■温泉旅行編(食事〜雷〜夜の対話)
しばらくして。
障子が静かに開き、次々と料理が運び込まれる。
色とりどりの小鉢、湯気を立てる椀物、焼き物、刺身。
卓はあっという間に埋め尽くされる。
「……こんなに」
思わず呟くみさと。
すると宗平が、どこか得意げに言う。
「若い女性向きに、量は少なめにしてもらってます」
「これで?」
呆れた声が出る。
「普通はどれだけ並ぶんですか」
「見たら帰りたくなるかもしれませんね」
そんな軽口を交わしながら箸をつける。
一口。
そして、二口。
みさとの手が止まらなくなる。
(……美味しい)
気づけば、綺麗に平らげていた。
ワインも進む。
身体の緊張が、ゆるやかにほどけていく。
食後、宗平は窓際のソファに移った。
「もう少し、飲みません?」
手招きする。
みさとは内心で笑う。
(酔わせるつもりね)
だが――
(甘い)
自分の酒の強さには、少し自信がある。
隣に座る。少し距離を空けて。
宗平がワインを注ぐ。
彼自身は、ウイスキーの水割り。
それを見て、みさとが言う。
「ワインは飲まないんですか?」
「白は少し。赤は苦手で」
グラスを軽く揺らす。
「基本はウイスキーですね。付き合いだとブランデーですけど」
「ブランデー?」
「次の日が楽なんですよ」
さらりと言う。
「ウイスキーは好きなんですけど、飲み過ぎると響く」
みさとは少しだけ眉をひそめる。
(……どこで覚えたの、この人)
年齢に似合わない言葉。
ふと、過去が気になる。
その時。
閃光。
遅れて、空を引き裂くような轟音。
「――っ!」
みさとの身体が反応する。
気づけば、宗平にしがみついていた。
「大丈夫ですか」
すぐ近くの声。
はっとして、離れる。
「……すみません」
少し照れたように笑う。
「私、雷が苦手で」
意外でしょ、と。
その言葉の途中で――
また閃光。
轟音。
今度は間を置かない。
「きゃっ……」
再び、しがみつく。
その距離。
触れる温度。
宗平の中で、何かが切り替わる。
(……今なら)
理性が一瞬、遅れる。
みさとの顔が、すぐそこにある。
目を閉じている。
ほんの一瞬。
唇が触れる――
その瞬間、宗平を押し退けて
ぱん、と乾いた音。
頬に衝撃。
「……っ」
宗平が顔を押さえる。
「痛っ……」
みさとは、はっとして自分の手を見る。
(……今、受け入れかけた?)
その事実に、自分で驚く。
力が強くなりすぎた。
「……大丈夫ですか?」
宗平を見る。
宗平は少しだけ顔を歪め、そして苦笑した。
「ええ……まあ」
気まずい空気。
部屋の中で、雷の音だけが続いていた。
気まずい空気が、しばらく漂った。
どちらも何も言わなかった。宗平は頬に手を当てたまま、
少しだけ顔を歪めている。
みさとは視線を落としたまま、動かない。
やがて。
どちらともなく、寝支度に入る。
並んだ布団。
みさとは、思い切り引き離す。
無言の意思表示。
宗平がそれを見て、ふっと笑う。
「もう襲いませんよ」
軽く言いながら、自分の布団を少し寄せる。
「顔が変形しそうなんで」
そう言って、背を向ける。
みさとも横になる。
だが、眠れない。
身体も、心も、どこか熱が残っている。
隣からは、すぐに寝息。
(……早い)
思わず呆れる。
(どういう神経してるのよ)
さっきのこと。
キス。
自分の反応。
頭の中を巡る。
眠れない。
「……眠れないんですか」
不意に声。
みさとがびくりとする。
「起きてたんですか?」
「さっきまで寝てましたけど」
小さく息をつく。
「ちょっと疲れてて」
(よく言うわ)
内心で思う。
(少々じゃ死ななさそうなのに)
だが口には出さない。
少し間が空く。
そして、みさとがぽつりと聞く。
「……私の、どこがいいんですか」
宗平は、間を置かずに言う。
「全部」
その即答に、少しだけ心が揺れる。
だが続ける。
「……まあ、いくつか気に入らないところもありますけど」
「どっちですか」
「おおよそ、ですね」
みさとは小さく笑う。
「……特に、私のどこが良いんですか?」
静かな部屋。
暗がりの中での問い。
宗平は少しだけ黙った。
暗がりの中で、何かを確かめるように。
「雰囲気、ですかね」
「あと、声。喋り方」
少し間を置いて。
「一番いいのは、たまに見せる笑顔」
みさとの呼吸が、わずかに止まる。
「……あれ見れるなら、少々の無理はします」
「少々、なんですか?」
みさとが少し拗ねたように言う。
内心では別のことを思っていた。
(……顔じゃないんだ)
容姿には、それなりに自信がある。
だからこそ、少し拍子抜けする。
でも――
(……それ、嬉しいのかも)
そんな感情が、じんわりと広がる。
そして、少し真面目な声になる。
「……人って、どうして好きになるんでしょう」
「異性の、どこを」
静かな問い。
宗平は少し考える。
当たり前の答えを言うつもりだった。
だが――
違う言葉が、出た。
宗平が、ほんの少しだけ違う声で言う。
「似てないから、だと思います」
「え?」
「知っている誰かとも、似ていない」
一拍。
「だから、あなたが見える」
「似すぎてると、選ばない」
「ちょうどいい距離の違いに、惹かれる」
部屋の中に、静けさが落ちる。
みさとは天井を見つめる。
(……似て、ない)
むしろ、違いすぎる。
考え方も、見ているものも。
なのに。
(……なんで)
少しだけ、胸がざわつく。
外ではまだ、遠くで雷が鳴っていた。
だが部屋の中は、さっきとは違う静けさに包まれていた。
触れなかった距離。
越えなかった一線。
その“手前”で、二人の関係が、ゆっくりと形を変え始めていた。
そのまま会話は途切れ、いつの間にか眠りに落ちていた。




