■交錯編(出張の夜/残された側)
――遠い街、夜。
ホテルの一室。
大きな窓の外に、見知らぬ夜景。
宗平はネクタイを緩める。
「はあ……」
短く息を吐く。
珍しく、疲れが見える。
「先方、随分強気でしたね」
涼子が資料を閉じる。
ヒールを脱ぎ、足を組む。
仕事の顔のまま。
「条件は悪くない」
宗平はソファに沈む。
「向こうも必死なんでしょう」
一拍。
静かな空間。
「……飲みます?」
涼子がミニバーに手を伸ばす。
「軽くなら」
グラスに注がれるのは、ウイスキー。
氷が鳴る。グラスを渡す。
指が、一瞬だけ離れない。
宗平は気づかない。
いや――気づいていて、流す。
グラスを受け取った後、涼子は少し間を置いた。
距離は、近すぎず、遠すぎず。
少しだけ、声を落とす。
「なんで、あの人なんですか?」
宗平の手が、止まる。
「あの人?」
「みさとさん」
名前を出す。
沈黙。数秒。でも重い。
「別に……理由なんて」
宗平は視線を外す。
(逃げた)
涼子はそう思う、でも追わない。
「そう」軽く流す。
その代わり、少しだけ距離を詰める。
「じゃあ」低い声。
「私でもいいじゃないですか」
空気が変わる。
宗平は、ゆっくりと顔を上げる。
目が合う。
涼子も、逸らさない。
宗平が、口を開く。
「仕事に支障が出ます」
静かな拒絶。
でも、完全じゃない。
涼子は、ふっと笑う。
「それだけ?」
一歩、さらに近づく。
「プライベートは?」
距離が、危なくなる。宗平は動かない。
「……線は引いてます」
「誰に?」
一瞬、答えない。それが答え。
涼子の目が、細くなる。
(やっぱり、あの人か)
でも、引かない。
「じゃあ」涼子が耳元に近づく。
「越えたら、どうなるんですか?」
その距離その声。
宗平の指が、わずかに動く。
でも――
「……ここまでにしておきましょう」
静かに、距離を取る。
涼子は、一瞬だけ悔しそうに目を伏せる。
(……あと一歩)
でもすぐに、笑う。
グラスの氷が、また鳴る。
――同じ夜、別の場所。
小さな喫茶店。
閉店間際。
みさとは、カップを両手で包んでいる。
向かいには、真斗。
「……で?」
低い声。
「いつまで続けるんだ」
逃げ場のない問い。
「三ヶ月って言ったでしょ」
「その後は?」
詰まる。
考えてなかった。
いや――考えないようにしてた。
「終わるよ」
やっと出た言葉。
真斗が、じっと見る。
「本当に?」
その視線。
疑ってる。
(……なんで)
胸がざわつく。
「何それ」
少しだけ強くなる。
「信じてないの?」
真斗は、ため息をつく。
「信じたいよ」
一拍。
「でもさ」
視線が、まっすぐになる。
「お前、顔変わった」
心臓が止まる。
「……何それ」
「前はさ」
ゆっくりと言う。
「そんな顔で、あいつの話しなかった」
完全に見抜かれている。
(……違う)
否定したいのに、言葉が出ない。
沈黙。
「なあ」
真斗が言う。
「本当に、何もないのか?」
同じ問い。
でも、意味が違う。
(……ない)
はず。
でも。
吊り橋、雷。
あの視線、あの距離。
全部が、よぎる。
「……ないよ」
遅れる、ほんの少し。
その“間”を、真斗は見逃さない。
静かに、笑う。
「そっか」
でもその目は、全然笑ってない。
■クロス終点
遠いホテルの一室。
涼子が、窓の外を見る。
(まだ、足りない)
カップを持つみさと。
(……本当に?)
そして。
その中心にいる宗平は――
何も言わず、
ただ、目を閉じている。
■出張編・夜の続き(踏み込み)
ホテルの部屋。
氷が、グラスの中でゆっくり溶けていく。
さっきまでの会話は、もう終わっているはずなのに――
どこか、終わっていない。
涼子は窓際から離れない。
夜景を背にして、振り向く。
「さっきの続き、いいですか」
軽い声。
でも逃げ道はない。
宗平はソファに座ったまま、
グラスを指で回している。
「……どうぞ」
涼子は、歩く。
ゆっくり。
「線、引いてるって言いましたよね」
距離が、また一歩近づく。
「はい」
「その線」
涼子の指が、空中をなぞる。
見えない境界を描くように。
「どこにあるんですか?」
宗平は答えない。
代わりに、グラスを置く。
「……越えない場所に」
涼子が、ふっと笑う。
「曖昧ですね」
そして。
そのまま――
ソファの肘掛けに、軽く腰を預ける。
近い。
近すぎる。
「教えてあげましょうか」
宗平が、わずかに顔を上げる。
「何をです?」
涼子は、少しだけ首を傾けてから答えた。
「越え方」
一瞬。
空気が止まる。
涼子の手が、宗平のネクタイに触れる。
ほどくわけでもない。
引くわけでもない。
ただ――
そこに触れているだけ。
「こういうの」
指先が、ほんの少しだけ動く。
宗平の呼吸が、わずかに変わる。
(……まずい)頭では分かる、でも体が、一瞬遅れる。
涼子は、それを見逃さない。
「今、動揺しましたよね」
囁く。
宗平は、すぐに目を逸らす。
「してません」
「嘘」
即答。
そして。
さらに一歩。
今度は、真正面。
「ねえ」
声が、低くなる。
「なぜ、あの人なんですか」
さっきと同じ問い。
でも。
今は距離が違う。
温度が違う。
宗平は、答えない。
答えられない。
代わりに、別の言葉が出る。
「……あなたは」
涼子が、わずかに首を傾ける。
「危ない人だ」
一瞬。
静寂。
そして――
涼子が笑う。
「今さら?」
指先が、ネクタイから離れる。
でも。
その代わりに――
宗平の胸元を、軽く押す。
ほんの少し。
ほんの少しだけ、体が後ろに沈む。
「でも」
涼子の目が、まっすぐに刺さる。
「嫌いじゃないでしょ?」
宗平の喉が、わずかに動く。
否定が、出ない。
その“間”。
涼子の目が、細くなる。
(捕まえたーー)
でも、次の瞬間。
宗平が、手を取る。
強くはない。
でも、確実に。
「……それ以上は」
静かに、離す。
「やめておきましょう」
声は落ち着いている。
でも。
さっきより、低い。
涼子は、その手を見ている。
(止めた)
(でも――遅い)
ゆっくりと、立ち上がる。
「いいですよ」
軽く言う。
「今日は、ここまでにしておきます」
振り向く。
「でも」
少しだけ横目で見る。
「線、揺れましたよ」
ドアへ向かう。
「次は、越えます」
静かに扉が閉まる。




