第十章 事故 失われた母子
宗平は、ことのほか美緒を可愛がった。
それは可愛がるというより、心のどこかを埋める行為に近かった。
早めに帰宅しては、美緒の相手をする。
床に四つん這いになって「お馬さん」になり、
クレヨンだらけの紙を前に、並んでお絵描きをする。
昼寝をさせようとして、先に眠ってしまった宗平の腕を、
美緒が小さな手でよしよしと撫でる。
そんな逆さまの光景を、みさとは何度も見た。
「おとうたん、おとうたん」
三歳を前にした美緒は、宗平の後を追いかけて回る。
宗平も、それを嬉しそうに受け止める。
その様子を見ながら、みさとは思った。
もう一人、いてもいいかもしれない。
その日、宗平は業界のレセプションに向かっていた。
少し出遅れ、ホテルの手前で車が渋滞に巻き込まれる。
反対車線が不自然なほど空いているのが見えた。
「ここで降りる。歩いた方が早い」
宗平はドアを開け、外に出た。
ドアを閉め終わったその瞬間。
背後から、逆走してきたバイクが宗平を跳ね飛ばした。
身体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる。
転倒したバイクを、ライダーが慌てて起こす。
ヘルメットの隙間から、長い髪がこぼれた。
細身のライダースーツの、見覚えのあるプロポーション。
宗平の唇が動いた。
「……礼子」
声にはならなかった。
そのまま、意識が暗闇に沈んでいった。
病院には親族が集まっていた。
医師が言う。
「輸血が必要になるかもしれません。同じ血液型の方は」
「私が宗平と同じO型です」
喜美子が名乗り出る。
医師がカルテを見て、首をかしげた。
「宗平さんはB型ですよ」
その一言で、喜美子の顔色が変わった。
無言でスマートフォンを取り出し、長男の高志に電話をかける。
「今からそっちに行く」
それだけ言って、踵を返した。
高志は字が似ている。そして議員の顔がある。
それだけで、十分だった。
廊下で駆けつけたみさととすれ違ったが、
喜美子は目もくれなかった。
翌朝早く。
宗平の家に、喜美子が現れた。
入ってくるなり、紙を一枚突きつける。
「これに署名と判子」
離婚届だった。
「お母様、これは……」
「何だじゃないわよ。早くしなさい!」
みさとは意味が分からず、ただ戸惑う。
「その子、O型でしょ」
「宗平はB型よ。お医者さんが言ってた」
みさとの思考が途切れる。
(一抹の不安は、あった。真斗とのあの一度が、頭の隅にあった。)
(けれども生理はすでに遅れてたし宗平とは頻繁だった…
アフターピルを使ったら宗平の子供を殺してしまう
だから使わなかった
それに、宗平があんなに喜んでいたから。
まさか)と思っていた。
言われるままに、署名し、判子を押す。
喜美子はそれを奪うように取り上げると、言った。
「今週中に、この家を出ていってね」
それだけ残して去っていった。
社長室で、喜美子は兄の宗治に詰め寄った。
「宇垣のところの融資、引き揚げて」
事情を聞いた宗治は、信じられない顔をする。
だが宗平からは、どんなことがあっても引き揚げるなと、
きつく言われていた。
「無理だ。契約だ。それに今はグループの一員だ」
続けて静かに言った。
「離婚届を出したって言ったが、宗平は意識不明だぞ。
どうやって署名させた。公文書偽造になる」
喜美子の目が吊り上がる。
「このまま宗平が死んだら、財産は全部あの母子のものよ!」
宗治は黙り込む。
「あのみさとさんが……?」
理解が追いつかない。
(宗平、早く目覚めてくれ。)




