■ 箱根と紅葉 (後編)
雨は、ためらう指先のように石畳を叩いていた。
ぽつり。もうひとつ、ぽつり。
ホテルの軒先へ駆け込んだとき、みさとは小さく笑った。
「私たち、タイミングいいですね」
宗平は答えない。フロントで手続きをする横顔が、妙に静かだった。
部屋に入る。
大きな窓の向こうで、箱根の山が雨に溶けている。
さっきまで歩いていた紅葉の色が、遠くで滲んでいた。
みさとは窓際に立ち、曇ったガラスを指でなぞる。
背後に宗平の気配が近づく。触れていないのに、背中が熱い。
「今日は、よく歩きましたね」
声が近い。
その空気を、宗平があっさり壊す。
「この部屋、露天風呂があるんですよ。一緒に入りませんか」
冗談でしょう、と振り返るみさとの頬が、ほんのり赤い。
「そんなこと言ってないで、早く大浴場に行ってらっしゃい。
長湯、好きでしょ」
着替えを見たかったのにと残念そうに呟きながら、宗平は部屋を出た。
湯上がりのみさとは、しっとりとした浴衣姿だった。
宗平は一瞬、言葉を失う。みさとはその視線に気づいて、くすりと笑う。
食事処の窓の外では、雨足が強まり、遠くで雷が光った。
ワインがいつもより進む。 「続きは部屋で飲みましょう」
並んで座ったソファ。雨音と、時折走る稲光。音が近づくたび、
みさとの指が宗平の袖をつかむ。驚きではなく、
意志のある仕草だった。
宗平の手が、みさとの頬に触れる。
ゆっくりと、確かめるように。
みさとは目を閉じた。
キスは静かで、逃げ道を忘れさせる静けさを持っていた。
言葉が消え、雨音だけが部屋を満たす。触れるたびに、
互いの呼吸が浅くなる。急がない。確かめる。ほどいて、重ねる。
やがて二人の呼吸が、同じ速さになった。
指先が、服の上から、肩に、背中に、そっと置かれる。
触れるたび、みさとの呼吸が浅くなる。
宗平は急がない。
みさとの表情を見ながら、ひとつひとつ距離をほどいていく。
宗平の手が、みさとの指をほどき、絡める。
静かに、身体が横たわる。
宗平は灯りは落とさない。
けれど、視線が溶けて、世界がぼやける。
衣擦れ。呼吸。雨音。
宗平は、触れるたびに、みさとの反応を待つ。
みさとは、触れられるたびに、宗平の名を小さく呼ぶ。
その繰り返しが、やがて言葉より確かなやり取りになっていく。
やがて、みさとは宗平の肩に顔を埋める。
宗平は、みさとの髪に顔を寄せる。
抱きしめ合うというより、溶け合う姿勢。
外では、雨が少し強くなっている。
部屋の中では、時間がほどけていく。
そして、二人の呼吸が、ゆっくりと同じ速さになる。
誰かと、同じ場所に辿り着いた夜だった。
第六章 朝の悪戯
宗平はすでに目覚めていた。
障子越しの朝の光は淡く、雨音がまだ静かに続いている。
部屋の空気は、昨夜のぬくもりをわずかに残したまま、
ゆっくりと冷えていく途中だった。
隣で、みさとは深く眠っている。
宗平は、昨夜のことを思い返しているのではない。
もっと前。ほんの少し前の、何気ない会話。
男女の話題を振ったとき、みさとが学生時代を思い出すように言った。
「あんなの、痛いだけじゃないの?」
少し強がった、あの表情。
昨夜、腕の中で何度も自分の名を呼んだみさとの姿とは、
あまりにも違う。
その落差が、宗平の中に小さないたずら心を芽生えさせた。
そっと頬に触れる。
「おはよう」
眠たげに目を開けるみさと。
宗平は笑いを堪えながら、言った。
「痛かった?」
一瞬、意味が結びつかない顔。
次の瞬間、理解が追いつく。
みるみる赤くなる頬。
無言で枕を掴む。
ぽす、ぽす、ぽす。
本気ではない。
照れと幸福が混ざった、やわらかな抵抗。
宗平は笑いながら枕を取り上げ、そのままみさとを
引き寄せて口づけた。
(…… 私、不感症だと思っていた)
昨夜の余韻とは違う。
どこか、夫婦の気配が混じる朝だった。
遅い朝食のあとも、雨は降り続いていた。
「今日は観光やめて、温泉にでも浸かってゆっくりしましょうか。
昨日、随分歩きましたしね」
みさとは小さく頷く。
部屋へ戻ると、宗平が唐突に言い出す。
「露天風呂、入りません?」
「雨、かかるじゃないですか」
「庇が長いから大丈夫ですよ」
遠慮するみさとを残して、宗平はひとり外へ出ていった。
みさとが窓越しに見ると、湯船の縁に腕を広げ、
気持ちよさそうにしている。
その姿に、ふと心が揺れる。
一緒に入ればよかったかな。
いやいや、と首を振る。
やがて宗平が戻ってきた。
「外、気持ちいいですよ」
その言葉に背中を押され、みさとも露天へ向かう。
湯から上がり、バスタオルを体に巻きながら、みさとは言う。
「本当に気持ちいいですね」
ソファに座る宗平は、珍しくビールを飲んでいた。
「温泉の後は、これが一番なんですよ。一口どうですか?」
苦手なはずのみさとも、口に含んで驚く。
「……おいしい」
ひとしきり飲んだあと、宗平が言う。
「一緒に寝ませんか?」
「えっ?」
「違います、横になりませんかって意味です」
少しだけ焦った宗平に、みさとが笑う。
ベッドに並んで横になる。
バスタオル越しに、ゆるく回された腕。
触れている胸の感触が、妙に安心をくれる。
みさとがぽつりと尋ねる。
「前に、私の好きなところは雰囲気って言ってましたよね。どんな?」
「言葉にするのは難しいなぁ。森の中で湯に浸かって、
深呼吸してる感じかな。素の自分に戻れる」
「ふうん」とみさとは宗平の手をにぎりしめながら呟く。
その耳元に、宗平がふっと息を吹きかける。
「くすぐったい、何するの」
「こういう子供じみたことするのが、本来の僕なんですよ」
「涼子さんとのやり取りからは想像つかないわ」
宗平は少しだけ真顔になる。
「若い頃から、大人たちと渡り合ってきたから。
いつの間にか、仮面と鎧をつけるようになっていた。
この頃、どちらが本当の自分か分からなくなってたんです」
そして、みさとを強く抱き寄せる。
「涼子さんは、僕とは違う僕を見ている」
みさとは、その腕の中で思う。
(宗平は、私のもの。私は、宗平のもの。)
言葉にしなくても、それがはっきりと分かる朝だった。




