Episode 84|通過
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
◆
祈りの間の灯は、今夜もひとつきりで燃えていた。
アリスは祭壇の前に膝を折り、いつもの作法で祈りを置いた。
応えを待つ。息をひとつ吸って、吐く。それだけの待つ間で、世界は応えてくれる。
灯がふくらんで、返った。
そして——もうひとつ。
ふたつめ。今夜もいた。ふたつ返った夜は、これで四度め。
けれど数よりも先に別のことに気づいて、背すじが強張った。
近い。
ふたつめの応えはいつも半拍おくれて重なってきた。だから聞き分けられた。あとから来るほうが偽物。
今夜の遅れは、半拍もなかった。
ほとんど同時。聞き分けられたのは、応えの尾にわずかに残る濁りだけ。
——追いついてきている。
遅れは未熟さだと父は言った。育てば遅れは消える。消えたら、もう聞き分けられない。
祈りを閉じて、立ち上がった。
父へ送った。声ではない。——今夜もふたつ返りました。前よりずっと近いです。遅れはもう、半拍もありません。重なるのは時間の問題だと思います。
返りはすぐに来た。
——わかった。遅れが消えるのは、育ちが進んだ印だ。無理に聞き分けようとするな。今夜は休め。
聞き分けようと、するな。
その言葉の意味を考えて、指先が冷えた。
耳で追える段階が、終わりかけているのだ。
◆
工房の机で、娘の報せを読み返していた。
重なるのは、時間の問題。
祈りに返る偽の応え。——世界の底で生まれたものの、声だ。娘はあれの育ちを、耳で数えてくれている。
速い。間が三晩から一晩に詰まり、今夜は遅れそのものが消えかけた。学ぶ速さが上がっている。
机の上には書きかけの新しい式。まだ半分にも届いていない。
——間に合うのか。
初めて、その問いが形になった。
夜気を、幼い声が裂いた。
「——いる! なかに、へんなのがいる!」
フウの声だった。
工房を出た。
中庭の端。生け垣の際に、それはいた。
灰色の外骨格。独立して動く六つの眼。触角の先が夜の中で鈍く光っている。
エラント。街の壁の外の魔物だ。
壁の内に魔物が出たことなら、前にもある。黒い蔓のあれは、種のかたちに縮んで壁をすり抜け、街の中で開いた。
忍び込む。それが魔物のやり口だ。
だが——
夜陰から足音もなく影がひとつ割って入った。
ジン。当直明けか、まだ帯刀している。
「下がれ」
短い。抜き打ちの一閃。
それで終わった。灰色の体が二つに分かれて地に落ちる。
強い魔物ではない。壁の外なら騎士の一振りで済む相手だ。
問題は、強さではない。
ジンが刀を納めて振り向いた。
「エラントだ。ここは壁の内。門は夜のあいだ閉まっている」
「わかっている」
骸のそばに膝をついた。
読む。
……あった。
体の表に、通ってきた道の痕が薄く残っている。壁に触れた痕。そして、咎められずに通った痕。
種のかたちで忍び込んだ痕ではない。
ジンが言った。
「壁は、破られたのか」
「いや」
立ち上がって、生け垣の際へ歩いた。庭のいちばん外に張られた守り。その式を読む。
——開いている。
錠に鍵が差され、開けられ、開いたままになっていた。
「破られていない。忍び込まれてもいない。——正面から、通されたのだ」
沈黙。
「守りは仕事をした。誰だと訊いて、鍵を確かめて、正しい鍵だったから開けた。手順のどこにも破れはない」
サトルの声がした。いつの間にかローブを羽織って立っている。
「正しい鍵……。エラントが、鍵を持っていたと?」
「いや。——道が、開けてあった」
「開けて……誰が、です」
「鍵を差したのは魔物ではない。別の何かが守りに鍵を差して、開けて、開けたままにした。エラントは開いた道をただ歩いた。それだけだ」
「その鍵は、いまも」
「残っている」
差されたままの鍵の痕を読む。指が、途中で止まった。
「ケイ君?」
「……この鍵は、俺の書き方の癖で書かれている」
サトルが息を呑んだ。
「あなたが書いた、ということですか」
「俺は書いていない」
俺の字。俺の曲がり方。俺の締め方。それを教科書にした何かが、これを書いた。
ジンが低く言った。
「偽物か」
「本物と同じに開く、偽物だ」
式を締め直して、錠を掛けた。掛けながら、指先が冷えた。
この錠は、もう錠ではない。合鍵が、向こうにある。
「……あれだよ」
フウがジンの後ろから半分だけ顔を出して、骸を見ていた。怯えてはいない。ただ、静かだった。
「うまれたやつが、とおした。——われるおとのやつと、おなじけはいだもん」
夜のフウの声だった。
サトルが眼鏡の奥からこちらを見た。
「ケイ君。壁が魔を通した。それも、正しい手順で」
一拍おいて、続けた。
「——これも、待ってくれない側のものですか」
「そうだ」
それ以上は言わなかった。言うには、この世界の底までの全部が要る。壁が何であるか。魔物が何であるか。……俺たちが、何であるか。
サトルは頷いて、それ以上は訊かなかった。ただ、目の奥の問いがまたひとつ増えた。あの人の中に、答えを待つ問いがいくつ積み上がっているか。——遠くない日に、その全部に答えることになる。
「今夜は戻れ。壁は俺が見る」
三人が去った中庭で、骸を見下ろした。
街の壁だけではない。王宮の囲いも、この庭の守りも——この世界の壁は、ほとんど俺の字だ。同じ手が書いた壁は、同じ鍵で開く。
ひとつ通れば、全部に通る。
なぜ、いちばん弱い魔物が、と考えて、すぐに答えへ行き当たった。
試したのだ。
書いた鍵が通るかどうか。街の壁と、王宮の囲いと、この庭の守り。順に差して、順に開けた。開いた道へ、たまたまいちばん弱いものが迷い込んだ。
それだけで、世界の真ん中のこの庭まで届いた。
試し書きは、成功した。
なら——次は、試しではない。
♠
周は自分の端末で、名のない頁を開いていた。
印は増え続けている。重複応答。発生区画の一覧。間隔の推移。観測を始めてから、間隔は詰まる一方だ。
今夜のログに、見たことのない形があった。
定時の死活確認。要求はひとつ。応答はふたつ。そこまではこれまでと同じだ。
違うのは、着順だった。
重複応答はこれまで、正規の応答より千分の一秒足らずの遅れで着いていた。だが認証系にとっては十分な遅れだ。認証系は先に着いた応答を受理し、遅れて着いた二つ目を破棄する。だから実害はなかった。
今夜のふたつは、ほぼ同時に着いていた。
受理されたのは、どちらだ。
照合して、指が止まった。
受理された応答の署名は正しい。形式も正しい。だが、発信元の経路が正規の系統を通っていない。
破棄されたほうが——正規の応答だった。
認証系が偽物を本物として受理し、本物を捨てた。
一件。たった一件だ。死活確認への応答ひとつでは、何も起こらない。
だが、意味は明白だった。
遅れは消えた。成り済ましは、通る段階に入った。
印を打つ手を止めて、頁の全体を眺めた。
名のない頁。理由を用意しないまま集めてきた観測の列。その隣には、埋まらない欄がある。——あの朝の記録で、誰が道を組んだのかだけが埋まらなかった欄だ。
このネットワークには、原因の分からない穴がふたつ空いている。
そして、この基盤の上で世界中の通信が回っている。
周は新しい行を起こした。
書いたのは、一語だけだ。
『通過』
誤差は、二度目から誤差でなくなる。
通過は——一度目から、障害だ。




