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第十一章 失われた記憶

事故から二週間。

病室の窓は、毎日同じ角度で午後の光を受けていた。

姉の宏子は、その光の動きよりも、宗平のまぶたの動きを見ていた。

みさとが来なくなった理由を、誰も説明しない。

聞いてはいけない気配だけが、白い部屋に沈んでいる。

ふいに、宗平の指がわずかに動いた。

宏子は椅子を蹴るように立ち上がり、医師を呼んだ。

診察を終えた医師は、淡々と言った。

「神経の反射でしょう。変わりありません」

変わりがない。

それが、いちばん残酷だった。

宏子は宗平の手を握り、唇だけで祈った。

早く目覚めて。大変なことが起きているの。

翌朝。

宗平は、長い眠りから出てきた人間のように、大きく背伸びをした。

看護師が慌てて医師を呼びに走る。

「お名前と生年月日をおっしゃっていただけますか」

「黒田宗平。二月十三日」

受け答えははっきりしている。

診察と問診が続いた。

廊下で説明を受けた宏子は、聞き慣れない言葉を受け取る。

「解離性記憶障害です。仕事や親族のことは覚えています。

ただ、ご家族の記憶が抜け落ちています」

ご家族。

その一語だけが、やけに重たく響いた。

三週間後。自宅療養中の宗平

仕事に出ると言っては止められ、宗平は退屈を持て余していた。

夜になると、同じ夢を見る。

濃い霧の向こうへ行こうとすると、見えない手に押し戻される。

暗闇の中、見知らぬ男が必死の形相で懇願する。

「―――と――を頼む」

「この二人は、命にかえても守りたい」

誰のことだ。

霧の向こうに、何がある。

目覚めるたびに、胸の奥だけがざらついていた。


ある日、涼子が訪ねてきた。

事故のことを、人づてに聞いたらしい。

ソファに腰掛けた涼子に、宗平は赤ワインを勧める。

自分は水割りを作った。

「私の好み、覚えててくれたんですね」

「当然じゃないか」

軽い会話。軽い笑み。

けれど、部屋の空気はどこか空洞だった。

「怪我のほうは?」

「身体はもういい。ただ、記憶が少し曖昧でね」

宗平はグラスを傾ける。

「そっちはどうだい。旦那さんは元気?」

涼子は、少し視線を落とした。

「ごめんなさい。見栄を張って、嘘をつきました」

沈黙が落ちる。

涼子が、何気ない声で言った。

「みさとさんと、美緒ちゃんは?」

その瞬間、宗平の視界が揺れた。

霧の向こうに、名前が浮かぶ。

みさと。

美緒。

夢の言葉と、現実の名前が、音を立てて繋がった。

「どうしました? 大丈夫ですか?」

我に返った宗平は、無言でスマートフォンを掴んだ。

電話をかける。次々とかける。

血液型。離婚。追い出された母子。行方不明。

みさとの両親は、ただ謝るだけ。

親友の加奈子から、ようやく居場所を聞き出す。

実家にも戻れず、真斗の元に身を寄せているという。

張り詰めていたものが、切れた。

宗平はその場に崩れ落ちた。

スマートフォンを握ったまま、動けない。

涼子が、そっと抱きしめる。

断片的な言葉だけで、すべてを理解していた。

「私は宗平が好き。弱い宗平でも、好き」

その声は、祈りに近かった。


会社に戻った宗平は、以前の宗平だった。

滞っていた仕事を、呼吸のように片付けていく。

緩んでいた空気が、一気に引き締まる。

ただ一つ、机の上だけが変わっていた。

写真立て。宗平が目を向けると、そこにはワインレッドの

ウエディングドレスをまとった涼子と並ぶ、宗平の笑顔。

社員の中には、前の奥さんがいた頃のほうが良かったと、

口にする者もいた。


宗平の留守中のリビング。

出禁のはずの喜美子が、ソファに腰掛けている。

涼子は、札束の入った封筒を差し出した。

「これで例年の会が開けるわ。助かるよ」

「宗平も最初から涼子さんにすれば良かったのよ」

微笑みながら涼子が「ありがとうございます」

笑顔の奥で、涼子は別のことを考えていた。

ーーみさとのことがなければ、私はここにいない。

家政婦が後片付けをしながら言う。

「奥さまはお上手ですね。あの大奥さまを」

涼子は微笑んだ。

「これまでの仕事相手に比べたら、たやすいものよ。内緒にしてね」


この頃、宗平の帰りが遅い。

酒の匂いに混じって、慣れない香水の気配。

涼子の動きは早かった。

元同僚に連絡し、相手を特定する。涼子を知らない派遣の女だ。

喫茶店に呼び出す。

相手の女は、涼子の顔を見た瞬間に固まった。

「宗平の妻の涼子です。理由はわかりますよね」

一拍

「内容証明が届く前に、派遣先を変えなさい」

それだけ言って席を立った。


再び訪ねてきた喜美子。

名目は涼子の妊娠祝い。実際は選挙の話。

「資金とスタッフはご用意していますので」

「気がきくわね。前の嫁とは大違い」

喜美子がコーヒーを口もとにはこびながら。

「もし男の子なら、宗の字を入れて。家の習わしだから」

「お母様、まだ早過ぎます」

「何事も早いに越したことはないわ」

上機嫌で帰る喜美子を、涼子は笑顔で見送った。

宗平の子を宿したことを、心から嬉しいと思っていた。

その頃から、宗平の帰りは早くなり、涼子を気遣うようになった。



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