Episode 77|私物化
【視点マークの読み方】
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
娘の目は、開いたままだった。
管も電極も、そのまま。声もない。それでも目だけが、まっすぐに母を見ていた。
——終わったよ。
そう聞こえた。声のない声が。
キャロルは頷いた。新しい涙は来なかった。代わりに、腹の底が静かに定まった。
背後で、マコトは動かない。
開いた端末を見つめたまま、立っている。入ってきたときと同じ男には見えなかった。何を見ているのか。訊く気はない。
「……送ろう」
長い沈黙の底から、それだけが落ちてきた。声から、何かが抜けていた。
帰りの通路は、来たときと同じ長さのはずだった。倍に感じた。隣を歩く男は一度も口を開かず、一度もこちらを見なかった。
地上へ出る扉の前で、キャロルは一度だけ振り返った。
暗がりの下に、娘がいる。開いた目のまま。もう、隠れないまま。
撃ち終えたのだ。あの子は、自分の番を。
三本目の道——記録を会社の帳簿へ運ぶ、ケイの枝。それが通ったのかどうか、確かめる術はまだない。分かっているのはひとつだけ。娘の目が、閉じなかった。
もし道が通っていれば、記録はいま会社の帳簿の上にある。朝いちばんに、向こうの目に触れる。
夜道を歩いた。泣かなかった。
泣くのは、あの部屋での仕事だ。
♠
周の朝は、台帳から始まる。
部下がめくるより先に、自分の目で通す。二十年の習慣だった。
その朝は、開く前から異常が浮き上がっていた。深夜帯の自動区分に、要確認の札がひとつ。発生元は、あの区画だった。
外を洗った。内を洗った。次は上だと決めていた。
洗うまでもなかった。答えのほうから、台帳に載って届いた。
映像を開いた。
白い灯りが、寝台の列を順に撫でていく。その目が途中で道を外れ、二つの人影に留まった。
男と、女。
男は、知っている。女の顔は端末が照合した。暗号部門の技師。
音声を上げた。
『——私だ。私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。全部、私が決めた』
周は、二度聞いた。一度目は内容のために。二度目は、扱いを決めるために。
事故。搬入。どちらも古い決裁簿にある。承認の通った業務だ。誰が決めたと男が名乗ろうと、帳簿の上では罪にならない。
罪は、別の行にあった。
『心配ない。この区画の目も耳も、全部私の端末にしか繋がっていない。何が見ていようと、見るのは私だけだ』
再生を止めた。この一言で、足りる。
女の声も入っていた。知っている、ぜんぶ、と。漏洩は昨夜が最初ではない。行がまたひとつ増えた。
区画の宛先を洗わせると、この数日の報せはすべてマコトの端末ひとつに流れ込んでいた。差し押さえた端末の中に、報告のない映像が眠っていた。
寝台の上で、目を開けている被験体。
前例のない異常。発見されたのは何日も前。報告は、どこにもなかった。
ひとつだけ、埋まらない欄が残った。宛先をすべて奪われた区画から、なぜこの一件だけが正規の台帳へ届いたのか。洗わせたが、道は出てこなかった。付け替えの綻びでしょう、と部下は言った。
周は、その欄を空白のまま残した。埋まらない欄を勝手に埋めるのは、素人のすることだ。
立ち上がった。怒りはなかった。あるのは費用の感覚だけだった。
この穴は、いくらで塞がる。
♠
マコトは、自分の机にいた。
逃げてはいない。眠ってもいない。夜明け前に一度だけ立ってコーヒーを淹れ、飲まずに冷ました。
権限が死んだのは、八時十三分だった。端末がすべての扉を閉じ、ただの黒い板になった。それで分かった。台帳は、開かれた。
ノックはなかった。
周が入ってきた。後ろに、顔を知らない男が二人。
「おはよう」
我ながら、静かな声だった。
周は挨拶を返さなかった。端末も見ずに、立ったまま数え始めた。数字は全部、頭に入っている。昔からそういう男だ。
「区画の監視宛先の無断変更。被験体の重大異常の未報告。部外者の機密区画への引き入れ。機密事項の漏洩。——まだ続けられるが」
「いい。全部、事実だ」
言い逃れは、夜のうちに捨てた。あの道の組み方を見た瞬間に。
言っていないことが、二つある。
あれが罠だったこと。あの道を組んだ手が、誰のものかということ。
どちらも言えば、この負けの形は少し変わるだろう。言わない。守っているのか詫びているのか、自分でも分からない。
周が、初めてまっすぐ目を合わせた。
「ひとつ聞きたい。動機の欄が空白では、報告が閉じない」
マコトは、一拍おいて答えた。十七年をひとつの言葉に量り直すのに、それだけかかった。
「愛だよ」
周は瞬きをひとつして、それ以上は問わなかった。
「では、罪状をひとつにまとめる」
息を吸う音もなく、それは来た。
「君は、リソースを私物化した」
それが、すべてだった。
娘を奪ったこと。母を騙したこと。親友を眠らせたこと。そのどれでもなく——帳簿の行が、乱れたこと。
笑いは出なかった。代わりに、深いところで何かが腑に落ちた。この会社で犯せる罪は、最初からこれひとつしかなかったのだ。
周が端末を机に置いた。
通話は、すでに開いていた。いつからかは分からない。
「お聞きのとおりです」
応えは、すぐには来なかった。回線の向こうで、乾いた息の音がした。
マコトは、背筋を伸ばした。十七年仕えて、この声を聞いた回数は片手で足りる。
「——彼を外せ。記録は伏せろ」
静かな声だった。
「昨夜の記録は台帳から抜き、金庫の階層へ移せ。閲覧の鍵は、私だけが持つ」
消すのではない。沈めるのだ。キャロルが命懸けで表に引き出した言葉は、誰の目も届かない底で、会社の持ち物になる。
周が訊いた。
「被験体の処置は。目を開けた個体です。前例がありません」
「認証は止まっているのか」
「一度も」
「なら、触るな」
乾いた声が、理由を足した。
「あの個体の証明が、ケイの式を認証している。対で、ひとつだ。片方に触れて認証が乱れれば、世界の通信ごと止まる。動いているものに触るのは、素人のすることだ」
それだけだった。娘の覚醒は、それだけで処理された。医療でも倫理でもなく、稼働の一語で。
娘が生かされる理由は、父と対で動いていることだった。それを誰より早く見抜いたのは、この私だ。その私が、いま切られている。
「引き入れられた女の処分は」
「触るな。……今は」
短い沈黙のあと、声が続けた。
「人はいくらでも替えが利く。……あれも、そうだった」
私のことだ、とマコトは思った。名前は、呼ばれなかった。
どこかで聞いた構文だった。思い出すのに、時間はかからなかった。
——お前の式は要る。お前自身は要らない。
十七年前、眠った親友に向かって言った言葉だ。同じ形のまま十七年かけて回ってきて、いま胸に刺さった。
「だが、ケイだけは替えが利かない。あれは——最高傑作だ」
声に、初めて温度が乗った。
「外せるものを外せ。外せないものには、指一本触れさせるな」
通話が切れた。
男たちが、両脇に立った。
マコトは立ち上がり、上着を取った。持って出る物は何もない。十七年がこの部屋にあり、その全部が会社の物だった。
扉の前で、一度だけ振り返った。
黒い板になった端末。あの画面の向こうで十七年、ケイの式が回り続けていた。世界でいちばん美しい仕事を、毎朝誰よりも先に見てきた。
「……見事だったよ」
周が、わずかに眉を動かした。誰に向けた言葉か、分からなかったのだろう。それでいい。分かる者はこの部屋にいない。
「外せ、と言われた。私は、外される」
黒い画面に向かって、言った。
「だが——お前だけは、外せない。世界中の通信が、お前で動いている。私はお前を、世界の心臓にした」
誇りか詫びか、それとも呪いか。言った本人にも、分からなかった。
マコトは、部屋を出た。
♠
周は、残った仕事を順に片づけた。
区画の宛先を正規へ戻す。端末の中身を金庫へ移す。被験体の行をリスク台帳へ書き加える。目を開けた個体。認証は正常。稼働に支障なし。継続監視。
最後に、昨夜の映像がもう一度流れた。
白い灯りの下で、男が言う。私が決めた、と。
この音声が外で流れれば、会社は一晩ともたない。だから金庫へ沈む。上が許す限り、二度と浮かばない。
言葉を殺すのではない。閉じ込めるだけだ。帳簿は、そういうふうにできている。
台帳にはふたつ、空白が残った。道の欄と、動機の欄。どちらも、埋めずに閉じる。
周は台帳を閉じかけて、指を止めた。
ひとりの男に、ひとつの区画の目と耳を全部預けていた。今回の穴の、いちばん深い底はそこだ。
——ひとりに全部を預ける設計は、いつか必ず一度、躓く。
報告書に書きかけて、消した。設計への疑念は、運用者の仕事ではない。
消した一行は、しかし消えなかった。
閉じた台帳。ふたつの空白。その下で、一行だけが静かに脈を打ち続けた。




