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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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85/87

Episode 85|二重の錠

【視点マークの読み方】

◆=ケイたちのいる世界



 夜半の工房で、新しい式の続きを書いていた。

 進みはまだ半分に届かない。急いでいる。だが急ぎを指に悟らせてはならない。焦った字は癖が濃く出る。濃い癖は、そのまま向こうの教科書になる。

 アリスは今夜、向こうの体へ戻っている。母へ報せを運ぶ夜だ。戻っているあいだ、こちらから呼ぶ手はない。

 仕掛けが鳴った。

 あの夜のあと、街の壁と王宮の囲いの錠に結んでおいた報せの仕掛けだ。錠が開けば鳴る。

 ひとつ。

 手が止まる。

 ふたつ。

 立ち上がる前に、三つめが鳴った。

 東の門。南の門。北の門。

 同時に三つ。

 あの夜は、ひと筋の道を順に開けただけだった。今夜は三つの門が同時に開いている。

 廊下を駆ける小さな足音。扉が開いた。

 フウが立っていた。息が上がっている。幼い声が、恐怖で上ずっていた。

 「あいてる! いっぱいあいてる! それだけじゃないの。もう、はいってきてる——」

 遠くで鐘が鳴り始める。壁の見張りの鐘だ。ひとつではない。三方から重なって鳴る。

 ——次は、試しではない。

 そう読んだ。読んだとおりに、来た。



 東の門は、鐘と怒号の中にあった。

 門扉は閉じたままだ。魔物は門を通らない。

 壁を、越えてくる。

 灰色の外骨格。六つの眼。触角の先の鈍い光。エラントが壁面に取りつき、次々と縁を越える。

 壁の守りは、門ごとの錠で区切られている。東の錠が受け持つ幅が、まるごと開いている。守りの式が、咎めない。本来なら壁に触れた魔物は式に灼かれて落ちる。それが、起きない。ただの石積みになった壁を蟻が登っている。

 羽音が重なった。見上げれば月を横切る影。体長は倍。背に薄い羽。上位種だ。

 通りでは騎士たちが列を組んで受けていた。ひとりが三匹を相手に押されている。列の端が崩れかける。

 そこへ影がひとつ割って入った。

 ジン。抜き打ちの一閃で二つ落とし、返す刃で三つめを裂いた。

 斬りながら叫ぶ。

 「守りが効いていない! 壁をそのまま越えてくる!」

 「わかっている」

 手近へ式を走らせた。降りたばかりの三匹。存在を留めている鍵を折る。灰色がほどけて消えた。

 だが、削っても湧く。壁の縁には次の灰色が並んでいる。入り口が開いたままだ。閉めなければ数に呑まれる。

 門柱の錠へ走った。読む。

 ……あった。差されたままの鍵。俺の癖で書かれた、俺の書いていない鍵。

 錠の鍵は、俺の式からしか作れない。そのはずだった。

 ——完全に、写された。

 偽の鍵を引き抜いて、締め直す。

 壁面の灰色が弾かれて落ちた。守りが戻った。

 ふた呼吸。

 錠が、また開いた。

 目の前でだ。書き直したばかりの錠に、新しい合鍵が差し込まれる。

 もう一度締めた。もう一度開いた。

 伝令の声が通りを走る。

 「南門、ふたたび破ら——通られています!」

 ——締めるそばから、開けられる。

 合鍵は向こうの手の中にある。錠を書き替えても同じだ。俺の字で書く限り、書いた端から教科書に載る。

 サトルの声がした。ローブの裾を鳴らして、通りの奥に光の壁を張っている。

 「通りは塞ぎました! ですが足止めです。朝までは保ちません!」

 ジンが斬りながら言う。

 「錠は」

 「閉めても、開けられる。……いまの俺の錠では」

 言葉にすると、冷えた。

 この街の壁も王宮の囲いも、みんな俺の字だ。俺の字である限り、今夜じゅう、いつまでもこれが続く。

 ——アリス。

 呼べない相手の名前だけが、胸の中にあった。



 アリスが体に戻ると、夜の音が違っていた。

 鐘。三方から重なる鐘。廊下を走る足音。

 窓に寄った。壁の方角に、松明の川が流れている。

 わからなかった。結界は今夜も静かだった。なのに——街が、破られている。

 廊下へ出て、駆けてきた近衛を呼び止めた。

 「東の門へ。馬を」

 近衛の背にしがみついて、夜の街を駆けた。松明。閉ざされた家々。鐘の音が近づいてくる。

 東の門の通りは戦場だった。骸。光の壁。刃をふるうジンの背。

 馬を降りると、騎士たちが道を開けた。誰かが小さく「聖詔者さま」と言った。

 門柱の前に、父がいた。

 振り向いて、一言だけ言った。

 「来たか」

 「結界は破られていません。祈りには、何も」

 「知っている。あれは縁の外から来たのではない。この世界の内で生まれた。——縁を守るお前の結界は、内から生まれたものを見ない」

 縁ばかりを、見ていた。

 「では、開けられているのは」

 「壁の錠だ。街を区画に仕切る、俺の字の錠。あれが学んだのは俺の字だ。もう全部読まれている」

 「……わたしの証明は」

 「まだ読まれていない。壁に使われたことが一度もない。あれには見る機会がなかった」

 息をひとつ吸った。言われた意味が、胸の中で形になる。

 「わたしの証明を、錠に重ねるんですね」

 「二つ揃わなければ開かない錠にする。俺が書く。お前が刻む」

 父は一拍おいて、続けた。

 「言っておく。使えば、見られる。あれは見たものを全部学ぶ。お前の証明も、いつかは教科書に載る」

 いつかは、学ばれる。今夜使えば、その日が近づく。

 それでも。

 「使います。今夜を差し出すより、ずっといい」

 父は頷いて、もう錠に向かっていた。

 書き直された錠の上に手を重ねる。祈りの形。いつも祭壇でしている作法で、置いたのは祈りではなく名前だった。

 わたしが、これを証す。

 錠の中に小さな灯がひとつ点った。

 祈りに返る応えの灯とは違う。世界が点すのではない。わたしが点した、わたしの灯。

 壁面を登りかけていた灰色が、弾かれて落ちた。今度は、開かない。

 父が新しい錠の式をふたつ写して、渡してきた。

 「南と北。届けて、嵌めて、灯を刻め。——ここから、届くか」

 前に一度だけ、封印に近づけない仲間へ離れたまま鍵を届けたことがある。あれと同じ。ただ、ずっと遠い。

 ——毎晩の祈りは、大陸の縁までひと巡りする。街の端に届かない道理はない。

 「届けます。——届けるのは、慣れています」

 目を閉じた。

 閉じた瞼の裏に、夜の街が広がる。祈りなら、道は世界が用意してくれる。これは違う。道のない場所へ自分の手を伸ばす。

 南の門。父の字はすぐに見つかった。街をひと筋に横切る細い光の道が、瞼の裏に引かれていく。開いたままの錠を抜いて、新しい式を嵌める。灯を刻む。ふたつめ。

 遠い。祈りをひと巡りさせるのとは、重さが違った。視界の端が狭くなる。

 北の門。腕を、もう一段遠くへ。三つめの灯を刻んだとき、膝が揺れた。かたわらの門柱に手をついて、息を整える。

 北の灯が、小さく揺れた。

 耳を澄ます。灯の向こうで、何かが錠を探る気配がした。合鍵が差し込まれ——入らない。

 もう一度。入らない。

 気配は一拍だけ止まり、それから静かに遠ざかった。

 怒っている感じはしなかった。

 ただ、覚えて帰った。そんな気がして、背すじが冷えた。



 夜明け前に、鐘は止んだ。

 通りには骸が並んだ。灰色のものと——白い布を掛けられたものが、ふたつ。

 ジンが布のそばに膝をつき、低く名をふたつ呼んだ。頭を下げた。長かった。立ち上がるまで、誰も声をかけなかった。

 戻らない者がふたり出た。手負いは十を超えた。この世界に、失われた命を呼び戻す術はない。

 閉じた門の錠を見上げた。

 俺の鍵と、娘の灯。ふたつの印が並んでいる。二つ揃わなければ、もう開かない。

 守れた。——今夜の、この街の三つの門だけだ。

 壁は国じゅうにある。みんな俺の字で書かれている。そしてあの灯を刻める体は、ひとつしかない。

 加えて今夜、証明は見られた。

 あれは学ぶ。俺の字を学び終えたように、いつか娘の灯も学び終える。新しい式が先か、向こうが先か。競争の残り時間が、今夜また縮んだ。

 あれに悪意はない。学んで、試して、広げているだけだ。

 悪意のないものには、やめる理由もない。

 振り向くと、サトルとジンが並んで立っていた。

 ふたりとも何も訊かなかった。訊かないことが、問いだった。

 フウが駆けてきて、アリスの手を握った。アリスは膝をついて、その頭を抱いた。

 言うには、この世界の底までの全部が要る。壁が何であるか。魔物が何であるか。……俺たちが、何であるか。

 あの夜はそう思って、呑み込んだ。

 もう呑み込む段ではない。仲間は今夜、正体も知らされないものに命をふたつ払った。

 「明日の夜、集まってくれ。ジン。サトル。……フウも、だ」

 サトルの目の奥で、積み上がっていた問いが揺れた。

 一拍おいて、続けた。

 「——全部、話す」

 朝の光が壁の上に差して、閉じた錠のふたつの印を照らしていた。


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