旅館到着〜吊り橋
山の奥。
本当に、何もない場所。
その中に――
「……すごい」
思わず声が漏れる。
古い木造の建物。
だが、手入れが行き届いている。
静かで、重厚で、どこか時間が止まっているような空間。
玄関の前に、一人の女性が立っていた。
女将だ。
「お待ちしておりました」
深く頭を下げる。
「事情はすべて伺っております」
その一言に、みさとはわずかに驚く。
(……もう?)
だがそれ以上は聞かない。
「どうぞ、お部屋へ」
まだ時間は早い。
それでも、丁寧に案内される。
廊下を歩くたび、木が静かに軋む。
部屋に通される。
障子越しの光。
畳の匂い。
遠くに、川の音。
「……落ち着きますね」
みさとが呟く。
宗平は、軽く頷いた。
「でしょう」
そして、ふっと立ち上がる。
「少し早く着きましたね」
みさとを見る。
その目は、いつもの軽さと少し違う。
「その辺、見て回りませんか」
外を指す。
山の空気。
閉じた空間から、少しだけ開かれた場所へ。
みさとは一瞬迷う。
だが――
「……はい」
小さく頷いた。
まだ、不安は消えない。
けれど。
このまま部屋にいるよりは、いい。
二人は、静かに外へ出る。
山の空気が、少しだけ冷たい。
そして、どこか――
逃げ場のない物語が、ゆっくりと動き始めていた。
温泉旅行編②(吊橋〜雨宿り〜浴衣)
吊橋が見えてきた瞬間。
みさとは、ふと足を止めた。
(……ああ、なるほど)
細く揺れる橋。下は深い谷。
いわゆる“吊橋効果”。
横を見ると、宗平が何でもない顔で言う。
「どうぞ、レディーファーストです」
(やっぱり)
内心でため息をつく。
(なんてわかりやすい人)
だが――
「大丈夫です」
一歩、踏み出す。
吊橋なんて、怖くない。
そう思っていた。
最初は。
だが中程を過ぎたあたりで、視線がふと下に落ちる。
谷。
想像以上の深さ。
一瞬、足の感覚が曖昧になる。
(……え)
その瞬間。
ぐらりと、足もとが消えた。
「――っ」
落ちる、と思った。
だが次の瞬間。
強く、引き寄せられる。
宗平の腕。
しっかりと抱き留められていた。
「大丈夫ですか」
すぐ近くで声がする。
みさとは、息を整えながら頷く。
「……大丈夫、です」
そう言うものの。
足が、動かない。
橋が揺れる。
感覚が戻らない。
宗平は一瞬だけ様子を見て――しゃがんだ。
「乗ってください」
「……え?」
「背負います」
即答。
みさとは顔をしかめる。
「大丈夫です。歩けます」
言いながらも、一歩が出ない。
後ろに、観光客の気配。
道を塞いでいる。
空気がじわじわと押してくる。
その時。
「じゃあ、こっちで」
宗平が言った瞬間。
みさとの身体が不意に宙に浮く。
「ちょっ――」
気づけば、お姫様抱っこ。
「下ろして下さい!」
慌てるみさと。
「向こうに着いたら」
宗平は平然としている。
そのまま、揺れる橋を歩き出す。
「ちょっと、本当に――」
抗議の声も、橋の揺れに紛れる。
結局。
何もできないまま、対岸へ。
ようやく地面に下ろされた瞬間。
みさとは一歩下がる。
「……っ」
心臓が、うるさい。
(違う、驚いただけ)
売店で、お茶を買う。
温かい湯気が、少しだけ落ち着かせる。
みさとは黙って飲む。
宗平は何も言わない。
ただ、少しだけ口元が緩んでいる。
また心拍が上がる。
しばらくして。
宗平が言う。
「例の展望台、行きません?」
みさとは即座に思う。
(冗談じゃない)
だが。
ここで引けば。
何かに“負けた気”がする。
「……はい」
口が勝手に動いた。
登り始めてすぐ、後悔する。
「これ……ハイキングじゃないですよね」
息を切らしながら言う。
「はい、登山です」
宗平は平然。
(この人……!)
文句を言いながらも、登る。
やっとの思いでたどり着いた頂上。
風が、抜ける。
視界が、一気に開ける。
「……すごい」
思わず漏れる。
山々の重なり。遠くの空。光。
確かに、来る価値はあった。
二人、並んで座る。
言葉はない。
ただ、同じ景色を見る。
その静寂を破るように。
ぽつり、と。
雨。
そして、一気に激しくなる。
「えっ」
慌てて立ち上がる。
「こっちです」
宗平が指す。
近くの、古びた東屋。
なんとか屋根の下に滑り込む。
だが雨は止まない。
むしろ強くなる。
しばらく待つ。
それでも、変わらない。
宗平がレジャーシートを取り出す。
「行きましょう」
「この中を?」
「ええ」
結局、二人でそれを被り、山を下る。
肩が触れる距離。
雨音が、すべてを包む。
吊橋前の売店に戻る頃には、ずぶ濡れだった。
「バスは……?」
店の人が首を振る。
「もう終わりですよ」
みさとが息を呑む。
宗平はすぐにスマートフォンを取り出す。
旅館に電話、「迎え、頼みます」短く伝える。
しばらくして、車が来る。
運転手が、二人を見て一瞬だけ顔をしかめた。
その瞬間。
宗平の手が、さりげなく動く。
何かを握らせる。
運転手の表情が変わる。
何事もなかったかのように、ドアが開く。
みさとは気づかない。
ただ、ほっとして乗り込むだけ。
旅館に戻ると、すぐに風呂へ。
温かい湯が、冷えた体に染みる。
(……疲れた)
いろんな意味で。
部屋に戻る。
みさとは先に上がり、用意された浴衣に袖を通す。
若い女性向けらしく少し華やかだった。
帯を締める。
髪を軽く整える。
その時。
障子が開く。
宗平が戻ってくる。
そして――
一瞬、止まる。
言葉が、出ない。
視線が、完全に止まっている。
みさとはその様子に気づき、少しだけ眉をひそめる。
「……何ですか」
宗平は、ゆっくり息を吐いた。
「いえ」
短く言う。
「似合ってます」
それだけ。
それだけなのに。
なぜか、妙に熱を持つ。
みさとは、ふいと視線を外す。
(……ほんとに、この人)
心が、少しずつ。
自分の思っているよりも、深いところで揺れ始めていた。




