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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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Episode 76|決めた

【視点マークの読み方】

■=アリスの側

♠=施設を管理する側

♣=キャロル(アリスの母)の側



 その扉の向こうが、最後の舞台だった。

 扉が、開いた。

 冷気が先に来た。次に、匂いのない匂い。消毒と、機械と、眠りの匂い。

 キャロルは敷居を越えた。

 二度目だと、悟られてはいけない。それだけを胸に留めて、初めて見る者の足で歩いた。難しくはなかった。何度見ても、この部屋は初めてのように恐ろしい。

 並ぶ寝台。端の見えない列。低い、一定の律動。

 「こっちだ」

 マコトが先を歩く。迷いのない足取り。その背中を、憎まないように見た。憎しみは足に出る。

 寝台の前で、足が止まった。

 娘がいた。

 白い顔。閉じた目。管。

 膝から、力が抜けた。

 芝居のつもりだった。崩れる母を演じるつもりだった。演じる必要は、なかった。二度目でも、涙は勝手に来た。

 「アリス……」

 名前だけが、声になった。

 背中で、マコトの声がした。

 「触れるな。……頼む。管の一本にでも障れば、命に関わる」

 頷いた。頷きながら、床に膝をついた。寝台の縁に触れないぎりぎりの近さまで、顔を寄せる。娘の胸が、機械の拍で上下している。

 ——まだ。

 泣きながら、耳は通路の奥へ開いていた。

 まだ、来ない。あの低い音が。



 マコトは、一歩下がった場所から見ていた。

 泣き崩れる母。娘の名だけを繰り返す声。

 芝居だと、知っている。知っていて、目が離せなかった。芝居の器に注がれているものは、どう見ても本物だった。娘の前で、人はほんとうの顔しか出せない。

 ——これで、終わった。

 胸の奥が、静かに満ちていく。

 この涙を見せた相手は、私だけだ。この夜を知る者は、世界に私しかいない。彼女はもう、どこにも行けない。

 「……ねえ」

 キャロルが、振り向かずに言った。

 「誰かに見られたら。あなたが、罪に問われるんじゃないの」

 自分より、私の心配をする。マコトは、口元が緩むのを抑えなかった。

 静かな声で、教えた。

 「心配ない。この区画の目も耳も、全部私の端末にしか繋がっていない。何が見ていようと、見るのは私だけだ。……ここでは、何を言ってもいい」

 そうか、とキャロルの肩が小さく動いた。

 安堵に、見えた。



 通路の奥で、低い駆動音がした。

 来た。

 確かめたいことは、確かめてある。見るのは自分だけ——そう信じている男は、目を警戒しない。だから堂々と、灯りの下で言わせればいい。

 白い灯りが、列の端の寝台から順に撫でていく。近づいてくる。ゆっくりと。決まった速さで。

 キャロルは、立ち上がった。

 涙は、拭かなかった。これは武器だ。最後まで、濡れたままでいい。

 「ねえ、マコト」

 初めて、名を呼んだ。この一年、あなた、としか呼ばなかった名を。

 「わたし、知ってるの」

 「……何を」

 「ぜんぶ」

 振り向いた。濡れた目で、まっすぐに。

 「この子が生きてること。あなたに教えられる前から、知ってた。この部屋も。この寝台の並びも。それから——あなたの声も」

 マコトの顔から、表情が落ちた。

 「あの夜、この部屋で言ったでしょう。すまない、とは言わないよ。あの夜のことは、全部、私が決めた。事故も。君をここへ運んだことも。一つ残らず、筋書きどおりだ——」

 一語も、間違えなかった。一語も、錆びていなかった。この日のために、毎晩磨いてきた言葉だ。

 「どこで、それを」

 声が、掠れていた。答える代わりに、キャロルは隣の寝台へ目をやった。壁の側へ、顔を背けられる寝台へ。

 マコトの目が、見開かれた。

 思い出したのだ。あの夜の、一つ手前の寝台。壁へ顔を背けた影。機械と寸分違わぬ拍で上下していた、薄い胸。聞き違いかと、数瞬立ち止まった——

 「……あそこに、いたのか」

 「隣で、聞いてた。息を機械の拍に合わせて。心臓の音まで、殺して」

 白い灯りが、近づいてくる。

 「だからね、マコト。お願いはひとつだけ」

 一歩、踏み出した。机ひとつぶんよりも、近くへ。

 「もう一度、言って。わたしの目を見て。あの事故は、誰が決めたの」

 沈黙が、あった。

 マコトの顔に浮かんだものを、キャロルは見た。恐怖ではなかった。——安堵に、似ていた。十七年、仮面越しにしか向けられなかった目が、いま初めて、この男だけを見ている。

 マコトは、逃げなかった。それだけは、認めなくてはいけない。この男は最後まで、わたしの目から逃げなかった。

 低く、はっきりと、答えが来た。

 「——私だ。私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。全部、私が決めた」

 白い灯りが、二人を撫でた。

 マコトは、見もしなかった。



 ドローンが、来た。

 夜ごと寝台の列を巡る、小さな目。列に入った瞬間から、アリスは掴んでいた。決まった道を巡ろうとするその向きを掴んで曲げ、二人へ向ける。

 重い。思っていたより、ずっと。

 目は巡りたがる。決められた道へ戻りたがる。手綱を引くように、引き続ける。そのあいだも、自分の上には薄い帳。隠れたまま、掴んで、留める。

 体の芯が、細くなっていく。

 上から、声が落ちてくる。

 ——私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。

 落ちた。

 短い幅の真ん中に、いちばん重い言葉が。

 目を、離した。手綱が解け、小さな目は何事もなかったように巡回へ戻っていく。帳が、ほどけて消える。

 指の先まで、ほとんど何も残っていない。残したのは、この体に留まるための最後のひとつかみ。それだけは、渡さずに握っている。

 あの男の言葉と、母とあの男がこの部屋に立つ姿。ぜんぶ、会社の帳簿に渡った。

 これで、隠れ場所はなくなった。

 守ってきた盲点を、いま、自分の手で差し出した。

 怖さは、来なかった。来たのは、静かな確かさだけだった。

 アリスは、目を開けた。

 目覚めてから初めて、隠れずに。

 あの男を、見た。



 視線を、感じた。

 マコトは、寝台を見た。

 娘の目が、開いていた。

 涙のあとの残る母の顔と、同じ形の目。それが瞬きもせず、まっすぐにこちらを見上げている。

 眠る者たちは、何も聞かない。

 この部屋で、息をするより当たり前だったこと。その当たり前が、音もなく崩れていく。

 ——いつからだ。

 いつから聞いていた。あの夜もか。私がこの寝台の上で語った夜も。娘の目尻に光った、あの細い筋——気のせいだと、灯りの反射だと——

 泣いていたのだ。聞きながら。

 何を、聞かれた。数えかけて、やめた。数えられるはずがない。この目覚めを見つけた日が、始まりではなかった。始まりがどこかを、知る術がない。

 膝の奥が、冷えた。

 端末を、開いていた。ほとんど無意識だった。確かめなくてはならない。今夜のことは、私の端末の中で眠る。誰も見ない。誰にも届かない。そのはずの——

 指が、止まった。

 送りの痕が、あった。

 今夜、この列を巡った目の記録。私だけに届くはずの映像。それが一度だけ複製され、外へ出ている。

 宛先。施設の、正規の台帳。

 毎朝、周の部下がめくる帳簿。取り消しの権限は、私のどの鍵でもそこに届かない。

 明日の朝、誰かがこれを開く。部外者を連れてこの区画に立つ私が、映っている。言い逃れの利かない形で。

 「————」

 声が、出なかった。

 誰が。どうやって。この流れは私が付け替えた。私しか知らない。私しか触れない。外からは、誰も——

 痕を、辿った。

 分かれ道が、一本。使われた瞬間にだけ目を覚まし、一度だけ運んで、消えた道。その組み方を見た。

 無駄が、ひとつもなかった。静かで簡潔で——美しかった。

 見覚えなどという言葉では、足りない。

 十七年。毎日、この手癖の上で仕事をしてきた。世界中の通信が、この癖の上で動いている。動かしてきたのは、この私だ。

 外からでは、ない。

 「……内側からだ」

 口が、勝手に動いていた。

 檻の内側から手が伸び、私の穴の中に道を組んだ。

 組める者は、この世にひとりしかいない。

 「——ケイ」


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