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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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79/87

Episode 79|半拍

【視点マークの読み方】

◆=ケイたちのいる世界

■=アリスの側



 運ぶ言葉が、初めて指の先で止まった。

 ——ただ一人、俺を除いて。

 父の声の、最後の一行。

 糸で届いた父の言葉を、指で母の画面へ運ぶ。それがアリスの役目だった。今夜も、糸と画面のあいだに娘がいる。

 あとはこの一行を運ぶだけだった。指はいつでも動く。動かないのは、指ではない。

 怒りを載せない。一字も欠かさない。それが中継ぎの務めだ。誓ったのは自分だった。

 目を閉じて、ひと呼吸。指を道に置く。

 『ちちだけは、おろせないそうです』

 『ちちのあたまが、せかいじゅうのとびらのかぎを、つくりつづけているから』

 『ぬけば、ぜんぶのかぎが、こわれるから』

 眠らされている人をひとり残らず外へ出す。今夜、父が立てた道。その道の終わりに、父ひとりだけが残る。

 運び終えて、ようやく息を吐いた。

 母の返事は、来なかった。

 長い沈黙だった。画面の向こうで母が何をしているのか、ここからは見えない。泣いているのか。机を叩いているのか。

 巡る目がひとつ、寝台の列を通り過ぎた。返事は、まだ来ない。

 やがて、文字が来た。

 『ひとり残らず——そう言ったのは、あなたよ』

 指がそれを父へ運ぶ。糸の向こうで、父が黙るのがわかった。

 母の文字は続いた。

 『その数に、あなたも入ってる。除いていいなんて、誰も言ってない』

 『降ろす仕組みはこれから作るんでしょう。だったら、あなたの分もこれからよ』

 理屈ではなかった。設計の話でもなかった。それでも、これ以上ない返事だと思った。

 指を添える。今度は、自分の言葉を。

 『おいていきません。だれも。——おとうさんも』

 糸が、しばらく静かだった。

 父の声が、一拍おいて返った。

 ——なら、それも式に入れる。

 三人の夜が、そこでもう一度結ばれた。

 それから、父は段取りに戻った。

 ——お前は一度、こちらへ戻れ。写しの子が保たない。お前の掛けた封も、緩んでいる。

 わかっていた。何日も前から、糸の張りの薄さで。

 母への道に、指を置く。

 『しばらく、こえがとどかなくなります』

 前にも同じ言葉を送った。あのときは、それしか言えなかった。今夜は、続きを書ける。

 『むこうのつとめを、たてなおしてきます。おわったら、またつなぎます』

 『——いってきます』

 母の返事は、すぐに来た。

 『いってらっしゃい』

 なんでもない言葉だった。なんでもない言葉を、一年ぶりに交わした。

 指を、緩める。

 天井が遠くなる。機械の音が薄れる。体を置いて、細くなって、糸をたぐる。

 今度は、置いていくのではない。

 行って、帰ってくるのだ。



 光がほどけて、石の床になった。

 アリスは工房に立っていた。膝が応える。指が握れる。喉に息が通る。何度戻っても、この当たり前に一拍遅れて驚く。

 奥でケイが顔を上げた。机の上に大きな図。無数の線が、一つの点から放射に伸びている。

 「戻ったか」

 「はい」

 「務めを先にやれ。こっちは急がない」

 嘘だ、と思った。急ぐ理由ばかりが増えているのを、もう知っている。それでも父は急ぐなと言う。しくじりがいちばん高くつくことを、家族はもう覚えている。

 「ミアさんの、ところへ」

 「ああ。——アリス」

 呼び止められて、振り返った。

 「よく運んだ。今夜の言葉は、全部」

 それだけ言って、ケイは図に戻った。

 アリスは小さく頷いて、廊下へ出た。

 祈りの間の空気は、薄く張り詰めていた。

 祭壇の前にミアがいた。膝をつき、手を組んでいる。頭が小さく揺れていた。祈りの形のまま、眠りかけているのだった。

 「ミアさん」

 ミアが振り返った。目の下に影。頬がひとまわり細い。

 「アリス、さま」

 立ち上がりかけて、膝が崩れた。アリスは受け止めた。腕の中のミアは、軽かった。

 「もどりました。次は、わたしの番です」

 「もうしわけ、ありません。祈りが、うすくなって。何度かけても、とどかなくて」

 「あなたはずっと、届かない橋を渡し続けてくれました。よく保たせてくれました」

 ミアの目から、音もなく涙が落ちた。泣き終えるまで、肩を貸した。

 それから、務めを継いだ。溜まった祈り。緩んだ封。ひとつずつ、聖詔者の手で結び直していく。

 一晩では、終わらなかった。

 翌朝、廊下を渡っていると、小さな足音が駆けてきた。

 振り返る間もなかった。フウが、腰のあたりに飛びついてきた。

 「アリス!」

 顔を埋めたまま、しばらく離れなかった。

 「まってた。フウ、ずっとまってた」

 「ただいま、フウちゃん」

 アリスは膝を折って、目の高さを合わせた。フウの目に涙が盛り上がって、落ちる前に笑顔になった。

 「こんどは、いつまでいる?」

 「……しばらくは、いますよ」

 「じゃあ、いい」

 単純な取引だった。フウは満足すると、来たときと同じ速さで駆けていった。

 入れ替わりに、廊下の先からサトルが来た。足を止め、何か訊きかけて、やめた。

 「お帰りなさい。……また、しばらくおられますか」

 「ええ。しばらくは」

 「なら、結構」

 それ以上は踏み込まない。察していて、踏み込まない。その目の奥で、問いが積み上がっているのもわかった。

 いつか、答えなければならない日が来る。



 その夜。務めの締めくくりに、大陸の結界へ祈りを通す。

 聖詔者の祈りは、世界の縁をひと巡りする。北の封。西の海。南の街道。どこも静かに応えた。

 最後のひと巡りで、指先が止まった。

 祈りに応えて返る結界の光が、一瞬だけ濁った。水面に油が一滴落ちたような、にじみ。

 ——今の、は。

 耳を澄ます。世界の底には、いつも大きな拍がある。祈りはその拍に乗って走る。生まれる前からそこにあったような、揺るがない鼓動。

 その半拍あとに、小さな音がついてきた。こだまなら、同じ形で返る。これは違う。遅れて、真似て、ついてくる。

 もう一度、祈りを通した。

 今度は聞こえない。世界の縁は、どこまでも静かだった。

 ……聞き違い。

 そう置きかけて、置けなかった。胸の隅に、印だけつけた。

 祈りの間を出ると、渡り廊下の手すりにフウがいた。

 昼間、あんなに跳ねていた子が、いまは影のように静かだった。手すりに顎を載せて、じっと闇の先を見ている。

 「フウちゃん。まだ起きていたの」

 フウは、振り返らなかった。

 「……ねえ、アリス」

 小さな指が、闇の先を差した。

 「あっちから、おとがする」

 「音?」

 「かたいものが、すこしずつ、われてくおと」

 ——半拍あとの、あの音。

 胸の隅の印が、冷たく疼いた。

 フウはそこで初めて振り返って、なんでもないことのように言った。

 「——なにか、うまれてくるよ」


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