」
恵美子さんの口から語られたのは、30年間にわたる「見えない監獄」の物語だった。
亡くなった夫の修一氏は、絵に描いたような亭主関白。家庭内では恵美子さんを家政婦か奴隷のように扱い、感謝の言葉一つかけたことはなかったという。さらに過酷だったのは、修一氏の実家との関係だ。恵美子さんは長年、敷地内同居をしながら義父母の過酷なワンオペ介護を強いられてきた。修一氏は「嫁なんだから当然だ」と、一切手助けをしなかった。
「夫が死んだ時、悲しいというより、不謹慎ながら『やっと終わった』と思ってしまったんです。でも、違いました。夫の兄である義兄から、『お前は松永の嫁なんだから、死んだら修一と一緒に松永家の墓に入るんだ。それが義務だ。それまで義父母の法事も全部お前が仕切れ』と言われて……」
恵美子さんは涙をボロポロと畳にこぼした。
「生きている間もあの人に尽くし、義実家に縛られ、死んでからもまた、あの冷たい墓石の下で永遠にあの人の家政婦をさせられるのかと思ったら、息ができなくなって……。お坊さん、私は悪い妻ですか? 死んだ夫を裏切る、罰当たりな人間なんでしょうか」
胸をかきむしるような彼女の問いに、僕の横で話を聞いていた母の芳子も、目元を潤ませて言葉を失っていた。
しかし、僕の脳内にある『西新宿の冷徹なアルゴリズム』は、全く違う答えを導き出していた。
「恵美子さん」
僕は眼鏡のブリッジを押し上げ、まっすぐに彼女を見つめた。
「悪い妻なわけがないでしょう。30年間という長期にわたり、亭主関白というハラスメントに耐え、ワンオペ介護という過酷なタスクを完遂した。あなたの一流のコミットメント(貢献)に対して、これ以上リターン(見返り)のない投資を強いる方が、よっぽど不条理です」
「え……?」
「死後離婚、大賛成です。すぐに役所に姻族関係終了届を提出してください。それは、あなたがこれからの人生の自由を取り戻すための、正当な『契約解除』です」
僕の身も蓋もない、しかし絶対的な肯定の言葉に、恵美子さんは呆然と目を見開いた。
「ですが、問題は『お墓』ですね。松永家の先祖代々の墓は、当寺の境内にあります。つまり、墓の管理権を持つ義兄の許可がなければ、話が拗れる。……よし、その問題、僕が修正します」
数日後の昼間。
案の定、新政寺の客殿に、顔を真っ赤にした男が怒鳴り込んできた。恵美子さんの義兄、松永健治(60歳)だ。
「おい! 新米住職! 恵美子のやつが『死後離婚する』なんて不届きなことを言い出したぞ! 親戚一同大騒ぎだ! 嫁の分際で松永の墓に入らんとは何事だ、お前からも厳しく説教してくれ!」
健治氏はふんぞり返り、大声を張り上げた。典型的な「家制度」の亡霊だ。僕は営業スマイルを消し、冷徹なビジネスモードでノートパソコンを開いた。
「健治さん、落ち着いてください。ビジネスマンとして、いや、この寺の住職として言わせていただきますが、恵美子さんを無理に松永家の墓に入れるメリットは、あなた方にとって1ミリもありませんよ」
「なんだと!?」
「データを見てください」僕は画面を健治氏に向けた。
「現在、松永家の墓の年間管理費は、恵美子さんがパート代から支払っています。もし、彼女を無理に縛り付けたとして、彼女が亡くなった後、その管理費を支払う後継者は誰ですか? 健治さん、あなたのお子さんですか?」
「いや、うちは息子が2人とも東京で就職して、向こうでマンションを買ったから、こっちの墓を継ぐ気はないと言っていて……」
「でしょうね」僕は冷たく微笑んだ。
「つまり、恵美子さんを無理に墓に入れたところで、その後の管理者はゼロ。遠からず松永家の墓は無縁仏になり、撤去されます。無理な囲い込み(ホールド)は、将来的な最大のリスク(破綻)を生むだけです」
健治氏が言葉に詰まる。
「そこで、提案です。恵美子さんには当寺のプレミアム樹木葬【木漏れ日の詩】の『個人プラン』を800,000円で生前契約していただきます。彼女は自分の資金で、自分だけの永遠の自由を確保する。そして松永家は、彼女の死後の管理義務から完全に解放され、将来の墓じまいのコストを大幅に削減できる。これこそが、双方のポートフォリオを最適化する『ウィン・ウィンの解決策』です。文句はありますか?」
「う、ううむ……。しかし、世間体が……」
「世間体で、今後の墓の管理費が出せますか? 時代遅れのシステムにしがみついて共倒れするおつもりですか?」
圧倒的なロジックの刃。健治氏はぐうの音も出なくなり、肩を落として「……好きにすればいい」と吐き捨てて立ち去った。
後日、新政寺の裏庭。
青空の下、美しく整地された樹木葬の区画で、恵美子さんは憑き物が落ちたような、本当に美しい笑顔を浮かべていた。
「阿出川住職、ありがとうございました。これでやっと、私は私の人生を生きられます。死ぬのも、怖くなくなりました」
800,000円の生前契約書にサインを終え、彼女は深々と頭を下げた。
「どういたしまして。あなたのセカンドライフのスタートを応援できて光栄です」見送りながら、僕は法衣のポケットの中で拳を握りしめた。
これでまた1つ、確実なキャッシュフローを確保。
長老檀家たちとの約束を守りつつ、現代の悩める人々を救い、なおかつ寺の利益を最大化する。僕のターンアラウンド・プロジェクトは、完璧な軌道に乗っていた。
夜、本堂のデスクでノートパソコンの財務管理画面を見ながら、僕は声を漏らした。
「樹木葬の契約が累計20件、マンション型永代供養墓の予約が50件。今月の目標利益を大幅に達成し、返済原資として15,000,000円を確保。……フッ、親父。見たか。数字とロジックがあれば、このボロ寺だって立派に蘇るんだよ」
完璧だ。
このペースなら、2億円の借金などあと5年で完済できる。
勝利を確信し、冷えたコーヒーを口に含んだその時——。
境内の静寂を切り裂くように、重厚なエンジン音が響いた。山門の前に止まったのは、場違いなほどピカピカに磨き上げられた、黒塗りの最高級外車だった。
バタン、とドアが閉まる重い音が響く。
本堂の入り口に現れたのは、パリッとした高級仕立ての3ピーススーツに身を包み、冷酷な光を宿した目を細めた、大柄な男だった。その後ろには、いかつい体格の部下が2人控えている。
「……おやおや、ずいぶんと景気が良さそうだね、新しい若住職さん」
男は低く地を這うような声で笑い、土足のまま本堂の畳に一歩を踏み出した。
「な、何ですか、あなたたちは! 土足で上がるなんて失礼でしょう!」
奥から出てきた母の芳子が、恐怖に顔をこわばらせて叫ぶ。
男は懐から1枚の、古びた、しかし法的な効力を完全に持った書類を取り出し、僕のデスクに叩きつけた。そこには、父の署名と、新政寺の土地・建物のすべての権利を担保とする旨が記されていた。
「私は東條金融の代表、東條だ。先代の義正さんには、200,000,000円を貸し付けていてね。……契約書通り、今月末までに『一括返済』してもらおうか」
「なっ……今月末!? 残りあと2週間しかないぞ!」
さすがの僕も立ち上がり、声を荒らげた。
「分割返済の約束だったはずだ! 毎月利息も含めて確実に支払っている!」
「先代とはね」東條は冷酷に微笑んだ。
「契約書の特約条項を読みたまえ。借入人が死亡した場合、債権者は即座に全額の一括弁済を請求できる、とある。2週間後に200,000,000円を用意できなければ……この新政寺の土地、建物、そして裏の墓地もすべて、我が社がいただく。ここに巨大なゴミ処理施設でも建てようと思ってね」
男の冷たい目が、僕を値踏みするように射抜く。
2週間で、2億円。
いくらネット広告が当たり、樹木葬が好調でも、物理的に不可能な数字だった。
「さあ、どうする? エリート営業マン上がりの若住職。君のその自慢のパソコンとロジックで、この絶望的な数字をひっくり返してみなさい」
東條は冷たく言い残し、去っていった。
夜の本堂に取り残されたのは、絶望的な数字の壁と、激しく刻まれるタイムリミットの音だけだった。
我が新政寺のターンアラウンド・プロジェクト、ここにきて、最大の危機を迎える——。




