第十二章 みさとの帰還 修正版
「宗平!」
涼子が腹をさすりながら呼んだ。
週末の宗平は、すっかり涼子の世話係になっている。
そのとき、涼子の携帯が鳴った。
画面を見た瞬間、涼子の顔色が変わる。
腹違いの弟、真斗が倒れたという。
宗平に付き添われ、ふたりは病院へ向かった。
病室には涼子だけが入った。
真斗は酸素マスク越しに、かすれた声で言う。
「涼子姐……俺、もう長くねえ」
涼子は黙って手を握った。
「頼みがある。みさとと、美緒を……頼む。こんなこと言えるの、
姐だけだ」
涼子の喉が詰まる。
真斗は途切れ途切れに続けた。
事業に失敗し、金を借り、返せず、追われていること。
みさとに手を上げてしまったこと。
そして、癌が末期であること。
「俺が、全部悪い」
涼子は、ただ頷いた。
真斗のリビング。
男が三人。誰も座らない。
みさとと美緒だけがソファーにいる。
「期限、過ぎてますよね」
低い声
みさとが何か言おうとした瞬間、テーブルが叩かれた。
美緒がしがみつく
男の一人が、みさとを上から下までゆっくり眺める。
値踏みする目。
「……働き口、紹介してもいいぜ」
みさとの指が、美緒の服を強く握る。
奥に座っていた男が、ゆっくり立ち上がる。
「旦那さん、長くないんだろ」
その一言で、みさとの顔色が変わる。
「考えといてください」
男たちは帰っていった。
部屋に残ったのは、恐怖だけだった。
数日後
チャイムが鳴ったのは、夕方だった。
涼子はエプロンをつけたまま玄関へ向かった。宗平は外出している。
来客の予定はない。
ドアを開けた瞬間、涼子は息を呑んだ。
みさとだった。
やつれていた。会うたびに削れていくような、
そういうやつれ方ではなかった。
もっと別の何かだった。
目が、違った。
涼子はこれまで、様々な目を見てきた。怒りの目、哀しみの目、諦めの目。
でもみさとの目は、そのどれとも違った。
静かすぎた。
嵐の前ではなく——嵐の後のような静けさ。
全部が、終わった人間の目だった。
その足元に、美緒がいた。
「おとうたん!」
美緒が宗平を探して、涼子の足元を覗き込む。
涼子はみさとを見た。みさとは涼子を見ていた。
何も言わなかった。でも涼子の胸の奥で、何かが鳴った。
「上がって」
自分の声が、思ったより静かだった。
食事の間、涼子はほとんど喋らなかった。
みさとも喋らなかった。美緒だけが、よく喋った。スプーンを握り、
こぼし、涼子に拭いてもらい、また喋った。
その様子を、みさとは見ていた。
涼子が美緒の口元を拭く手つきを、ただじっと見ていた。
その目に、涼子は気づいた。
(……預けようとしている)
この子を。この子だけを。
まだ確信ではなかった。でも、そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「お風呂、使って」
食後、涼子が言った。
みさとは首を振りかけた。
「使って」
もう一度、同じ声で言った。
みさとは小さく頷いた。
立ち上がる直前、みさとが言った。
「……美緒を」
声が、かすれていた。
「美緒を、よろしくお願いします」
涼子は動かなかった。
みさとは涼子を見ていなかった。美緒を見ていた。眠そうに目を擦る美緒を、
何かを刻みつけるように、見ていた。
涼子は確信した。
(この人、死ぬ気だ)
浴室へ向かうみさとの背中を、涼子は見送った。
廊下に立ったまま、涼子は動けなかった。
やくざに追われていることは、真斗から聞いていた。真斗の借金のことも。
みさとが追い詰められていることも。
でも——こんなところまで来ていたとは。
涼子は自分の手を見た。
この手で、宗平を追い詰めた。みさとを試した。優位に立とうとした。
全部、頭で計算していた。
その計算の積み重ねが、みさとをここまで追い詰めた一つの理由だと、
涼子は思った。思って、目を閉じた。
湯が流れる音がしている。
あの音が止まるまで、みさとはまだここにいる。
涼子は浴室のドアをノックして着替えを差し入れた。
その瞬間。
湯気の向こうに見えたものに、涼子は息を呑んだ。
みさとの背中。肩。腕。
青い痣が、いくつも残っていた。
涼子はドアを閉めた。
廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
(……本当だったんだ)
湯気の向こうに見えた痣を確認してから、涼子はリビングに戻った。
宗平が帰っていた。
美緒が足元に抱きついている。宗平は涼子を見た。
涼子は一歩近づいて、低く言った。
「みさとさんを今日、帰したら駄目」
宗平が顔を上げる。
「あの人、死ぬ気よ」
宗平の顔から、表情が消えた。
「美緒だけを置いていくつもりで、ここに来た」
「……」
「私の勘、当たるわよ」
宗平は動かなかった。動けなかった。
涼子は続けた。
「それと」
一拍。
「みさとさんは、裏切っていない」
宗平の喉が動いた。
「真斗から聞いた。みさとさんは最後まで、あなたの妻だった」
部屋の中に、静けさが落ちた。
美緒がぱたぱたと走り回っている。その音だけが聞こえた。
宗平は、窓の外を見ていた。
あの時、信じ切れなかった。血液型の数字を見た瞬間に、疑った。
みさとが真斗のもとへ身を寄せたのを、罪の証拠のように受け取った。
みさとは何も言わなかった。
言えなかったのではなく——信じてほしかったのだと、今になって分かる。
(俺が、信じるべきだった)
その後悔が、静かに、確実に、胸の中に沈んでいった。
みさとが風呂から出てきた。
浴衣姿で、少しだけ血色が戻っていた。でもその目は、まだ静かすぎた。
涼子はみさとに近づいた。
声を落とす。宗平には聞こえない距離で。
「借金は、私と宗平で何とかするわ」
みさとが顔を上げる。
涼子は少しだけ間を置いた。
「宗平のこと——シェアしましょ」
みさとの目が、大きく見開かれた。
涼子は微笑んだ。
完璧な微笑みではなかった。どこかひびが入っていた。でもそれが、
これまでで一番、涼子らしい顔だった。
宗平はみさとを見た。
みさとは宗平を見た。
一瞬だけ、みさとの目が揺れた。
涼子は二人を見て、美緒の手を取った。
「ゆっくり話しなさい」
寝室へ向かいながら、涼子は思った。
本来、去るべきなのは自分だ。それは分かっている。
でも今夜だけは——この二人に、時間を渡したかった。
廊下の向こうから、宗平の声が聞こえた。
何を言っているか、聞こえなかった。
次に、みさとの泣く声が聞こえた。
涼子は美緒の髪を撫でながら、天井を見た。
泣かなかった。
ただ、胸の奥の焦げた場所に、静かに手を当てていた。
翌朝。
涼子は一番早く起きた。
台所に立ち、朝食の支度をしながら、涼子はリビングを見た。
みさとと宗平が、並んで座っている。声は低く、聞こえない。
でも二人の間の空気が、昨日とは違う。
柄にもなく、胸が焼けた。
でも。
涼子は包丁を動かし続けた。
自分があんなことを言わなければ。真斗が、あんなことをしなければ。
本来なら、この二人は穏やかに暮らしていたはずだ。
それでも。
私は宗平の子を宿している。それだけで良しとしなければ。
美緒がぱたぱたと台所に入ってきた。
「おばちゃん、なにつくってるの」
「卵焼き」
「たまごやき!」
美緒が涼子の足元で跳ねる。
涼子は、その頭に手を置いた。
柄にもなく、と涼子は思った。
柄にもなく——この子が、愛おしい。




