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温泉旅行編(夜明け〜二日目の軽やかな距離)

朝。

障子越しの光。

少し寝過ごした二人。

「失礼します」

仲居が入ってくる。

布団を上げながら、自然に動く。

その横で。

宗平が、さりげなく手を伸ばす。

何かを握らせる。

そして、小さく耳打ち。

みさとは、ぼんやりとその様子を見ていた。

(……何、今の)

聞こえたのは、ほんの一部だけ。

「……母親には、そう報告して」

その言葉。

(……新婚初夜みたい)

すぐに目を逸らす。

朝食。

静かな食事。

だが、みさとの頭の中には、昨夜の出来事が何度もよぎる。

雷。

抱きついたこと。

キス。

ビンタ。

(……何やってるの、私)

箸が、少しだけ遅れる。

「どうかしましたか?」

宗平の声。

顔を上げる。

「……いえ、何も」

それ以上は、言わない。

宗平も、追わない。


二日目ツアー

少し離れた観光地へ。

ツアーで巡る。

空気は昨日より軽い。

宗平が、やたらと写真を撮る。

カシャ、カシャ、と。

そして。

必ず、みさとを入れてくる。

「……やめてもらえます?」

少し呆れ気味に言う。

「いいじゃないですか」

宗平は気にしない。

「僕は入りませんから」

その言葉に、みさとは一瞬止まる。

(……僕?)

ふっと、笑みがこぼれる。

「どうしました?」

宗平が不思議そうに見る。

「いえ」

小さく笑う。

「いつも“私”って仰るから、“僕”が珍しくて」

宗平は少しだけ考えて――

「じゃあ、“やつがれ”にしましょうか」

「字、違いません?」

「こう書いても使うことありますよ」

そう言って、みさとの手を取る。

指先で、手のひらに文字を書く。

“僕”

くすぐったさに、みさとが反射的に手を引く。

「ちょっと……」

思わず笑う。

(……油断も隙もない)

「下僕の“僕”です」

宗平がさらりと言う。

みさとは、少しだけいたずらっぽく笑う。

「あら、じゃあ私の下僕になったの?」

その笑顔。

宗平が一瞬、言葉を止める。

そしてすぐに。

「あ、やっぱり“私”にします」

何事もなかったように戻す。

みさとが無意識に言ってしまう。

「男性が“私”って、ちょっとオカマっぽくないですか?」

その言葉に、宗平がわずかに眉をひそめる。

「偏見ですね」

きっぱり言う。

「子供の頃からの癖なんで」

少しだけ、空気が変わる。

みさとは、それに気づく。

(……触れてはいけないところだった)

だが宗平は、それ以上何も言わない。

ただ、いつもの調子に戻る。

「ほら、次行きますよ」

カメラを構える。

「今度はちゃんと笑ってください」

みさとは少しだけ呆れながら――

それでも。

ほんの少しだけ、自然に笑っていた。


■温泉旅行編(二日目後半〜帰路)

どこも素敵だった。

景色も、空気も、時間も。

狭い座席での距離の近さ。

肩が触れそうで触れない、その曖昧な距離に、

みさとは妙に神経を使い、気づけばぐったりと疲れていた。

旅館へ戻る。

風呂上がりの熱が、まだ身体に残っている。

畳の上に座ったまま、ふっと意識が遠のく。

「……少し横になったらどうです?」

宗平の声。

みさとは素直に頷いた。

そのまま、布団に身を預ける。

宗平が、自分の上着をそっとかける。

さらにバスタオルをかける。

気づけば、毛布に変わっていた。

(……この人)

半分眠りながら思う。

上着の匂いが、かすかに残る。

嫌ではなかった。

むしろ――

(……落ち着く)

そんなことを思ってしまう自分に、小さく驚く。

そのまま、深く眠りに落ちる。

目を覚ますと、夕方だった。

「……寝てました?」

「ええ、ぐっすり」

宗平は穏やかに答える。

みさとは少し申し訳なさそうに言う。

「退屈じゃなかったですか?」

「それはそれは、楽しませてもらいました」

その言葉にみさとは、はっとして自分の衿元を見下ろす。

乱れていないか、無意識に確認する。

宗平が慌てて手を振る。

「違いますよ」

苦笑する。

「眺めてただけです」

さらりと言う。

「美しいものを見るのは好きなので」

そして、少しだけ茶化す。

「よだれは垂らしてませんから」

「……もう」

呆れながらも、どこか安心する。

その日は、それ以上何も起きなかった。

静かに、終わる。

翌朝。

まだ少し冷たい空気。

宗平が、唐突に言う。

「あと二日ありますけど」

一拍置く。

「今日で切り上げませんか」

軽い口調。

だが、その奥にあるものを、みさとはなんとなく感じる。

(……これ以上いたら)

何かが変わる。

そんな予感。

みさとも、小さく頷いた。

「……そうですね」

親友のことも、気がかりだった。

帰り道。

「一つだけ、付き合ってください」

宗平が言う。

「蕎麦です。美味しいんですよ」

その店は、派手さこそないが。

だが、一口食べてわかる。

(……違う)

蕎麦。

つゆ。

そして、蕎麦湯。

どれも、知っている味では無い。

静かに、深い。

身体に落ちていく味。

店を出たあとも、余韻が残る。

みさとはふと思う。

(食欲と女好きは関係あるのかな?)

だから、この人は――

(こんなにも、こだわるのかも)

そんなことを考えてしまう自分に、少し苦笑する。

電車の中。

窓の外の景色が流れる。

短い旅だった。

でも――

(……長かった)

不思議な感覚。

濃密で、曖昧で。

終わるのが、少しだけ寂しい。

そんな気持ちがよぎる。

「……」

すぐに打ち消す。

(何考えてるの、私)

やがて、駅に到着。

(……ここから)

また、現実が始まる。

だが。

この数日の時間は、確かに残っていた。

簡単には、消えない形で。


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