Episode 83|期限
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♣=キャロル(アリスの母)の側
■
寝台の底で目を開けた。
今夜は、運ぶものがある。
父から預かった言葉。一字も欠かさず、母へ。
機械の低い唸り。天井を走る管。夜の色をした見慣れた闇。務めのあと、短くこちらの体へ帰る。行って、帰ってくる。その繰り返しに体はもう慣れはじめていた。
目を閉じて、母の机の画面へ細い道をたどる。
『おかあさん。おとうさんから、つたえることがあります』
間を置いて、返りが来た。
『きいてる』
その二文字の向こうに、母の姿が見える気がした。夜更けの会社の、古い棟。忘れられた端末の前に、灯りをひとつだけ点けて座る母。
その部屋を、見たことはない。それでも毎晩そこで待っていてくれることだけは、正しく思い描ける気がした。
ひと呼吸ぶん待ってから、預かったとおりに書いた。
『——世界の認証に、成りすますものが出ている。俺の鍵の作り方の癖を、学んでいる。育てば、本物と見分けがつかなくなる。いまの式では防げない。新しい式を書く。皆を降ろす式が、盾を兼ねる』
意味は、半分も分からない。認証。成りすます。癖。ひとつずつの言葉は知っているのに、並ぶと遠くなる。
それでも、重さだけは分かる。これは、悪い報せだ。
今度の間は、長かった。画面の向こうで、母が読み返している。二度。三度。そんな気配の長さだった。
悪い報せを運ぶのは二度目だった。あのときは数字で、運び終えた指が冷えた。
今夜は——冷えなかった。
この家族には、もう隠しごとがない。悪い報せが悪い報せのまま、まっすぐ届く。それがどれだけ得がたいことか、隠していたころの指が覚えている。
母の返りは短かった。
『わかった。つたえてくれて、ありがとう』
少し間があって、もう一行。
『こわい?』
『すこし』
『わたしも。でもね、手をうごかしていると、こわさはしずかになるの。あなたははこんで。おとうさんはかいて。わたしはさがす』
『はい』
『いってらっしゃい。きをつけて』
『いってきます』
毎晩の、締めの言葉。書くたびに、指の先がすこしあたたかくなる言葉だ。
画面の向こうで、母が袖をまくる気配を感じた気がした。
♣
娘の文字が消えたあとの画面を、キャロルはしばらく見ていた。
夜更けの古い棟。忘れられた監視端末の前。娘の声が届く、ただひとつの場所だ。
成りすますもの。あの人の癖を、学ぶもの。
息が一度だけ浅くなった。
あの人の式が破られる。その一行の重さを正しく読める人間は、世界にも数えるほどしかいない。世界中の通信が、あの式ひとつで回っている。破られれば、全部が落ちる。
恐れは消えない。ただ、恐れの置き場所ならある。
端末の灯りを落として、誰もいない廊下を戻った。
家に帰り着くなり、抽斗から書きかけの一覧を出す。この部屋で作った、外の機械のリスト。速さの欄で全部に線を引いた、全滅のリストだ。
北の研究所の大型機。海の向こうの競売に出た、退役した計算機の群れ。名前の横にどれも同じ線が引いてある。届かない、の線だ。
——前提が、変わった。
あの人は式を軽くする。なら、要るのは世界でいちばん速い機械ではない。新しい式が確かに載る、確かな器だ。
式が軽くなれば、速さで届かなかった機械にも載る。
基準が変われば、死んだリストは生き返る。
増えたのは、敵じゃない。——期限だ。
新しい紙を重ねて、一行目に要件を書く。
『軽い式が、止まらずに回ること』
速さの王様たちを消して、働き者の欄を作る。どこの倉庫にも積んである、安くて丈夫な量販の箱。式がどこまで軽くなるかで、要る数は千にも万にもなる。数を決めるのは、あの人の式だ。
どちらにしても、個人の買い物で済む規模ではない。世界を載せ替える器は、国か、大きな会社の買い物だ。買い手が誰になるのかは、まだ見えない。
それでも、積算は今夜から作れる。買い手が現れた日に「何を、何台、いくらで」を即座に差し出せるかどうかで、その日の速さが変わる。
要件と積算の調達計画なら、二十年やってきた。わたしの畑だ。
会社では、集めるだけ。並べるのはこの部屋。それは変えない。資料課のあの一拍長い目には、明日も気づかないふりをする。
あの人が書き上げる日に、器が間に合わない——それだけは、だめ。
期限のある夜は久しぶりに長かった。
悪くない長さだった。
◆
工房の机に、紙が増えていた。
新しい式の設計。進んではいる。だが今夜やっているのは、書くことではなかった。
読むことだ。——自分の字を。
十七年書き続けてきた式。防火壁。関門。日々の鍵。並べて、読み返す。どこに癖が出るか。どの角で、同じ曲がり方をするか。
いちばん古い字は、紙ではなく世界のほうに残っている。街を囲う古い防火壁。作者の名が残っていない式。読めば、いまの自分と同じ角で同じ曲がり方をしている。
十七年ぶんの字が、この世界には積もっている。癖は、最初からひとつも変わっていない。変わらないから、癖と呼ぶ。
他人の式なら、癖は一目で見える。自分の癖は見えない。本人にとって癖は、癖ではないからだ。息を吸うように書いてきたものを、息を止めて読み直す。
奇妙な作業だった。
自分を消すために、自分を知り尽くす。癖のない式は、癖を全部知っている者にしか書けない。
つまり——俺の代わりは、俺にしか書けない。
ふと、手が止まった。
いま、同じものを読んでいる者がもうひとりいる。
世界の底で育つ何かも、俺の字を読んでいる。俺の癖を、教科書にして。
同じ教科書を二人で読んでいる。書いた本人と、盗み読む何かと。先に読み終えたほうが勝つ。
アリスから届いた。——いのりに、ふたつめの応えがまた返りました。ふたつ返った夜は、これで三度めです。前は三晩あいて、こんどは一晩でした。
図の端に印を足す。三度。間が、三晩から一晩に詰まった。
次にふたつ返るのは、今夜かもしれない。
もうひとつ、娘が運んでくる報せがある。フウの耳のことだ。かたいものが割れていく音は、夜ごと続いているという。なにかが、うまれてくる——あの子はそう言った。方角は、ヴォイドメア。
生まれようとしているものに、見当はついている。
俺の式の、穴だ。攻められて開いたのではない。癖という形で最初からあった。俺を含めて、誰も十七年気づかなかった。
向こうの世界では、そういう欠陥に名前があった。——ゼロデイ。誰も知らない穴は、守りようがない。
世界の底で殻を割ろうとしているのは、その穴が形になったものだ。最初から潜んでいた欠陥が、十七年かけて——孵る。
育っている。こちらの紙が進むのと、どちらが速いか。
ペンを取り直す。
俺が書く。向こうは、覚える。
なら——覚えられない字で、書くまでだ。
◆
ふた晩のち。
その夜は、妙に静かだった。風の音まで遠い。
祈りの間へ向かう途中の露台で、アリスは足を止めた。
夜気の中、手すりの前にフウが立っていた。
昼間のフウは、今日も庭を駆け回っていた。花の蜜が甘いだの雲がうさぎのかたちだっただの、そんな報せで一日じゅう賑やかだった。
同じ子が、いまは羽音ひとつ立てない。静かに、闇の先を見ている。あの方角。
「フウ」
声をかけると、ゆっくり振り向いた。首を少しかしげている。
「アリス。あのね」
「……また、音が聞こえるのですか」
フウは首を横に振った。
「しない」
「……え」
「われるおと、しなくなった。きのうのよるから、ずっと」
夜が、急に静かになった気がした。
割れる音が、止まった。
止まったのは、割れ終わったからだ。かたいものの中にいた何かが——外に、出た。
胸の底が冷えていく。
フウがもう一度、闇の先を見た。それから、こちらを見上げて言った。
「——うまれたよ」




