第九章 血液型
桜のつぼみが、枝先で小さく息をふくらませ始めたころ。
黒田家のリビングには、春の光がやわらかく満ちていた。
窓際のソファに、二人は並んで座っていた。
宗平の右腕はみさとの肩を包み、左手はゆっくりと彼女の腹を
撫でている。まだ目立つほどではないが、確かにそこには
、未来が息づいていた。
「男の子なら良平か光平。女の子なら美緒ってどうだい」
楽しげに言う宗平に、みさとがくすりと笑う。
「気が早いわね。姓名判断くらいは見ないと」
「俺はそんなの信じないよ」
「でも、よく考えましょ」
そのやり取りは、窓の外の春と同じぬくもりを帯びていた。
「明日の診察、送っていくよ。特にやることもないし」
「送っていくって?」みさとが首を傾げる。
「この間から運転手の川村さんに安全運転の特訓受けてたんだ。
お墨付き」
どこか誇らしげだった。
翌日。宗平の運転は滑らかだった。
ハンドルさばきも、ブレーキも、まるで長年の運転手のように
落ち着いている。
「上手いっしょ」
信号待ちのときだった。
横断歩道を渡る女性が、車内を見て、深々と頭を下げた。
意味深なほど丁寧に。
「あの人、誰?」みさとが聞く。
「取引先の誰かだろうね。向こうにとっては僕は一人だけど、
こっちからすればその他大勢の一人だから」
そのときは、そう思った。
だが、診察の待ち時間。
宗平の頭の中に、あの女性の顔がゆっくりと浮かび上がってきた。
帰宅してからも、宗平はどこか沈んでいた。
ミニバーからグラスを取り、水割りをつくる。
思い出してしまった。
二年前。三週間ほど、ほとんど毎日通っていた部屋。
ある日「今夜来てほしい」と言われ、仕事を理由に断った。
だが予定を早めに終わらせて向かうと、上半身裸の男が出てきた。
それきり会わなくなった女。
胸元と、その下のほくろだけが、鮮明に残っていた。
みさとには、口が裂けても言えない。
振られた女。振った女。
武勇伝のように語っていた過去が、今はただの自己嫌悪でしかない。
女としてしか見てこなかった。
だから、どれも長く続かなかった。
あの頃の自分は、どうしようもなく浅かった。
「先に寝るね」
みさとの声で我に返る。
「ああ、僕も行くよ」
その手を取ると、今度は離したくなくなった。
数日後。専務室。
宗平は、過去の女性たちのその後を人づてに聞いた。
一人を除いて、皆結婚し、子どもに恵まれているという。
ほっとしたような、刺されたような気持ちになる。
ノックと共に涼子が入ってきた。差し出されたのは辞表。
「田舎で縁談が整ったので」
「そうか……おめでとう」
少し間があった。
「しかし……困ったなぁ」
「大いにお困りください。これまでしてきたことが報われます」
微笑む涼子の言葉が、妙に胸に残った。
週末。
大きなお腹のみさとの後を、荷物を抱えた宗平がついていく。
その光景が、だんだん板についてきた。
「おとうさんですよー、早く出てきてねー」
みさとの腹に話しかける自分に、宗平は少しだけ驚いていた。
やがてその日が来る。
産婦人科の廊下を、行ったり来たりする宗平。
姉にたしなめられても、落ち着かない。
産声。
「元気な女の子ですよ」
疲れ切ったみさとの手を握り、
宗平は何度も「ありがとう」と繰り返した。
翌日。新生児室。
ふと、血液型の表示に目が止まる。
O型。
みさとはAB型。自分はB型。
計算が、合わない。
しばらく、ガラスの向こうを見ていた。眠っている顔を見ていた。
みさとにそっくりな、その顔を。
脳裏に、ある男の顔がよぎる。
怒りが、来た。来て——それより先に、別のものが来た。
失いたくない。
ふと思う。これまで、誰一人、子を宿した女はいなかった。
もしかすると、自分には子種がないのかもしれない。
そう思えば、楽だった。
これは罰なのだ。これまでの自分への。
この子は、みさとの子だ。
それだけで、十分だった。
このことは、墓場まで持っていく。
そう決めた瞬間、不思議と胸が静かになった。
その夜、母から電話があった。
「お前の血液型って、Bじゃなかったかい?」
宗平は少しだけ間を置き、
「いや、母さんと同じO型だよ。兄弟はBだけど」
受話器の向こうで、母が小さく笑った。
「そうかい。私と同じO型かい」
電話が切れたあと、宗平はしばらく動けなかった。




