Episode 81|代わり
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
■
機械の音が、先に戻ってくる。次に天井。管の影。自分の呼吸。
アリスは現実の体に意識を重ねた。指は最初のひと呼びに応えない。二度目で応える。
務めの立て直しは、今日で終わった。だから今夜から、約束の続きができる。
——つないでくる。
父にそう言って、指を緩めてきた。
巡る目が、寝台の列の上を通り過ぎていく。目は閉じない。この目覚めはもう、隠しごとではない。見られたまま、見えない指だけを動かす。
母へ文字を運ぶ道は、父が見つけた古い道だ。昔は使われ、いまは忘れられた道。見張りの目はいまある道しか見ない。忘れられた道は、あのひとたちの地図に載っていない。それでも父は毎晩、つなぐ前に道の痕を先まで洗う。今夜も、洗い終えたという合図が糸で来てから——
道に指を置く。
『おかあさん。つなぎました』
返事は、すぐに来た。待っていた速さだった。
『おかえりなさい』
『ただいま』
なんでもない言葉から始める。それができるようになった道の上で、母の文字は一拍止まり、それから続いた。
『渡すものがあるの。——数字よ』
数字が、来た。
機械の名前。速さ。桁。数字は読める。意味が、読めない。読めないまま、一字も違えずに糸へ載せる。それでも、重さはわかる。母の文字は、いつもより硬い。良い報せの形をしていない。
母の結論は、短かった。
『いちばん速い機械でも、届かない。千台束ねても、届かない』
『機械の側からは、埋まらない。埋めるなら——式の側よ』
糸の向こうで、父が黙った。
沈黙のあいだに、母の文字がもうひとつ落ちた。
『この数字と、何日もふたりきりだったの。……やっと、渡せた』
父の声が、返る。
——受け取った。よく調べた。
一拍おいて。
——もう独りで持つな。数字も、それ以外も。
アリスはそれを、そのまま運んだ。一字も欠かさずに。
運び終えた指が、道の上で少し冷えていた。
母の返事が来るまで、少しかかった。
『ええ。もう持たない』
それだけだった。それだけの文字を、指は何度もなぞった。
仕舞いに、母の文字がひとつ。
『おやすみ』
その四文字を胸に入れて、アリスは指を緩めた。
あしたも、つなぐ。もう、途切れさせない。
◆
欄が、埋まった。
外の機械の、いまの速さ。図の空白に、十七年ぶりの数字が並ぶ。
ケイは二度読み、それから自分の手でなぞり直した。
十七年前、足りない桁は七つだった。いまは四つ。千台束ねても、最後の一桁が埋まらない。
つまり、世界中の機械をどう束ねても、いまの式は載らない。
——機械の側からは、埋まらない。
キャロルの結論と同じ場所で、数字が止まる。別々の机で、別々に数えて、同じ一行に着く。式の読み合わせを二人でやっていた頃と同じだった。あの頃は、答えが合うたびに隣の席が笑った。いまは、答えが合うほど道が消える。
いや——違うな。
道が消えるのではない。消えるべき道が、消えただけだ。数字の仕事はそれだ。間違った道を、迷う前に消してくれる。
残った道は、ひとつ。
式の側を、軽くする。
言うのは一行で済む。やることは一行では済まない。あの式は削って作った。学生の机で、これ以上ないところまで削り込んだ。同じ式のまま軽くなるなら、十七年前にそうしている。
つまり、直すのではない。
同じ務めを果たす、別の式を作る。世界中の扉の鍵を作り続ける仕事。いまその仕事をしている頭は——俺だ。
図の中心を見る。放射の根。
——俺の代わりを、俺が作る。
世界でひとりしか書けない式なら、そのひとりが書けばいい。
面白い、と思ってしまった。この期に及んで。
指の先が疼いている。解けそうにない問題を前にしたときだけ出る、学生の頃から変わらない癖だった。
軽い式が外の機械で回り出せば、根はもう要らない。寝台の列を、ひとりずつ降ろせる。
——ひとり残らず。俺も、入れて。
三人で結んだ夜の言葉が、図の上でようやく道の形になった。
新しい紙を、図の端に継ぐ。
一行目を書く手が、少しだけ止まった。
卒論の一行目を書いた夜と、同じ静けさだった。違いは、ひとつだけある。
あのときは、この式を待つ者はいなかった。
いまは、いる。
ケイは一行目を書いた。
♠
二度目の朝、周がまずしたのは、監視の粒度を上げることだった。
監視網の末端の、ふだん誰も参照しない区画。そこだけ、応答の記録間隔を一段細かくする。部下に頼めば理由を訊かれる。訊かれれば、理由を用意することになる。だから自分の端末にだけ、その区画の認証ログを流すよう設定した。
三日、何もなかった。
四日目に、三度目が来た。
同じ区画。規定の応答時間の、いちばん外側。寝台の並ぶ施設とも、私物化の件のあった区画とも、経路上の接点がない。別系統の、遠い末端だ。
私物化の件は、閉じている。上がそう決め、台帳もそう閉じた。これは——別の何かだ。
ただし今度は、重複が濃い。要求した覚えのない応答が、正規の応答のすぐ後ろに、同じ形式で重なっていた。
真似ている。
誤差は、真似をしない。
周は初めて、こちらから手を出すことにした。
深夜、業務通信の薄い時刻に、その区画へ認証要求をひとつ送る。定型の死活確認。網に毎日何万件と流れる、ありふれた要求。
応答が、返った。
正規の応答が、ひとつ。
計器の上では瞬きにも満たない遅れをおいて——もうひとつ。
同じ形式。同じ内容。わずかに遅い、二つ目の応答。
要求は、ひとつしか送っていない。
周は画面を見たまま、しばらく動かなかった。
二十年、この網の数字を読んできた。遅延の荒れる日も、記録の濁る日もあった。だが要求していない応答が返ったことは、一度もない。
台帳に、新しい頁を起こした。
名前の欄は、空けたままにした。分からないものに名をつけると、分かった気になる。それも二十年で覚えたことだった。
埋まらない欄の隣に、名のない頁がひとつ増えた。
周は頁の頭に、日付だけを書いた。
書きながら、思う。
要求されずに応答する何かが、この網のどこかで育っている。




