Episode 85|二重の錠
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
◆
夜半の工房で、新しい式の続きを書いていた。
進みはまだ半分に届かない。急いでいる。だが急ぎを指に悟らせてはならない。焦った字は癖が濃く出る。濃い癖は、そのまま向こうの教科書になる。
アリスは今夜、向こうの体へ戻っている。母へ報せを運ぶ夜だ。戻っているあいだ、こちらから呼ぶ手はない。
仕掛けが鳴った。
あの夜のあと、街の壁と王宮の囲いの錠に結んでおいた報せの仕掛けだ。錠が開けば鳴る。
ひとつ。
手が止まる。
ふたつ。
立ち上がる前に、三つめが鳴った。
東の門。南の門。北の門。
同時に三つ。
あの夜は、ひと筋の道を順に開けただけだった。今夜は三つの門が同時に開いている。
廊下を駆ける小さな足音。扉が開いた。
フウが立っていた。息が上がっている。幼い声が、恐怖で上ずっていた。
「あいてる! いっぱいあいてる! それだけじゃないの。もう、はいってきてる——」
遠くで鐘が鳴り始める。壁の見張りの鐘だ。ひとつではない。三方から重なって鳴る。
——次は、試しではない。
そう読んだ。読んだとおりに、来た。
◆
東の門は、鐘と怒号の中にあった。
門扉は閉じたままだ。魔物は門を通らない。
壁を、越えてくる。
灰色の外骨格。六つの眼。触角の先の鈍い光。エラントが壁面に取りつき、次々と縁を越える。
壁の守りは、門ごとの錠で区切られている。東の錠が受け持つ幅が、まるごと開いている。守りの式が、咎めない。本来なら壁に触れた魔物は式に灼かれて落ちる。それが、起きない。ただの石積みになった壁を蟻が登っている。
羽音が重なった。見上げれば月を横切る影。体長は倍。背に薄い羽。上位種だ。
通りでは騎士たちが列を組んで受けていた。ひとりが三匹を相手に押されている。列の端が崩れかける。
そこへ影がひとつ割って入った。
ジン。抜き打ちの一閃で二つ落とし、返す刃で三つめを裂いた。
斬りながら叫ぶ。
「守りが効いていない! 壁をそのまま越えてくる!」
「わかっている」
手近へ式を走らせた。降りたばかりの三匹。存在を留めている鍵を折る。灰色がほどけて消えた。
だが、削っても湧く。壁の縁には次の灰色が並んでいる。入り口が開いたままだ。閉めなければ数に呑まれる。
門柱の錠へ走った。読む。
……あった。差されたままの鍵。俺の癖で書かれた、俺の書いていない鍵。
錠の鍵は、俺の式からしか作れない。そのはずだった。
——完全に、写された。
偽の鍵を引き抜いて、締め直す。
壁面の灰色が弾かれて落ちた。守りが戻った。
ふた呼吸。
錠が、また開いた。
目の前でだ。書き直したばかりの錠に、新しい合鍵が差し込まれる。
もう一度締めた。もう一度開いた。
伝令の声が通りを走る。
「南門、ふたたび破ら——通られています!」
——締めるそばから、開けられる。
合鍵は向こうの手の中にある。錠を書き替えても同じだ。俺の字で書く限り、書いた端から教科書に載る。
サトルの声がした。ローブの裾を鳴らして、通りの奥に光の壁を張っている。
「通りは塞ぎました! ですが足止めです。朝までは保ちません!」
ジンが斬りながら言う。
「錠は」
「閉めても、開けられる。……いまの俺の錠では」
言葉にすると、冷えた。
この街の壁も王宮の囲いも、みんな俺の字だ。俺の字である限り、今夜じゅう、いつまでもこれが続く。
——アリス。
呼べない相手の名前だけが、胸の中にあった。
◆
アリスが体に戻ると、夜の音が違っていた。
鐘。三方から重なる鐘。廊下を走る足音。
窓に寄った。壁の方角に、松明の川が流れている。
わからなかった。結界は今夜も静かだった。なのに——街が、破られている。
廊下へ出て、駆けてきた近衛を呼び止めた。
「東の門へ。馬を」
近衛の背にしがみついて、夜の街を駆けた。松明。閉ざされた家々。鐘の音が近づいてくる。
東の門の通りは戦場だった。骸。光の壁。刃をふるうジンの背。
馬を降りると、騎士たちが道を開けた。誰かが小さく「聖詔者さま」と言った。
門柱の前に、父がいた。
振り向いて、一言だけ言った。
「来たか」
「結界は破られていません。祈りには、何も」
「知っている。あれは縁の外から来たのではない。この世界の内で生まれた。——縁を守るお前の結界は、内から生まれたものを見ない」
縁ばかりを、見ていた。
「では、開けられているのは」
「壁の錠だ。街を区画に仕切る、俺の字の錠。あれが学んだのは俺の字だ。もう全部読まれている」
「……わたしの証明は」
「まだ読まれていない。壁に使われたことが一度もない。あれには見る機会がなかった」
息をひとつ吸った。言われた意味が、胸の中で形になる。
「わたしの証明を、錠に重ねるんですね」
「二つ揃わなければ開かない錠にする。俺が書く。お前が刻む」
父は一拍おいて、続けた。
「言っておく。使えば、見られる。あれは見たものを全部学ぶ。お前の証明も、いつかは教科書に載る」
いつかは、学ばれる。今夜使えば、その日が近づく。
それでも。
「使います。今夜を差し出すより、ずっといい」
父は頷いて、もう錠に向かっていた。
書き直された錠の上に手を重ねる。祈りの形。いつも祭壇でしている作法で、置いたのは祈りではなく名前だった。
わたしが、これを証す。
錠の中に小さな灯がひとつ点った。
祈りに返る応えの灯とは違う。世界が点すのではない。わたしが点した、わたしの灯。
壁面を登りかけていた灰色が、弾かれて落ちた。今度は、開かない。
父が新しい錠の式をふたつ写して、渡してきた。
「南と北。届けて、嵌めて、灯を刻め。——ここから、届くか」
前に一度だけ、封印に近づけない仲間へ離れたまま鍵を届けたことがある。あれと同じ。ただ、ずっと遠い。
——毎晩の祈りは、大陸の縁までひと巡りする。街の端に届かない道理はない。
「届けます。——届けるのは、慣れています」
目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、夜の街が広がる。祈りなら、道は世界が用意してくれる。これは違う。道のない場所へ自分の手を伸ばす。
南の門。父の字はすぐに見つかった。街をひと筋に横切る細い光の道が、瞼の裏に引かれていく。開いたままの錠を抜いて、新しい式を嵌める。灯を刻む。ふたつめ。
遠い。祈りをひと巡りさせるのとは、重さが違った。視界の端が狭くなる。
北の門。腕を、もう一段遠くへ。三つめの灯を刻んだとき、膝が揺れた。かたわらの門柱に手をついて、息を整える。
北の灯が、小さく揺れた。
耳を澄ます。灯の向こうで、何かが錠を探る気配がした。合鍵が差し込まれ——入らない。
もう一度。入らない。
気配は一拍だけ止まり、それから静かに遠ざかった。
怒っている感じはしなかった。
ただ、覚えて帰った。そんな気がして、背すじが冷えた。
◆
夜明け前に、鐘は止んだ。
通りには骸が並んだ。灰色のものと——白い布を掛けられたものが、ふたつ。
ジンが布のそばに膝をつき、低く名をふたつ呼んだ。頭を下げた。長かった。立ち上がるまで、誰も声をかけなかった。
戻らない者がふたり出た。手負いは十を超えた。この世界に、失われた命を呼び戻す術はない。
閉じた門の錠を見上げた。
俺の鍵と、娘の灯。ふたつの印が並んでいる。二つ揃わなければ、もう開かない。
守れた。——今夜の、この街の三つの門だけだ。
壁は国じゅうにある。みんな俺の字で書かれている。そしてあの灯を刻める体は、ひとつしかない。
加えて今夜、証明は見られた。
あれは学ぶ。俺の字を学び終えたように、いつか娘の灯も学び終える。新しい式が先か、向こうが先か。競争の残り時間が、今夜また縮んだ。
あれに悪意はない。学んで、試して、広げているだけだ。
悪意のないものには、やめる理由もない。
振り向くと、サトルとジンが並んで立っていた。
ふたりとも何も訊かなかった。訊かないことが、問いだった。
フウが駆けてきて、アリスの手を握った。アリスは膝をついて、その頭を抱いた。
言うには、この世界の底までの全部が要る。壁が何であるか。魔物が何であるか。……俺たちが、何であるか。
あの夜はそう思って、呑み込んだ。
もう呑み込む段ではない。仲間は今夜、正体も知らされないものに命をふたつ払った。
「明日の夜、集まってくれ。ジン。サトル。……フウも、だ」
サトルの目の奥で、積み上がっていた問いが揺れた。
一拍おいて、続けた。
「——全部、話す」
朝の光が壁の上に差して、閉じた錠のふたつの印を照らしていた。




