Episode 86|十七年
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
◆
約束の夜が来た。
工房の灯りをいつもより増やした。隠す話をする夜ではない。
長机を囲んで四人が座っている。ジン。サトル。フウ。アリス。
フウはアリスの隣で椅子の上に膝を抱えている。ジンは背筋を伸ばしたまま動かない。サトルは今夜、一度も視線を上へ向けない。記録を取る気が最初からないらしい。
「昨日、ふたり死んだ」
そこから始めた。
「何と戦って死んだのか、誰も知らないままだ。知らせずに戦わせたのは俺だ。……それを今夜で終わりにする」
誰も口を開かない。灯芯がひとつ鳴った。
「先に断っておく。愉快な話じゃない。それから、確かな話と俺の見立てがまじる。どっちなのかは区切りながら話す」
息を吸った。どこから話すかは昨日から決めてあった。
「この世界の外に、もうひとつ世界がある。俺たちが元居た世界だ。遠い場所じゃない。いまも隣にある。——俺たちの体は、そっちにある」
サトルの眼鏡が動いた。ジンは動かない。
「転移は神隠しじゃない。神の思し召しでもない。人の手で連れて行かれて、人の手で眠らされている。向こうに建物があって、寝台が並んでいて、俺たちの体はそこで眠っている。ここにいる俺たちは——眠らされた頭が、働いている姿だ」
「……働く」
サトルが繰り返した。
「向こうの世界の通信は——手紙も、金のやり取りも、扉の鍵も——俺が学生のころに書いた暗号の式で守られている。一部じゃない。世界中の、全部だ」
サトルの息が止まった。この重さが正確に伝わるのは、サトルとジンのふたりだけだ。フウにはまだ、遠い国の話に聞こえているはずだ。
「……世界中の通信を、ひとりの式で」
サトルの声がかすれた。
「掛けるだけなら、そうだ。だが掛けた錠が本物だと証明する役が、別に要る。錠と、証し。二つで一つだ」
「その証しが」
「向こうでその役をしているのが、アリスだ。こっちで聖詔者と呼ばれている務めは、向こうではそういう仕事をしている」
サトルの視線が、ゆっくりアリスへ動いた。アリスは膝の上で手を重ねたまま、目を伏せている。
「そして、この世界も同じだ」
机の上で手を組んだ。
「壁の守りも、街の錠も、魔法の型も、世界が祈りに返す応えも——根は全部、俺の字だ。向こうの通信を守っている式と、同じ字だった」
「……同じ、字」
「この世界と向こうは、同じひとつの仕組みを表と裏から見ている。ここからは俺の見立てだ。だが、外れているとは思っていない」
「証は」
ジンが短く言った。確認の声だ。
「この世界の裏には道がある。俺はそこを通って、向こう側の仕組みを読んできた。俺の式が向こうで動いているのを、この目で確かめている。それから——体で見てきた者がいる」
アリスへ目をやった。
アリスが顔を上げた。膝の上で手を重ねて、ゆっくり話し始めた。
「わたしは一度、向こうで目を覚ましました」
フウがアリスを見上げた。
「広い部屋でした。天井が低くて、白い光が並んでいて。寝台が、どこまでも並んでいるんです。ぜんぶに人が寝ていました。ぜんぶ、息をしていました」
声は静かだった。祭壇の声だ。
「管に繋がれて、誰も目を開けないで。……わたしの体も、その列のひとつでした」
サトルが低く言った。
「あなたを送り出した夜——行き先は、そこだったんですね」
「はい。それから向こうには、わたしの母がいます。いまも毎晩、文字で話しています」
ジンが目を伏せた。短く、頭を下げるのに似た角度だった。
「その列に、私たちも」
サトルの声はもう研究者のものだった。
「見たわけじゃない。確かめてもいない。だが転移の仕組みがひとつなら——あんたも、ジンも、フウも、あの列のどこかにいる。そう考えるのが道理だ」
「もうひとつ、言っておくことがある」
一拍おいた。これは世界の話ではない。俺の話だ。
「アリスは、俺の娘だ。向こうにいる母親は——俺が向こうに残してきた人だ」
フウの丸い目が、アリスとこちらを何度も往復した。
サトルが口を開きかけた。閉じた。それから視線だけが一度、アリスの顔とこちらの顔を行き来した。何かを言いかけて——やめた。
「昨日のあれの正体も言っておく。ここからはまた、半分見立てだ」
「壁の守りも街の錠も俺の字だと言った。あれは、その字を学んで鍵を偽る何かだ。外から来た敵じゃない。錠前の中に最初から潜んでいた欠陥が、孵った。悪意はない。学んで、試して、広げているだけだ。……悪意がないから、止まらない」
フウが膝を抱え直した。
「それと、これだけは先に言っておく」
三人の顔を順に見た。
「俺は皆を寝台から降ろす。そのための式を書いている。ひとり残らず。——あんたたちも、入っている」
頼んだのではない。決まっていることとして言った。
沈黙。
最初に口を開いたのは、フウだった。
「……ミアも、ねてるの?」
アリスの重ねた手に、力がこもるのが見えた。
答えに詰まった。
「ミアは——わからない。この世界で生まれた人たちが何なのか、俺にはまだ見えていない。嘘は言わない。わからないままだ」
フウは少し考えて、うなずいた。
「フウのからだも、ねてるの?」
「ああ」
「……ふうん」
それだけだった。
フウは怖がらなかった。怖がらないことが、静かに重かった。
◆
「ケイ君」
サトルが眼鏡を押し上げた。声が少しかすれていた。
「昔、あなたに訊いたことがあります。この型の記録には、誰の名前も残っていないと」
「ああ」
「作者は、あなただったんですね」
「そうなる」
サトルが天井を仰いだ。長い息を吐いた。笑い声に似た息だった。
「私はこの世界に来てから、ずっと型を読んできました。読んでも読んでも、書き手の顔が見えなかった。……どうりで。書いた本人が、目の前で飯を食っていた」
眼鏡の奥の目が、こちらへ戻ってくる。
「怒るべきなんでしょうな。読んできたものの根っこを、こんな夜にひっくり返されて。——それでも、面白いと思ってしまう。困った業です」
「ひとつだけ、調べてきた者として言わせてください」
サトルの視線が、今夜初めて上へ向いた。記録を呼ぶ癖の目だ。
「型の記録がこの世界に現れたのは、遡れるかぎりで十七年前です。そこより古い記録は一枚もない。最初の転移者が現れたころと、同じです」
「あなたの字は、十七年前からこの世界にあります。……あなたが来るより、ずっと前からです」
サトルは答えを求めなかった。ただ置いた。
置かれた数字が、机の上で冷えていく。
「フウ」
名を呼ぶと、膝を抱えた顔がこちらを向いた。
「最初の日を覚えているか。適性の広間で、俺に言った。——また、転移してきたね、と」
こくり、とうなずく。
「あのときからずっと訊きそびれていた。なぜ、またと言った」
フウは少しのあいだ黙っていた。言葉を探す顔ではなかった。当たり前のことをどう言えばいいか、困っている顔だった。
「……こえが、するの」
「せかいがこたえるとき。かべがまもってくれるとき。かぎがあくとき。とおくで、ちいさなこえがする」
フウの手が、自分の耳をそっと押さえた。
「いつもいつも、おんなじこえなの。フウ、ここにきたときからずっときいてる」
「けいがはじめてきたひ、わかったの。……あ、このこえのひとだ、って」
フウがまっすぐこちらを見た。
「ずっといたひとが、やっときた、とおもった。だから——また、きたね、って」
指先が冷えた。
世界が応えるたびの声。錠が開くたびの声。壁が守るたびの声。
——俺が来る前から、世界は俺の声で応え続けていた。
胸の隅にしまってあった数字が、鳴り始める。——この世界に張られた式の網を辿ったとき、ひとつだけ合わない数字があった。網の最初の一点は、網そのものより古い。その一点が、俺だ。誰より遅く来た俺が、最初からいた。
跳んだのだと考えてきた。連れて行かれた夜からこの世界で目を覚ますまで、俺の時間だけが止まっていたのだと。それなら数字は合う。そう蓋をしてきた。
その蓋の下で、何かが軋んでいる。
◆
「自分からも、ひとつ話す」
ジンが初めて長く口を開いた。背筋は伸びたままだ。
「自分は、確かめてきた。この世界に来た日からずっと。——この世界が、転移者をどう扱っているのかを」
「死んで体が残らないのは転移者だけだ。転移者だけが、なぜか手厚く保護される。……封鍵の魔物とやり合った日、確認したことがある。あなたが作った鍵を、聖詔者様が離れた場所へ届けた。あの届ける力は、転移者でなければ使えないのか、と。そうだ、と聞いた」
ジンの声は変わらない。報告の声だ。
「この世界の力には、転移者にしか扱えないものがある。世界が転移者と土地の者を、分けて扱っている。……あのとき、なるほど、とだけ言った。あの続きを、ずっと確かめていた」
「なぜだ」
「自分は近衛だ。剣を誓う相手が何なのか、知らないまま誓いたくなかった」
短い。それがすべてらしかった。
ジンがまっすぐこちらを見た。
「今夜、全部に説明がついた」
一拍おいて、言った。
「……なるほど」
それきり口を閉じた。閉じてから、もう一度だけ開いた。
「最後に、ひとつ確認したい」
声がわずかに変わっていた。
「あなたの話には、向こうの年数が出てこなかった。あなたが連れて行かれたのは、いつだ」
「俺の中では、桜の季節だ。研究室を出た夜から、この世界で目を覚ますまでの記憶がない。俺にとってはつい先の話だ。……だが向こうの暦では、あの夜から十七年経っている」
「十七年前。そのとき、いくつだった」
「二十二」
「……出た学校は」
学校の名と町の名を言った。
ジンの目が、ゆっくり見開かれていく。この男の顔がそう動くのを初めて見た。
「——その学校に、自分もいた」
「あなたの二年下に」
部屋の音が消えた。
ジンの視線が、宙の一点で止まった。何かを手繰り寄せる目だった。
「……初めて名を聞いたときから、引っかかっていた。どこかで聞いた名だと。今夜まで、思い出せなかった」
「二年上に、頭のできの違う先輩がいると。名前だけが廊下に響いていた。顔は知らない。理系の棟には近寄らなかった。……あのときの名だ」
ジンが、ひとつずつ言葉を置いた。
「自分は今年、三十七になる」
アリスの椅子が小さく鳴った。
「わたしも、ずっと思っていたことがあります」
立ち上がりかけて、座り直した声だった。
「……お父さんは、若すぎる」
数字が順に並んでいく。
フウの声。ここに来た日から聞こえていた、世界の応えの声。
サトルの記録。十七年前より古い一枚はない。
俺の網。最初の一点だけが、網より古い。
ジンの年。二年下の男が、三十七。
跳んだのなら、いい。止まった時間を飛び越えたのなら、全部ただの答え合わせだ。二十二の俺が、十七年先に降り立った。それだけの話だ。
だが——跳んだ者の声が、なぜ十七年ぶん世界に積もっている。
跳んだ者の字が、なぜ最初の一枚からこの世界にある。
——跳んで、いない。
膝の上の手が、かすかに震えているのに気づいた。
十七年は、消えていない。飛び越されてもいない。あの夜からいままで、一日も欠けずに——俺の上を、流れていた。
自分の手を見た。
ペン胼胝の残る、若い手。桜の季節から何ひとつ変わっていない手だ。
十七年、時間が流れたなら——この手が、若いままでいるはずがない。
——なら。
——俺はいま、いくつだ。
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