やめて
今日も俺は、フロントに立っている。
明日は、異次元デートパーティー。
アルと俺で考えた企画だ。絶対に成功させよう。
そう考えるだけで、自然とやる気が湧いてくる。
ここにいるみんなとなら、何だってできそうだ。
俺は、そんなふうに思っていた。
「ピリカ、今日もお客さん多いな」
「そうだねー。異次元パーティー始めてから、増えたねー」
「明日も絶対成功させたいな」
俺はふと思い出した。
「あっ、そうだ。博多で買ったフルーツゼリー、オフィスで冷やしてあるからさ。ピリカの休憩のとき、一緒に食べようぜ!」
「ほんと? 楽しみ!」
そんな他愛のない話に夢中になっていた。
ほんの一瞬、目の前のお客さんのことすら頭から抜け落ちていた。
そのときだった。
「……リクくん?」
聞き覚えのある声。
「……リクくんだよね?」
頭の中が真っ白になった。
まさか。
いつか、こんな日が来ることは……本当は分かっていた。
ゆっくりと顔を上げる。
「か、かえで……さん?」
そこに立っていたのは、かつての知り合いだった。
「やっぱりリクくんだ!」
驚いたように目を見開いたあと、彼女は安堵したように笑った。
「急にいなくなっちゃったから、心配してたのよ! 仕事にも急に来なくなるし……どこにいるのか分からないって。行方不明だって、みんな心配してたんだから」
「あ……あ、俺……」
言葉が出てこない。
「よかった……こんなところにいたのね」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「ごめんなさい」
彼女が突然、頭を下げる。
「私は知らなかったの。止められなくて……ごめんなさい」
「……やめて」
「リクくん……」
「やめて!!」
思わず声を荒らげた。
「言わないで……!」
周囲の空気が止まった。
「リク……?」
ピリカが心配そうに俺を見る。
その目を見た瞬間、胸の奥がざわついた。
――なんで、そんな目で見るんだ?
心配しているだけなのか。
それとも――。
「……もしかして、お前も?」
頭の中に嫌な考えが浮かぶ。
「……お前もか?」
誰も何も言わない。
その沈黙が、余計に怖かった。
もしかして、全部知っているんじゃないか。
俺が何から逃げてきたのか。
俺がどんな人間だったのか。
みんなが俺を見る目が、急に違って見えた。
「……見るな」
胸が苦しい。
「見るな……!」
俺はフロントから飛び出した。
「リク!」
後ろから声が聞こえる。
でも、振り返らなかった。
ゲートへ駆け込む。
光に包まれ、次の瞬間――
そこは、深い森の中だった。
「……っ」
周囲を見回す。
木々。
草。
遠くまで続く森。
どこでもいい。
ここから離れたい。
今は、誰にも会いたくない。
何も考えたくない。
「……逃げたい」
俺は森の中を走り出した。
ただひたすらに。
後ろを振り返らずに。
自分がどこへ向かっているのかも分からないまま――。
俺は走った。
ただ、何も考えずに走った。
そのとき――
「うわっ!」
木の根に足を取られ、俺は盛大に転んだ。
「いってぇ……」
膝に痛みが走る。
「くそっ!!」
俺は起き上がると、目の前の木の根を思い切り蹴った。
「……くそっ……」
もう一度蹴ろうとして――やめた。
周囲を見渡す。
誰もいない。
そのことに気づいた瞬間、力が抜けた。
俺はその場にうずくまった。
「……俺、何やってんだ……」
森の中は静かだった。
木々の間を風が通り抜ける。
鳥の声が遠くから聞こえる。
その静けさの中で、俺の頭には過去の記憶が蘇ってきた。そして深い眠りにつく
---
キンコーン、カンコーン。
授業のチャイムが鳴る。
「じゃあ、ここから直角三角形について――」
先生が黒板に数式を書いていく。
「直角×底辺で……」
さっきまで話を追っていたはずなのに。
もう、分からない。
簡単な授業なのに、俺だけが置いていかれる。
先生の説明はどんどん先へ進んでいく。
周りの生徒たちは、当たり前のようにノートを取っている。
俺は、人よりできない子どもだった。
「じゃあ、解いてもらおうかな」
先生が教室を見渡す。
「じゃあ、リク。前に来て解いてみて」
「……え?」
俺はわけも分からないまま、黒板の前に立った。
問題を見る。
考える。
でも、理解できない。
頭の中が真っ白になる。
「……わかりません」
「大丈夫だよ。じゃあ席に戻って」
俺は俯いたまま席に戻る。
その途中、後ろから小さな声が聞こえた。
「こそこそ……あいつ、あんなのも解けないんだ」
「やっぱ馬鹿じゃん」
笑い声。
胸が痛かった。
家に帰れば、今度はテストの答案を見た母親が言う。
「なに、この点数は?」
俺は黙っていた。
「ほんと、なんでみんなできるのにアンタはできないの?」
何も言い返せなかった。
そして――俺は中学生になった。
「こっちトスして!」
バレーボールが飛んでくる。
「……トスしなきゃ!」
手を伸ばす。
しかし――
「すかっ!」
ボールは俺の手をかすめ、そのまま床に落ちた。
ターン、タン、タン……。
転がっていくボール。
「お前のせいでバレーにならないじゃん!」
「ご、ごめ……」
「ねえ、リク交代させて!」
「……うん」
俺はコートの外へ出た。
そして高校生になった。
「リクくんって、なんか暗いよね」
「誰とも話さないし」
久しぶりに誰かに話しかけようと思った。
「あ、あの……」
「あ、キモっ」
「やめなよー(笑)聞こえるよー」
また笑い声。
俺は何も言わず、その場を離れた。
そして大学生になった。
偏差値の高い大学ではなかった。
それでも、親が学費を出してくれた。
大学では、今までできなかったことを好きに学べた。
自由だった。
自分の好きなことを勉強できる。
俺は、初めて少しだけ息ができるような気がしていた。
――でも。
それは長くは続かなかった。
ある日、電話が鳴った。
「リクさんのお電話でよろしいでしょうか」
「……はい」
「誠に残念ながら……ご両親がお亡くなりになりました」
「……え?」
頭が理解することを拒んだ。
「交通事故でした」
その言葉だけが、何度も頭の中を回った。
両親がいなくなった。
そして俺は、大学を続けるためのお金も失った。
十九歳。
俺は大学を辞め、就職した。
「リクさん! またミスしてますよ!」
「……すみません」
「いつになったら覚えるんですか?」
俯く俺に、別の声がかかった。
「リクさん、大丈夫ですよ」
「……え?」
「もう少し経験すれば、きっとやっていることが繋がってきますよ」
その人は笑っていた。
「ありがとう、カエデさん……」
カエデさんは、何かあればいつも励ましてくれる人だった。
俺にとって、職場で唯一、安心して話せる人だった。
――だからこそ。
ある日のことだった。
「リクくん!」
上司に呼び止められた。
「この前の作業のミス、なんで報告しないのかね?」
「え……?」
「みんな君には困っているんだよ」
「ちが……います。そのミスは、佐々木さんの――」
「言い訳かね?」
言葉を遮られた。
「見苦しいな」
「……」
「もう君に期待するのはやめるよ。言われたことだけしていればいいからね」
俺は何も言えなかった。
後から聞けば、そのミスは俺がやったものではなかった。
それでも――俺に責任を押しつけられた。
「課長も酷いよ!」
カエデさんが悔しそうに言った。
「佐々木さんのミスだって知ってるのに……リクくんに押しつけて」
「……いいんだよ」
俺は笑おうとした。
「いつもミスして、迷惑をかけてるし……」
「でも!」
「信じてもらえなくて、当たり前だよ」
それからだった。
俺のロッカーから、少しずつ私物がなくなっていった。
靴の中には、いつの間にかゴミが入っている。
机の上に置いていたものが勝手に移動されている。
振り返ると、誰かがこちらを見ていた。
そして――
ほくそ笑んでいた。
俺は何も言えなかった。
言っても、どうせ信じてもらえない。
勉強もできなかった。
運動もできなかった。
人付き合いもうまくできなかった。
両親もいなくなった。
仕事をしても、失敗する。
自分がやっていないことまで、自分のせいにされる。
そして、誰も助けてくれない。
俺の頭の中に、今まで言われてきた言葉が次々と蘇ってくる。
「なんでそんなこともできないの?」
「やっぱりリクって馬鹿だよな」
「お前がいると迷惑なんだよ」
「普通はできるでしょ」
「もう期待してないから」
「使えないな、お前」
「暗いし、話しててつまんない」
「お前と一緒だと負ける」
「どうせまた失敗するんだろ?」
「お前なんか、いない方がいい」
何度も、何度も。
俺はそれらの言葉を浴びてきた。
――本当は。
もっと、自分の力で生きていきたかった。
誰かに迷惑をかけずに。
誰かに馬鹿にされずに。
普通に笑って。
普通に働いて。
普通に、自分の人生を生きてみたかった。
でも――
もう限界だった。
仕事が限界だったんじゃない。
人生のすべてが、限界だった。
俺は岬へ向かった。
そして――人生に、さよならを告げようとした。
すべてが暗くなる。
音も、景色も、何もかも消えていく。
その暗闇の中で――
「君、そんなに嫌なことがあったの?」
「……誰?」
どこからか、声が聞こえた。
優しくて、温かい声だった。
「僕たちが君を幸せにしてあげる」
「……幸せ……?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がほんの少しだけ揺れた。
――幸せ。
そんなもの、自分にはもう縁がないと思っていた。
それなのに。
温かい声が、暗闇の中から俺を呼び続ける。
「リ……」
「……?」
「リク……!」
「リク!」
その声に、俺は手を伸ばした。
暗闇の底から、何かに引き上げられるような感覚。
「……っ!」
俺は、深い回想から目を覚ました。




