Episode 82|ふたつ
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
◆
アリスは祈りの間にいた。夜の務めの、締めくくり。
大陸の結界へ祈りを通す。北の封。西の海。南の街道。世界の縁をひと巡り。
いつもなら、それで終わる。
今夜は、終わらせなかった。
北の封にもう一度だけ祈りを置く。耳を澄ます。世界の底の大きな拍。その上を、応えの灯がすべってくる。
前に一度だけ、この灯が濁って見えた夜がある。今夜は、濁らない。かわりに——
ひとつ、返った。
そのすぐあとに、もうひとつ。
同じ形。少しだけ薄く、少しだけ遅い。
祈りは、ひとつしか置いていない。
応えが、ふたつ。
息を整えて、西へ。南へ。——同じだった。
三晩前から確かめ続けている。務めのあと、母へつなぐ前のわずかな時刻に。最初の晩は一度きりで消えた。次の晩は二度。今夜は、どこに祈ってもふたつ返る。
聞き違いでは、もうない。
……なにかが、応えを真似ている。
言葉にした途端、背中が冷えた。世界の応えは、世界にしか返せない。祈りと応えのあいだには、誰も割り込めない——そう教わってきたし、そう教えてきた。
フウの言葉を思い出す。かたいものが、すこしずつ、われてくおと。なにか、うまれてくるよ。
あの子は闇の先を指していた。あの方角を、覚えている。
胸の隅の印は、もう印ではなかった。
父に話す。今夜。
祈りの間を出る前に、一度だけ振り返った。祭壇の灯は、静かにひとつで燃えていた。
ひとつであることがこんなに尊いものだとは、思ったことがなかった。
◆
翌日の昼、アリスが渡り廊下を行くと、サトルに呼び止められた。
「アリス様。少し、よろしいですか」
手には何も持っていない。ただ、視線が一点で止まり、指が虚空を短く撫でた。転移者の、記録を繰る所作。
「型の話なのですがね。近ごろ、世界の応えが遅い」
「……応え、ですか」
「ええ。型というのは作法です。決まった手順を正しく踏む。すると世界がそれに応えて、術が起きる。手順を終えてから術が起きるまで——そこにはいつも、決まった長さの間がある。私はここへ来た日から、その間の記録を取ってありましてね。並べると、延びている。この十日ほどで、少しずつ」
サトルの目が、眼鏡の奥からまっすぐに来た。
「聖詔者さまの祈りも、突き詰めれば同じでしょう。祈りを置いて、世界が応える。——近ごろ、その返りに妙なことはありませんか」
嘘は、つけない。真偽を見る目は、自分に対しても閉じられない。
「……あります」
それだけ言った。それ以上は言えない。何が、とは訊かれなかった。
サトルは頷いて、眼鏡を押し上げた。
「なら、私の記録は狂っていない。それが分かれば、今日のところは十分です」
踏み込まない。いつもどおり。
ただ、去り際に一度だけ立ち止まって、振り返らずに言った。
「私は、待てます。待つのは研究者の本業のようなものです。——ですが、これは、待ってくれない気がしましてね」
廊下の先に、サトルの背中が消えていく。
積み上がった問いの山が、また一段高くなる音がした。
◆
夜。工房の扉が開いて、アリスが入ってきた。
ケイは手を止めた。娘の顔を見れば、用件の重さは分かる。
「聞いてください。……祈りの応えが、ふたつ返ります」
アリスは順に話した。三晩の確かめ。どこに祈ってもふたつ。薄く、遅れて、同じ形。フウの音。サトルの記録の遅れ。
ケイは黙って聞いた。聞きながら、頭の中で言い換えていく。祈り=認証の要求。応え=応答。
この言い換えは、もう当てずっぽうではない。
こちらの魔法陣は、向こうで書いていた自分の式と同じ字で書かれていた。読めたのではない、自分の字だった——あの夜から、ひとつの見立てが頭にある。
こちらで「世界が応える」とき、その応えの芯にあるものは、向こうで俺の式が返している応えと同じものだ。世界がふたつ並んでいるのではない。同じひとつの営みを、こちらと向こうから見ている。
まだ、証はない。だが見立てが正しいなら、娘の報せはこう読める。
——真似だ。何かが、世界の応答を真似ている。そしてそれは、俺の式が真似られはじめたことと同じ意味だ。
あり得ない。鍵は毎日、形を変える。昨日の鍵で今日の扉は開かない。真似できないことが、この式のただひとつの約束だ。十七年、その約束の上で世界中の扉が回ってきた。
ペンを持ったままの指が、止まっていた。紙の上に、点がひとつ滲む。
その約束が、崩れはじめている。
なら、式の外の話ではない。
——いまの式に、穴がある。
「お父さん」
娘がじっとこちらを見ている。
「それは、なんですか」
「——まだ分からない。分かっていることだけ言う」
ケイは紙を引き寄せ、線をひとつ書いた。
「同じ手が書き続けた字には、癖が乗る。お前の母親は、文字の並びだけで書いた人間を言い当てた。癖は、知っている者には署名になる。そして学ぶ者には——教科書になる」
「教科書……」
「十七年、世界の鍵はたったひとつの頭から出続けた。鍵そのものは毎日変わる。だが、作り方の癖は変わらない。癖を覚えた者は、鍵を破る必要がない。次の鍵を、先回りして書けばいい」
アリスの顔から色が引いた。真偽を見る目は、父の言葉が本当であることも見てしまう。
「いま世界の応えを真似ているのは、たぶん、俺の癖を覚えはじめた何かだ。育つものが世界の底で場所を取れば、応えは遅れる。育った分だけ、真似はうまくなる。サトルの遅れと、お前のふたつ目。別々の異変ではない。同じものの影だ」
「……防げますか」
「いまの式のままでは、防げない。癖は式を直しても消えない。書く頭を、変えない限り」
言いながら、机の上の図に目を落とす。放射の根。書きかけの、一行目からの式。
作り直す理由は、ひとつだった。皆を寝台から降ろすために、外の機械で回る軽い式を作る。
いま、ふたつになった。
癖を持たない式を作る。覚えかけの教科書は、途中で燃える。
新しい式は、書き上げたら俺の手を離れて、外の機械の上で回る。日々の鍵を作るのは、俺の頭ではなくなる。いままで覚えられた癖は、そこでは通用しない。
目的が変わったのではない。皆を降ろす——その一手に、理由がもうひとつ増えただけだ。同じ式が、盾も兼ねる。
「フウが指した方角は」
ケイが訊くと、アリスは地図を広げ、フウの指した先をなぞった。街道が絶え、名前が薄くなり、最後にひとつだけ残る地名。
禁忌の地、ヴォイドメア。
「……務めを続けろ。ふたつ聞こえた夜は、必ず俺に言え。数を数えておいてくれ」
「はい」
娘が退がってから、ケイはペンを取り直した。
——音の主が俺の癖を覚えきるのが先か。新しい式が書き上がるのが先か。
今度の締切は、こちらの都合を待たない。向こうから、育ってくる。
ケイは、続きを書いた。ペン先の音だけが、夜の工房に残った。




