Episode 87|数える
◆=ケイたちのいる世界
♣=キャロル(アリスの母)の側
♠=施設を管理する側
◆
俺はいま、いくつだ。
声に出したつもりはなかった。それでも工房の空気が動いた。
誰も答えない。
答えを持っていないからではない。全員が同じ計算を、同じ速さで終えたからだ。
最初に口を開いたのはジンだった。
「自分は今年、三十七になる」
同じ言葉をもう一度置いた。確かめる置き方だった。
「あなたは二年上だ」
一拍あった。
「——三十九だ」
数字が耳から入った。どこにも降りていかない。
三十九。
式なら一行で済む。二十二に十七を足す。それだけの計算を、今夜まで一度も自分に向けたことがなかった。
机の木目を見ていた。指が動かない。読めない式を前にしたときと同じ形で、手が止まっている。
計算はできる。受け取れない。こういう手触りの問いは初めてだった。
サトルが視線を上に向けた。記録を開く目だ。今夜この男は、一度も指を動かさずにいた。
「ケイ君。ひとつ確かめさせてください」
「言え」
「私がこの世界へ来て、それなりの年数になります。その分髪も薄くなり、目も悪くなりました」
眼鏡の縁を押し上げた。
「向こうで眠っている私の体も、同じだけ歳を取っているはずです。こちらの一年は、向こうでも一年ですから」
「ずれない、ということだな」
「ええ。私たちは、ずれません」
フウが両手を広げた。
「フウも、せがのびたよ。まえのふく、きれない」
誇らしげな声だった。今この部屋で、いちばん確かな証拠だった。
——皆は、来た日から一日ずつ積んでいる。
「俺は、ここへ来てまだ短い」
声に出して確かめた。
「なのに向こうでは、十七年が終わっている」
サトルの目が上がった。
「……ずれているのは、来てからの分ではない」
「来る前の分だ」
結論が半分だけ先に降りてきた。
「この体は、向こうの体を写したものじゃない。来た日の自分から始まって、そこから積んでいくだけだ」
「では、その始まりは何を写しているんです」
「自分だ。自分が覚えている、自分の姿」
サトルとジンが顔を見合わせた。
「皆は、眠らされた日の自分を覚えたまま来ている。だから始まりがずれない。俺は——十七年ぶん古い自分から始まった」
向こうの体は三十九。こちらの体は二十二から数え直して、まだいくらも経っていない。
同じ人間の年齢が、二つある。
サトルの喉が動いた。
「では——その十七年、あなたは」
「覚えていない」
「眠っておられたと」
「眠るなら、夢を見る」
息をひとつ吐いた。
「一日も見ていない。使われていたんだ。目を覚まさせる必要がなかったから、覚まさせなかった」
言ってから、もう一段だけ正確にした。
「休んでいたんじゃない。止まってもいない。十七年、一度も終わらずに動かされていた」
部屋の音が落ちた。
フウが膝を抱えたまま言った。
「けいのほんとのかお、だれもみてないの?」
誰も答えない。
「……見ていないな」
向こうの寝台に、三十九の体がある。俺の名前で、十七年ぶん働いてきた体だ。
——他人だ。
そう思ってしまった自分に、少し遅れて気がついた。
◆
ひとりずつ出ていって、最後にアリスが残った。
娘は椅子に座り直した。向こうの体へ戻る時刻まで、まだ少しある。
「お母さんは、三十八です」
机の向こうで、そう言った。
「数えました。お父さんの、ひとつ下です」
「……そうだな」
アリスが机に手を置いた。それから俺の手の横にそっと並べた。細い指だ。ペン胼胝はない。
「わたしの手も、ずれています」
「一年」
娘は自分の手のひらを見た。
「こちらのわたしは十六です。むこうのわたしは、暦の上ではもう十七になりました」
「一年で、これです」
声が少しだけ低くなった。
「十七年は、どれくらいですか」
答えなかった。
数えていたからだ。
娘が初めて声を出した日。立った日。歩いた日。自分の名前を書いた日。母親と同じ癖で笑うようになった日。
そのどれにも俺はいない。十六年ぶんの日付が、まるごとあの十七年の中にある。
勘定はすぐ終わった。数えるものが、ひとつも手元にないからだ。
「かぞえていますね」
顔を上げると、娘がこちらを見ていた。
「……ああ」
「やめてください、とは言いません」
アリスが手を引いた。膝の上で指を組んだ。
「かわりに、これから数えてください」
言葉を探した。見つからなかった。
代わりに、ずっと引っかかっていたものが浮かんだ。
「アリス」
「はい」
「向こうのお前は、暦の上で十七になったと言ったな」
「はい」
「その日、誰か何か言ったか」
娘が瞬きをした。
考えた。思い当たった。それから少しだけ目を伏せた。
「……いいえ」
管の音しかしない部屋で、その日は過ぎたのだろう。母親も知らない。本人も口には出さなかった。
声がすぐには出なかった。
「……おめでとう」
娘が顔を上げた。
「はい」
笑った。聖詔者の顔ではなかった。かといって、十六の子どもの顔でもなかった。その両方が半分ずつ混ざっていた。
「三十九だ」
初めて自分の口で言った。言ってしまえば、ただの数字だった。
「返してもらう気はない。返るものでもない」
娘が待っている。
「この先は、数える」
時間は、俺の上を流れていた。
俺が、流れていなかっただけだ。
♣
深夜の古い棟は、照明の半分が落ちている。
誰も使わなくなった監視端末の前に、キャロルは座っていた。ここへ来るまでに三度、足を止めて後ろを確かめた。処分を保留されている人間の歩き方だ。
画面に崩れた文字が並ぶ。
『おとうさんの としが わかりました』
『さんじゅうきゅう です』
そう、と胸の中で答えた。
驚くことではない。あの春から十七年経った。生きているなら三十九だ。その計算は毎年一度、勝手に頭の中でされてきた。
次の一行が来た。
『でも こちらの おとうさんは にじゅうにさいの すがたのままです』
指が止まった。
『じゅうしちねん いちども めが さめなかったそうです』
『そのあいだのことを おとうさんは ひとつも おぼえていません』
『でも からだは ずっと はたらいていました』
息を吸うのを忘れていた。
十七年、目が覚めなかった。ならそのあいだ何をしていたのかは、もう知っている。
あの人が世界中の鍵を作り続けている——娘の指越しにそう聞いたのは、つい先日だ。毎朝受け取っていた更新の一行ずつが、あの人の手から出ていた。知識としては知っていた。今夜、初めて手のひらに乗った。
あの人は休んでいたのではない。眠っていたのでもない。
眠るという状態すら、与えられていなかった。
十七年、終わらない仕事だけがあの人の全部だった。
——苦しかったか、と聞くこともできない。
苦しむ自分が、いなかったのだから。
二十二。
あの春のままの顔で、あの人はいまも立っている。研究室のドアを押さえて、先に出ろと顎で示したあの顔で。声も、たぶんそのままだ。
膝の上で手のひらを返した。荒れた手だ。娘の熱を測り、髪を梳いた手。ひとりぶんの弁当を十六年つくってきた手。
歳を取ったのは、こちらだけだった。
あの子は十六。あの人は二十二。母親だけが、三十八だ。
次に会う日、あの人はこの顔を見て何と思うだろう。
——泣くのは、あとでいい。
指を伸ばした。ひと文字ずつ打った。
『三十九は知っていた。そっちの顔のことは、聞いていない』
一度止めて、続けた。
『あなたは十七年、一度も休んでいないのね。眠ることさえ、させてもらえなかった』
『こっちは十七年ぶん働いたつもりだった。……足りないわね』
最後の一行は迷わなかった。
『だから——そのまま、待っていて』
送ってから画面の光を見ていた。
娘の返事が来るまでの数秒が、いつもより長かった。
♠
その夜、周の名のない頁に新しい行が四つ増えた。
一晩で四件。しかも系統をまたいでいる。死活確認だけではない。三件目は、区画の扉の開閉を記録する系統だった。偽の応答が本物として受理され、本物のほうが二重だと判定されて捨てられた。
最も長い一件は、四分十二秒。
そのあいだ、ひとつの区画が監視網から「存在しないもの」として扱われた。誰も異常には気づかない。網の上では、正常な静けさに見える。
周は頁の端に短く書いた。
誤差は、二度目から誤差でなくなる。通過は——一度目から、障害だ。
では、四度目は何と呼ぶ。
答えは書かなかった。書かなくても分かっていた。
四分十二秒のあいだにあの区画で何が起きていても、記録には一行も残らない。
台帳を閉じ、報告の書式を開いた。二十年で初めて、理由の書けない報告を書くことになる。
宛先の欄に指を置いた。
選ぶまでもない。この一件を上げられる相手は、ひとりしかいない。
消えた区画の名をもう一度確かめた。
寝台の並ぶ地下の区画だった。
あそこで誰かが息を止めても、四分十二秒のあいだはどこにも報せが上がらない。




