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第十三章 家族 最終章

みさとは、娘のために真斗と同じ家に住んでいたが、

籍は入れていなかった。

誰もそのことを不自然とは思わなかったし、

誰もそのことを口にしなかった。形のない関係が、

この家には当たり前に息づいていた。


真斗が亡くなったあと、涼子は男の子を産んだ。

義母は「宗の一字を」と言った。宗斗(むねと)と、すぐに頭に浮かぶ。

けれど涼子は、真斗の斗は宗平の手前、はばかれる。

同じ音「宗人(むねと)」でと言った。

その日から、宗平の日課に「宗人を風呂に入れる」が加わった。

似合わない、と皆が思った。

大きな手で赤ん坊を持ち上げる様子は、ぎこちなくて、

危なっかしくて、どこか滑稽ですらあった。宗平自身も、

きっとそう思っていた。

宗平は、涼子の部屋と、みさとの部屋を、行き来する

奇妙な生活を続けていた。

それを誰も咎めなかった。咎める理由が見つからなかったからだ。

ある週末の朝、宗平とみさとが寝坊をして、

慌てて階段を降りてきた。

その様子を見て、台所に立つ涼子がくすりと笑った。

「あら、お熱いこと」

そう言いながら、いつも通り朝食の支度をしていた。

宗平は宗人をあやしながら、みさとの話を聞き、

適当に相槌を打っていた。

まだ、父親の姿が板についていなかった。


今日はみさとが朝食の支度をしていた。

宗人が椅子から立ち上がりテーブルを見渡している。

髪が、いつのまにか指に絡む長さになっていた。

キッチンでみさとが纏いつく美緒を避けてバランスを崩したとき、

宗平は反射的に腕を伸ばして支えた。

それを見た涼子が、冗談めかして言った。

「ほんと、目が離せない人達ね」

 それが、最後のやりとりになった。


喜美子の家を訪れるたびに、涼子は玄関前で一度だけ息を整えた。

今日も同じように、息を吸った。

吸って、吐いて、それからチャイムを押した。

リビングに通される。

いつもの部屋。いつもの椅子。いつもの喜美子。

「まあ、よく来てくれたね」

喜美子は機嫌がいい。機嫌のいい喜美子は、機嫌の悪い喜美子より、

少しだけ疲れる。

「選挙の件、順調ですよ」

涼子は微笑んだ。

資料を広げ、数字を説明し、喜美子の質問に答えた。その間ずっと、

涼子は喜美子の目を見ていた。

この目の奥に、宗平がいる。

幼い宗平が、この目に何度も晒された。この目の前で、

どれほど息を詰めてきたか。

涼子には、想像しかできない。

でも宗平の、あの仮面と鎧の厚さを思えば——想像するだけで、十分だった。

「宗平は元気かい」

「ええ、おかげさまで」

「あの子は昔から、私の言うことを聞かなくてね」

喜美子は笑う。

涼子も笑った。

笑いながら思った。

(聞かなかったのではない。聞けなかったのだ。)

でも言わない。言う必要がない。宗平の代わりに、この部屋に来ることが、

涼子にできる唯一のことだった。

帰り際。

玄関で靴を履きながら、喜美子が言った。

「涼子さんは、よくできた嫁だね」

「ありがとうございます」

涼子は微笑んだまま、頭を下げた。

「前の嫁とは大違い」

一拍、置いた。

「……ところで」

喜美子の声が、少しだけ低くなった。

「あの母子を家に入れたそうだね」

涼子は靴を履き終えてから、ゆっくりと顔を上げた。

喜美子の目が、笑っていない。

「本当かい」

「ええ」

涼子は微笑んだ。

「美緒は私にとって姪っ子ですし」

一拍。

「みさとさんは、宗平の悪い虫抑えの慰みものに丁度良いかと」

部屋の中に、静けさが落ちた。

喜美子はしばらく涼子を見ていた。

やがて、ゆっくりと口元が緩んだ。

「……なるほどね」

「賢い嫁だよ、あんたは」

そう言って、踵を返した。

ドアが閉まる。

外の空気が、冷たかった。

涼子は一歩踏み出して、止まった。

胸の奥に、鈍い吐き気があった。

つわりではない。

自分の言葉が、自分の喉を焼いていた。

みさとさんは、慰みもの。

喜美子を納得させるために選んだ言葉だった。喜美子が最も喜ぶ言葉だった。

だから選んだ。それだけのことだ。

でも。

(ごめんなさい)

誰にも聞こえない声で、涼子は思った。

みさとに。美緒に。

涼子は息を整えた。

整えて、歩き出した。

(前の嫁。)

みさとのことを、喜美子はそう呼ぶ。

涼子の胸の奥に、静かな痛みがあった。みさとへの痛みではない。

喜美子への怒りでもない。

もっと別の——

宗平が、この重さを知らないままでいることへの、小さな寂しさだった。

これは涼子が引き受けると、知ってほしいとは思わない。

知らなくていい。最初から決めていたことだ。

ただ。

(疲れたな)

その一言だけが、胸の中に落ちた。

初めて、そう思った。

車に乗る。

シートベルトを締めながら、涼子はハンドルを見た。

今日の帰り道、何を考えようか。

宗平のことを考えよう。みさとのことを考えよう。

美緒のことを考えよう。お腹の宗人のことを考えよう。

それだけで、帰り道は十分に埋まる。

涼子は小さく笑った。

いつの間にか、考えることがこんなに増えた。一人だった頃には、

なかったものばかりだ。

(悪くない)

そう思った。

疲れているのに、悪くないと思っている。

それが涼子には、少しだけ可笑しかった。

エンジンをかける。

ミラーを確認する。

いつも通りの動作。いつも通りの帰り道。

信号が青になった。

アクセルを踏む。

その瞬間——

右から、光が飛び込んできた。

ブレーキを踏む間もなかった。

考える間もなかった。

最後に涼子の頭をよぎったのは、言葉ではなかった。

ただ——

宗平の顔だった。

美緒の顔だった。

宗人の、小さな手だった。


病院の廊下。

涼子はもう、息をしていなかった。

宗平はその手を握ったまま、動けなかった。

冷たかった。

こんなに冷たいのに、さっきまでここに涼子がいた。

声があった。笑いがあった。

「私は宗平が好き。弱い宗平でも、好き」

あの声が、耳の奥にある。

宗平は俯いたまま、唇を動かした。

声にならなかった。

しばらくして。

廊下のベンチに、一人で座っていた。

頭の中で、同じ場面が繰り返されていた。

涼子が喜美子の家へ向かう背中。

何度も見た背中だった。当たり前のように見ていた。

当たり前のように、任せていた。

(俺が、向き合えばよかった)

母親と。

あの重さと。

涼子に任せることを、内々知っていた。知っていて、目を逸らしていた。

(親子の縁を切っていれば)

そうすれば、涼子があの家へ行く理由はなかった。

(いや——俺が向き合っていれば)

涼子に、あの重さを渡さなくてよかった。

どちらも、できなかった。

仮面と鎧をつけたまま、涼子の後ろに隠れていた。

それだけのことだった。

みさとが廊下の端に立っていた。

声をかけられなかったのか、かけなかったのか。ただ、そこにいた。

宗平はみさとを見た。

みさとは何も言わなかった。

ただ、宗平の隣に座った。

触れなかった。何も言わなかった。

ただ、隣にいた。

その温度だけが、その夜の宗平を、かろうじて繋ぎ止めていた。


その後の宗平は、宗人を膝に置いて、時折遠くを見ていた。

 背中が泣いているように見えた。

 それでも、日常は続いた。

あどけなさ消え、顔つきに年が刻まれるには十分な時が過ぎた。


 昔から、ある日になると父は書斎にこもった。

 母もまた、その日はどこか喪に服しているようだった。

 その日、父は外せない用事で出かけていた。

 家には誰もいない。

 宗人は、ふと思い立って書斎に入る。

 机の上に、赤ワインの入ったグラス。

 横には、ブルゴーニュのワインボトル。

 珍しい、と宗人は思う。

 なぜかこの家には、ブルゴーニュのワインだけが

 なかったはずなのに。

 グラスの横に、古びたブリキの箱が置いてある。

 宗人は、それを開ける。

 中には一枚の写真。

 ワインレッドのドレスを着た、背の高い女性が写っている。

 知らないはずなのに、懐かしい気がする。

 そのとき、風もないのに、ふわりとワインの香りが鼻をかすめる。

 宗人の口から、無意識に言葉がこぼれる。

「ママ」


 その声を、廊下で聞いている人がいる。

 みさと。

 みさとは、泣かない。

 静かに書斎の戸を閉める。

階段の上から、美緒がみさとを見ていた。

目が合う。美緒はただ小さく頷いた。

振り向いた先に宗平がいる。

みさとにそっと頭を下げる。

謝罪でも、感謝でもない。

宗平は、何も言わない。

そっと、みさとのエプロンの紐を直してやる。

 みさとは言う。

「ごはん、冷めるよ」

宗平は無言でみさとの後について台所へ歩いて行く。


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