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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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Episode 81|代わり

【視点マークの読み方】

◆=ケイたちのいる世界

■=アリスの側

♠=施設を管理する側



 機械の音が、先に戻ってくる。次に天井。管の影。自分の呼吸。

 アリスは現実の体に意識を重ねた。指は最初のひと呼びに応えない。二度目で応える。

 務めの立て直しは、今日で終わった。だから今夜から、約束の続きができる。

 ——つないでくる。

 父にそう言って、指を緩めてきた。

 巡る目が、寝台の列の上を通り過ぎていく。目は閉じない。この目覚めはもう、隠しごとではない。見られたまま、見えない指だけを動かす。

 母へ文字を運ぶ道は、父が見つけた古い道だ。昔は使われ、いまは忘れられた道。見張りの目はいまある道しか見ない。忘れられた道は、あのひとたちの地図に載っていない。それでも父は毎晩、つなぐ前に道の痕を先まで洗う。今夜も、洗い終えたという合図が糸で来てから——

 道に指を置く。

 『おかあさん。つなぎました』

 返事は、すぐに来た。待っていた速さだった。

 『おかえりなさい』

 『ただいま』

 なんでもない言葉から始める。それができるようになった道の上で、母の文字は一拍止まり、それから続いた。

 『渡すものがあるの。——数字よ』

 数字が、来た。

 機械の名前。速さ。桁。数字は読める。意味が、読めない。読めないまま、一字も違えずに糸へ載せる。それでも、重さはわかる。母の文字は、いつもより硬い。良い報せの形をしていない。

 母の結論は、短かった。

 『いちばん速い機械でも、届かない。千台束ねても、届かない』

 『機械の側からは、埋まらない。埋めるなら——式の側よ』

 糸の向こうで、父が黙った。

 沈黙のあいだに、母の文字がもうひとつ落ちた。

 『この数字と、何日もふたりきりだったの。……やっと、渡せた』

 父の声が、返る。

 ——受け取った。よく調べた。

 一拍おいて。

 ——もう独りで持つな。数字も、それ以外も。

 アリスはそれを、そのまま運んだ。一字も欠かさずに。

 運び終えた指が、道の上で少し冷えていた。

 母の返事が来るまで、少しかかった。

 『ええ。もう持たない』

 それだけだった。それだけの文字を、指は何度もなぞった。

 仕舞いに、母の文字がひとつ。

 『おやすみ』

 その四文字を胸に入れて、アリスは指を緩めた。

 あしたも、つなぐ。もう、途切れさせない。



 欄が、埋まった。

 外の機械の、いまの速さ。図の空白に、十七年ぶりの数字が並ぶ。

 ケイは二度読み、それから自分の手でなぞり直した。

 十七年前、足りない桁は七つだった。いまは四つ。千台束ねても、最後の一桁が埋まらない。

 つまり、世界中の機械をどう束ねても、いまの式は載らない。

 ——機械の側からは、埋まらない。

 キャロルの結論と同じ場所で、数字が止まる。別々の机で、別々に数えて、同じ一行に着く。式の読み合わせを二人でやっていた頃と同じだった。あの頃は、答えが合うたびに隣の席が笑った。いまは、答えが合うほど道が消える。

 いや——違うな。

 道が消えるのではない。消えるべき道が、消えただけだ。数字の仕事はそれだ。間違った道を、迷う前に消してくれる。

 残った道は、ひとつ。

 式の側を、軽くする。

 言うのは一行で済む。やることは一行では済まない。あの式は削って作った。学生の机で、これ以上ないところまで削り込んだ。同じ式のまま軽くなるなら、十七年前にそうしている。

 つまり、直すのではない。

 同じ務めを果たす、別の式を作る。世界中の扉の鍵を作り続ける仕事。いまその仕事をしている頭は——俺だ。

 図の中心を見る。放射の根。

 ——俺の代わりを、俺が作る。

 世界でひとりしか書けない式なら、そのひとりが書けばいい。

 面白い、と思ってしまった。この期に及んで。

 指の先が疼いている。解けそうにない問題を前にしたときだけ出る、学生の頃から変わらない癖だった。

 軽い式が外の機械で回り出せば、根はもう要らない。寝台の列を、ひとりずつ降ろせる。

 ——ひとり残らず。俺も、入れて。

 三人で結んだ夜の言葉が、図の上でようやく道の形になった。

 新しい紙を、図の端に継ぐ。

 一行目を書く手が、少しだけ止まった。

 卒論の一行目を書いた夜と、同じ静けさだった。違いは、ひとつだけある。

 あのときは、この式を待つ者はいなかった。

 いまは、いる。

 ケイは一行目を書いた。



 二度目の朝、周がまずしたのは、監視の粒度を上げることだった。

 監視網の末端の、ふだん誰も参照しない区画。そこだけ、応答の記録間隔を一段細かくする。部下に頼めば理由を訊かれる。訊かれれば、理由を用意することになる。だから自分の端末にだけ、その区画の認証ログを流すよう設定した。

 三日、何もなかった。

 四日目に、三度目が来た。

 同じ区画。規定の応答時間の、いちばん外側。寝台の並ぶ施設とも、私物化の件のあった区画とも、経路上の接点がない。別系統の、遠い末端だ。

 私物化の件は、閉じている。上がそう決め、台帳もそう閉じた。これは——別の何かだ。

 ただし今度は、重複が濃い。要求した覚えのない応答が、正規の応答のすぐ後ろに、同じ形式で重なっていた。

 真似ている。

 誤差は、真似をしない。

 周は初めて、こちらから手を出すことにした。

 深夜、業務通信の薄い時刻に、その区画へ認証要求をひとつ送る。定型の死活確認。網に毎日何万件と流れる、ありふれた要求。

 応答が、返った。

 正規の応答が、ひとつ。

 計器の上では瞬きにも満たない遅れをおいて——もうひとつ。

 同じ形式。同じ内容。わずかに遅い、二つ目の応答。

 要求は、ひとつしか送っていない。

 周は画面を見たまま、しばらく動かなかった。

 二十年、この網の数字を読んできた。遅延の荒れる日も、記録の濁る日もあった。だが要求していない応答が返ったことは、一度もない。

 台帳に、新しい頁を起こした。

 名前の欄は、空けたままにした。分からないものに名をつけると、分かった気になる。それも二十年で覚えたことだった。

 埋まらない欄の隣に、名のない頁がひとつ増えた。

 周は頁の頭に、日付だけを書いた。

 書きながら、思う。

 要求されずに応答する何かが、この網のどこかで育っている。


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