第一章見合いの瞬間 二人きりの場面②
しばらく、どちらも話さなかった。
遠くの音が、また聞こえた。今度は人の声。笑い声が混じっている。
この部屋だけが、切り取られたように静かだった。
みさとは、ゆっくりと息を吐いた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「なぜ、この縁談を受けたんですか」
宗平は少しだけ目を細めた。質問の意図を測っているのか、
答えを探しているのか、その両方なのか。
「母に言われたからです」
「それだけですか」
「……それだけではないですね」
正直な声だった。みさとは少し驚いた。誤魔化すと思っていた。
「もう少し、聞かせてもらえますか」
宗平は湯呑を持ち上げ、今度は口をつけた。一口だけ飲んで、置く。
「都合がよかった」
「どういう意味ですか」
「今の僕に、この形が」
それ以上は言わなかった。
みさとは追わなかった。追うべきではないと判断したのか、
追いたくなかったのか、自分でも分からなかった。ただ、
この男が何かを抱えているということだけは、その一文で十分に伝わってきた。
沈黙が、また落ちる。
今度のそれは、最初のものとは少し違う質を持っていた。
値踏みし合う緊張ではなく、どこか——互いの輪郭を、
そっと確かめるような。
「私には」
みさとが言った。
「好きな人がいます」
宗平の視線が、わずかに止まった。
湯気の向こうで、初めて表情が消えた。消えた、というより、薄くなった。
それまでの軽さが、一枚だけ剥がれた。
「そうですか」
少しの間があった。
「じゃあ、その人と結婚すればいい」
「……できれば、そうしてます」
その言葉が落ちた瞬間、みさとは自分が言いすぎたと思った。
思ったが、取り消せなかった。
宗平は、みさとを見ていた。
さっきとは違う見方で。何かを確認するような、静かな目だった。
「うまくいっていないんですか」
みさとは答えなかった。
答えない、ということが、答えだった。
それをこの男が分からないはずがなかった。
「……」
宗平は何も言わなかった。
責めない。慰めない。ただ、その沈黙をそのままにしておいた。
みさとは、その放置のされ方が、妙に居心地よかった。居心地がいい、
と気づいた瞬間に、少し警戒した。
宗平はゆっくりと座り直して、湯呑に手をかけた。
だが口はつけない。ただ、その向こう側にいる
みさとを見てる。これは、まずいなと思った。
自覚はあった。
さっき顔を合わせたばかりの女に、ここまで引かれる
のは珍しい。いや、正確には――久しぶりだった。
クラブの女の顔が、一瞬だけ脳裏をよぎる。
甘く、計算され尽くした笑み。だがその裏で、
別の男と繋がっていた事実。
もう終わってる。
未練はない。怒りも、もう冷めている。
けれど母は知らない。
そしてこの縁談は、“まだ終わっていない男”として
進んでる。 宗平は小さく息を吐いた。
(だからって……)
目の前のみさとを見る。
整っている。強い。けれど、どこかに隙がある。
折れないようにしている人間特有の、ほんの小さ
な歪み。(弱みにつけこむのは、趣味じゃない)
そう思う。
思う、のだが――
(……ちょっとくらい、試したくはなるな)
子供の部分が、顔を出す。
宗平は、ふっと笑った。
「もう一つ、いいですか」
みさとが視線を上げる。
「何でしょう」
宗平は、わざと軽く言った。
「僕、このまま結婚してもいいんですよ」
空気が、一瞬止まる。
みさとの目が、はっきりと揺れた。
それを見て、宗平の中で何かが反応する。
(ーー今の、顔)
ほんのわずかな動揺。
それだけで、距離が縮まった気がする。
みさとはすぐに表情を整える。
「……冗談、ですよね」
「どうでしょう」
宗平は肩をすくめる。
「条件的には悪くない。あなたも困ってる、僕も都合がいい」
あえて“感情”を外した言い方。
「利害は一致してる」
みさとの視線が、少しだけ鋭くなる。
「……それは、結婚の理由にはなりません」
「なりますよ」
あっさり返す。
「少なくとも、長く続く理由にはなる」
その言葉が、みさとの中に落ちた。反論しようとして、
言葉が出なかった。感情で否定できても、論理で否定できない。
その重さが、少しだけ腹立たしかった。
「……私には、好きな人がいると言いました」
「聞きました」
「それでも、ですか」
宗平は少しだけ考えた。
「その人と今うまくいっていないなら」
一拍。
「比較できます」
「何をです」
「僕と、その人」
みさとは、宗平を見た。
挑発とも、提案とも取れる声音だった。どちらとも取れるように、
計算して言っているのか。それとも、本当にそう思っているのか。
(……読めない)
また、同じ言葉が頭の中に浮かぶ。
「三ヶ月」
宗平が言う。
「その間にどちらがまともか、判断すればいい」
「踏み込んでくる。でも、乱暴ではない。みさとの知っている誰とも、
違った。」
みさとはしばらく、宗平を見つめていた。
小さく、息を吐いた。
「……本当に、意地の悪い人ですね」
「よく言われます」
即答だった。
その速さに、みさとは思わず笑いそうになった。笑いそうになって、
堪えた。堪えたことを、この男は見ていた。
見ていて、何も言わなかった。
「……後悔しますよ」
「その時は、その時です」
窓の外で、風が一度だけ鳴った。
みさとは視線を外した。外しながら、思った。
この縁談は、誰かを救うための取引のはずだった。
三ヶ月。
その言葉の重さが、さっきとは少しだけ違う形をしていた。




