Episode 79|半拍
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
■
運ぶ言葉が、初めて指の先で止まった。
——ただ一人、俺を除いて。
父の声の、最後の一行。
糸で届いた父の言葉を、指で母の画面へ運ぶ。それがアリスの役目だった。今夜も、糸と画面のあいだに娘がいる。
あとはこの一行を運ぶだけだった。指はいつでも動く。動かないのは、指ではない。
怒りを載せない。一字も欠かさない。それが中継ぎの務めだ。誓ったのは自分だった。
目を閉じて、ひと呼吸。指を道に置く。
『ちちだけは、おろせないそうです』
『ちちのあたまが、せかいじゅうのとびらのかぎを、つくりつづけているから』
『ぬけば、ぜんぶのかぎが、こわれるから』
眠らされている人をひとり残らず外へ出す。今夜、父が立てた道。その道の終わりに、父ひとりだけが残る。
運び終えて、ようやく息を吐いた。
母の返事は、来なかった。
長い沈黙だった。画面の向こうで母が何をしているのか、ここからは見えない。泣いているのか。机を叩いているのか。
巡る目がひとつ、寝台の列を通り過ぎた。返事は、まだ来ない。
やがて、文字が来た。
『ひとり残らず——そう言ったのは、あなたよ』
指がそれを父へ運ぶ。糸の向こうで、父が黙るのがわかった。
母の文字は続いた。
『その数に、あなたも入ってる。除いていいなんて、誰も言ってない』
『降ろす仕組みはこれから作るんでしょう。だったら、あなたの分もこれからよ』
理屈ではなかった。設計の話でもなかった。それでも、これ以上ない返事だと思った。
指を添える。今度は、自分の言葉を。
『おいていきません。だれも。——おとうさんも』
糸が、しばらく静かだった。
父の声が、一拍おいて返った。
——なら、それも式に入れる。
三人の夜が、そこでもう一度結ばれた。
それから、父は段取りに戻った。
——お前は一度、こちらへ戻れ。写しの子が保たない。お前の掛けた封も、緩んでいる。
わかっていた。何日も前から、糸の張りの薄さで。
母への道に、指を置く。
『しばらく、こえがとどかなくなります』
前にも同じ言葉を送った。あのときは、それしか言えなかった。今夜は、続きを書ける。
『むこうのつとめを、たてなおしてきます。おわったら、またつなぎます』
『——いってきます』
母の返事は、すぐに来た。
『いってらっしゃい』
なんでもない言葉だった。なんでもない言葉を、一年ぶりに交わした。
指を、緩める。
天井が遠くなる。機械の音が薄れる。体を置いて、細くなって、糸をたぐる。
今度は、置いていくのではない。
行って、帰ってくるのだ。
◆
光がほどけて、石の床になった。
アリスは工房に立っていた。膝が応える。指が握れる。喉に息が通る。何度戻っても、この当たり前に一拍遅れて驚く。
奥でケイが顔を上げた。机の上に大きな図。無数の線が、一つの点から放射に伸びている。
「戻ったか」
「はい」
「務めを先にやれ。こっちは急がない」
嘘だ、と思った。急ぐ理由ばかりが増えているのを、もう知っている。それでも父は急ぐなと言う。しくじりがいちばん高くつくことを、家族はもう覚えている。
「ミアさんの、ところへ」
「ああ。——アリス」
呼び止められて、振り返った。
「よく運んだ。今夜の言葉は、全部」
それだけ言って、ケイは図に戻った。
アリスは小さく頷いて、廊下へ出た。
祈りの間の空気は、薄く張り詰めていた。
祭壇の前にミアがいた。膝をつき、手を組んでいる。頭が小さく揺れていた。祈りの形のまま、眠りかけているのだった。
「ミアさん」
ミアが振り返った。目の下に影。頬がひとまわり細い。
「アリス、さま」
立ち上がりかけて、膝が崩れた。アリスは受け止めた。腕の中のミアは、軽かった。
「もどりました。次は、わたしの番です」
「もうしわけ、ありません。祈りが、うすくなって。何度かけても、とどかなくて」
「あなたはずっと、届かない橋を渡し続けてくれました。よく保たせてくれました」
ミアの目から、音もなく涙が落ちた。泣き終えるまで、肩を貸した。
それから、務めを継いだ。溜まった祈り。緩んだ封。ひとつずつ、聖詔者の手で結び直していく。
一晩では、終わらなかった。
翌朝、廊下を渡っていると、小さな足音が駆けてきた。
振り返る間もなかった。フウが、腰のあたりに飛びついてきた。
「アリス!」
顔を埋めたまま、しばらく離れなかった。
「まってた。フウ、ずっとまってた」
「ただいま、フウちゃん」
アリスは膝を折って、目の高さを合わせた。フウの目に涙が盛り上がって、落ちる前に笑顔になった。
「こんどは、いつまでいる?」
「……しばらくは、いますよ」
「じゃあ、いい」
単純な取引だった。フウは満足すると、来たときと同じ速さで駆けていった。
入れ替わりに、廊下の先からサトルが来た。足を止め、何か訊きかけて、やめた。
「お帰りなさい。……また、しばらくおられますか」
「ええ。しばらくは」
「なら、結構」
それ以上は踏み込まない。察していて、踏み込まない。その目の奥で、問いが積み上がっているのもわかった。
いつか、答えなければならない日が来る。
◆
その夜。務めの締めくくりに、大陸の結界へ祈りを通す。
聖詔者の祈りは、世界の縁をひと巡りする。北の封。西の海。南の街道。どこも静かに応えた。
最後のひと巡りで、指先が止まった。
祈りに応えて返る結界の光が、一瞬だけ濁った。水面に油が一滴落ちたような、にじみ。
——今の、は。
耳を澄ます。世界の底には、いつも大きな拍がある。祈りはその拍に乗って走る。生まれる前からそこにあったような、揺るがない鼓動。
その半拍あとに、小さな音がついてきた。こだまなら、同じ形で返る。これは違う。遅れて、真似て、ついてくる。
もう一度、祈りを通した。
今度は聞こえない。世界の縁は、どこまでも静かだった。
……聞き違い。
そう置きかけて、置けなかった。胸の隅に、印だけつけた。
祈りの間を出ると、渡り廊下の手すりにフウがいた。
昼間、あんなに跳ねていた子が、いまは影のように静かだった。手すりに顎を載せて、じっと闇の先を見ている。
「フウちゃん。まだ起きていたの」
フウは、振り返らなかった。
「……ねえ、アリス」
小さな指が、闇の先を差した。
「あっちから、おとがする」
「音?」
「かたいものが、すこしずつ、われてくおと」
——半拍あとの、あの音。
胸の隅の印が、冷たく疼いた。
フウはそこで初めて振り返って、なんでもないことのように言った。
「——なにか、うまれてくるよ」




