Episode 80|誤差
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
娘の文字が来なくなって、三日になる。
朝、席につく。端末を開く。権限は戻ったまま。仕事は前と同じ顔でそこにある。
会社は何も言ってこない。罰も、質問も、労いもない。値踏みの続く静けさだけがある。
視線は、たぶんある。見えないだけで。
だからキャロルは、いつもどおりの手つきで働いた。
不具合の報告を読む。直しを当てる。合間に、資料をひとつ挟む。外の演算機の、性能の一覧。
部品の速さ。機械の世代。公開されている数字ばかりだ。チップに関わるソフトの研究者が、機械の進みを追う。閲覧の記録に残っても、業務の顔をしている読み物。
集めるだけ。並べない。比べない。
比べた瞬間に、この数字たちは別の意味を持つ。足の下の規模と結びつく意味を。それは、この建物の中ではしない。
資料は持ち出さない。数字は頭に入れて帰る。
昼、資料の棚の前で声をかけられた。
「ハードの勉強ですか。珍しい」
「ソフトだけじゃ追いつかない時代だから」
笑って返した。嘘は言っていない。
男の目が、一拍だけ長く留まった。
……気のせいだ。そう思うことにする。
夜、家に帰る。
台所のテーブルに、会社の網の外にある私物の端末を置く。
頭の中に持ち帰った数字を、ひとつずつ並べていく。
世界でいちばん速い機械。その次。その次。量子式の、公表されている限りの数字。
それらを束にして、ケイの式が要求する速さと比べる。
十七年、あの式を毎日扱ってきた。どれだけの計算が、どれだけの速さで要るか。世界中の通信の鍵が毎日形を変える。その一日分を、機械の数字で割ってみる。
一日分の鍵の計算。それを一日でこなせる機械が、世界のどこにもない。
桁が、足りなかった。
一桁や二桁ではない。機械を千台並べても、まだ届かない。
何度か数え直した。数字は動かない。
機械は速くなっていた。この十七年で、驚くほど。それでも、あの式の速さには追いつかない。
追いつけないから、あの会社は人を眠らせたのだ。
手元の数字が、あの冷たい部屋の列を裏からなぞっていた。
——機械の側からは、埋まらない。
埋めるとしたら、式の側だ。計算そのものを軽くする。それができる頭は、世界にひとつしかない。
悪い報せと、その宛先。両方わかっているのに、届ける道がいまはない。
一語の道なら、ある。式の癖に載せて、短い言葉をひとつだけ届ける道。けれど一語では、数字は運べない。
端末を閉じる。暗くなった画面に、自分の顔が映る。
顔を上げると、テーブルの向かいに椅子がある。娘が宿題を広げていた椅子。
「……早く、おいで」
誰もいない部屋で、それだけ言った。
◆
工房の机に、図が広がっている。
人工のシステムの骨組み。移す計算の一覧。線は日ごとに増えていく。
埋まらない欄が、ひとつだけあった。外の機械の、いまの速さ。
十七年前の数字なら頭に入っている。あの頃の機械では、桁が七つ足りなかった。いまの機械がどこまで縮めたか——その数字を運べる人へ通じる道が、いまは閉じている。
窓の外で、光が立った。
祈りの間の方角。緩んだ封がひとつ、結び直された光だ。
近くで務めを果たす娘。遠くで数字を集めているはずの母。
静かだった。母の側の文字が消えて、三日。
前にも、こういう静けさはあった。あのときの静けさは奪われたものだった。今度のは、選んだものだ。
同じ静けさでも、重さが違う。
図に戻る。
——数字を待つあいだに、削れるものを削っておく。
欄は空白のまま、設計を一段進めた。
♠
周の朝は、台帳から始まる。
二十年、変わらない習慣だった。夜のあいだに監視網が記録した数字を、一列ずつ目で歩く。
異常はない。数字はいつもどおりに揃っている。
一行だけ、引っかかった。
認証の応答時間に、外れ値がひとつ。網の端の、ふだん誰も参照しない区画のものが、規定の許容幅のいちばん外側を一度だけ掠めていた。遅れというほどの遅れではない。千分の一秒にも満たない。
正規の応答のすぐ後ろに、ごく薄い重複が記録されている。要求した覚えのない、二つ目の応答。
網は広い。この規模なら、この程度の外れ値は日に幾つも出る。計測の誤差。機器の個体差。回線の混雑。理由は幾らでも用意できる。
周は、理由を用意しなかった。
用意した理由は、考えることをやめさせる。二十年で覚えたことだ。
説明のつく外れ値なら、説明がつくまで放っておけばいい。説明のつかない外れ値だけが、台帳に残る値打ちを持つ。
これは、どちらか。
まだ分からない。一度きりでは何も言えない。
台帳の隅に、印をつけた。
ページを繰る手が、一度だけ止まる。少し前から手をつけずにいる、埋まらない欄。あれも説明のつかないもののひとつだった。触らないと決めた欄。
その隣に、新しい印がひとつ増えた。それだけのことだ。
誤差は、二度目から誤差でなくなる。
周は台帳を閉じ、日々の仕事に戻った。
二日後の朝。
同じ区画。同じ許容幅の、いちばん外側。
——二度目が、来た。




