Episode 76|決めた
【視点マークの読み方】
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
その扉の向こうが、最後の舞台だった。
扉が、開いた。
冷気が先に来た。次に、匂いのない匂い。消毒と、機械と、眠りの匂い。
キャロルは敷居を越えた。
二度目だと、悟られてはいけない。それだけを胸に留めて、初めて見る者の足で歩いた。難しくはなかった。何度見ても、この部屋は初めてのように恐ろしい。
並ぶ寝台。端の見えない列。低い、一定の律動。
「こっちだ」
マコトが先を歩く。迷いのない足取り。その背中を、憎まないように見た。憎しみは足に出る。
寝台の前で、足が止まった。
娘がいた。
白い顔。閉じた目。管。
膝から、力が抜けた。
芝居のつもりだった。崩れる母を演じるつもりだった。演じる必要は、なかった。二度目でも、涙は勝手に来た。
「アリス……」
名前だけが、声になった。
背中で、マコトの声がした。
「触れるな。……頼む。管の一本にでも障れば、命に関わる」
頷いた。頷きながら、床に膝をついた。寝台の縁に触れないぎりぎりの近さまで、顔を寄せる。娘の胸が、機械の拍で上下している。
——まだ。
泣きながら、耳は通路の奥へ開いていた。
まだ、来ない。あの低い音が。
♠
マコトは、一歩下がった場所から見ていた。
泣き崩れる母。娘の名だけを繰り返す声。
芝居だと、知っている。知っていて、目が離せなかった。芝居の器に注がれているものは、どう見ても本物だった。娘の前で、人はほんとうの顔しか出せない。
——これで、終わった。
胸の奥が、静かに満ちていく。
この涙を見せた相手は、私だけだ。この夜を知る者は、世界に私しかいない。彼女はもう、どこにも行けない。
「……ねえ」
キャロルが、振り向かずに言った。
「誰かに見られたら。あなたが、罪に問われるんじゃないの」
自分より、私の心配をする。マコトは、口元が緩むのを抑えなかった。
静かな声で、教えた。
「心配ない。この区画の目も耳も、全部私の端末にしか繋がっていない。何が見ていようと、見るのは私だけだ。……ここでは、何を言ってもいい」
そうか、とキャロルの肩が小さく動いた。
安堵に、見えた。
♣
通路の奥で、低い駆動音がした。
来た。
確かめたいことは、確かめてある。見るのは自分だけ——そう信じている男は、目を警戒しない。だから堂々と、灯りの下で言わせればいい。
白い灯りが、列の端の寝台から順に撫でていく。近づいてくる。ゆっくりと。決まった速さで。
キャロルは、立ち上がった。
涙は、拭かなかった。これは武器だ。最後まで、濡れたままでいい。
「ねえ、マコト」
初めて、名を呼んだ。この一年、あなた、としか呼ばなかった名を。
「わたし、知ってるの」
「……何を」
「ぜんぶ」
振り向いた。濡れた目で、まっすぐに。
「この子が生きてること。あなたに教えられる前から、知ってた。この部屋も。この寝台の並びも。それから——あなたの声も」
マコトの顔から、表情が落ちた。
「あの夜、この部屋で言ったでしょう。すまない、とは言わないよ。あの夜のことは、全部、私が決めた。事故も。君をここへ運んだことも。一つ残らず、筋書きどおりだ——」
一語も、間違えなかった。一語も、錆びていなかった。この日のために、毎晩磨いてきた言葉だ。
「どこで、それを」
声が、掠れていた。答える代わりに、キャロルは隣の寝台へ目をやった。壁の側へ、顔を背けられる寝台へ。
マコトの目が、見開かれた。
思い出したのだ。あの夜の、一つ手前の寝台。壁へ顔を背けた影。機械と寸分違わぬ拍で上下していた、薄い胸。聞き違いかと、数瞬立ち止まった——
「……あそこに、いたのか」
「隣で、聞いてた。息を機械の拍に合わせて。心臓の音まで、殺して」
白い灯りが、近づいてくる。
「だからね、マコト。お願いはひとつだけ」
一歩、踏み出した。机ひとつぶんよりも、近くへ。
「もう一度、言って。わたしの目を見て。あの事故は、誰が決めたの」
沈黙が、あった。
マコトの顔に浮かんだものを、キャロルは見た。恐怖ではなかった。——安堵に、似ていた。十七年、仮面越しにしか向けられなかった目が、いま初めて、この男だけを見ている。
マコトは、逃げなかった。それだけは、認めなくてはいけない。この男は最後まで、わたしの目から逃げなかった。
低く、はっきりと、答えが来た。
「——私だ。私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。全部、私が決めた」
白い灯りが、二人を撫でた。
マコトは、見もしなかった。
■
ドローンが、来た。
夜ごと寝台の列を巡る、小さな目。列に入った瞬間から、アリスは掴んでいた。決まった道を巡ろうとするその向きを掴んで曲げ、二人へ向ける。
重い。思っていたより、ずっと。
目は巡りたがる。決められた道へ戻りたがる。手綱を引くように、引き続ける。そのあいだも、自分の上には薄い帳。隠れたまま、掴んで、留める。
体の芯が、細くなっていく。
上から、声が落ちてくる。
——私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。
落ちた。
短い幅の真ん中に、いちばん重い言葉が。
目を、離した。手綱が解け、小さな目は何事もなかったように巡回へ戻っていく。帳が、ほどけて消える。
指の先まで、ほとんど何も残っていない。残したのは、この体に留まるための最後のひとつかみ。それだけは、渡さずに握っている。
あの男の言葉と、母とあの男がこの部屋に立つ姿。ぜんぶ、会社の帳簿に渡った。
これで、隠れ場所はなくなった。
守ってきた盲点を、いま、自分の手で差し出した。
怖さは、来なかった。来たのは、静かな確かさだけだった。
アリスは、目を開けた。
目覚めてから初めて、隠れずに。
あの男を、見た。
♠
視線を、感じた。
マコトは、寝台を見た。
娘の目が、開いていた。
涙のあとの残る母の顔と、同じ形の目。それが瞬きもせず、まっすぐにこちらを見上げている。
眠る者たちは、何も聞かない。
この部屋で、息をするより当たり前だったこと。その当たり前が、音もなく崩れていく。
——いつからだ。
いつから聞いていた。あの夜もか。私がこの寝台の上で語った夜も。娘の目尻に光った、あの細い筋——気のせいだと、灯りの反射だと——
泣いていたのだ。聞きながら。
何を、聞かれた。数えかけて、やめた。数えられるはずがない。この目覚めを見つけた日が、始まりではなかった。始まりがどこかを、知る術がない。
膝の奥が、冷えた。
端末を、開いていた。ほとんど無意識だった。確かめなくてはならない。今夜のことは、私の端末の中で眠る。誰も見ない。誰にも届かない。そのはずの——
指が、止まった。
送りの痕が、あった。
今夜、この列を巡った目の記録。私だけに届くはずの映像。それが一度だけ複製され、外へ出ている。
宛先。施設の、正規の台帳。
毎朝、周の部下がめくる帳簿。取り消しの権限は、私のどの鍵でもそこに届かない。
明日の朝、誰かがこれを開く。部外者を連れてこの区画に立つ私が、映っている。言い逃れの利かない形で。
「————」
声が、出なかった。
誰が。どうやって。この流れは私が付け替えた。私しか知らない。私しか触れない。外からは、誰も——
痕を、辿った。
分かれ道が、一本。使われた瞬間にだけ目を覚まし、一度だけ運んで、消えた道。その組み方を見た。
無駄が、ひとつもなかった。静かで簡潔で——美しかった。
見覚えなどという言葉では、足りない。
十七年。毎日、この手癖の上で仕事をしてきた。世界中の通信が、この癖の上で動いている。動かしてきたのは、この私だ。
外からでは、ない。
「……内側からだ」
口が、勝手に動いていた。
檻の内側から手が伸び、私の穴の中に道を組んだ。
組める者は、この世にひとりしかいない。
「——ケイ」




