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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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77/87

Episode 77|私物化

【視点マークの読み方】

♠=施設を管理する側

♣=キャロル(アリスの母)の側



 娘の目は、開いたままだった。

 管も電極も、そのまま。声もない。それでも目だけが、まっすぐに母を見ていた。

 ——終わったよ。

 そう聞こえた。声のない声が。

 キャロルは頷いた。新しい涙は来なかった。代わりに、腹の底が静かに定まった。

 背後で、マコトは動かない。

 開いた端末を見つめたまま、立っている。入ってきたときと同じ男には見えなかった。何を見ているのか。訊く気はない。

 「……送ろう」

 長い沈黙の底から、それだけが落ちてきた。声から、何かが抜けていた。

 帰りの通路は、来たときと同じ長さのはずだった。倍に感じた。隣を歩く男は一度も口を開かず、一度もこちらを見なかった。

 地上へ出る扉の前で、キャロルは一度だけ振り返った。

 暗がりの下に、娘がいる。開いた目のまま。もう、隠れないまま。

 撃ち終えたのだ。あの子は、自分の番を。

 三本目の道——記録を会社の帳簿へ運ぶ、ケイの枝。それが通ったのかどうか、確かめる術はまだない。分かっているのはひとつだけ。娘の目が、閉じなかった。

 もし道が通っていれば、記録はいま会社の帳簿の上にある。朝いちばんに、向こうの目に触れる。

 夜道を歩いた。泣かなかった。

 泣くのは、あの部屋での仕事だ。



 周の朝は、台帳から始まる。

 部下がめくるより先に、自分の目で通す。二十年の習慣だった。

 その朝は、開く前から異常が浮き上がっていた。深夜帯の自動区分に、要確認の札がひとつ。発生元は、あの区画だった。

 外を洗った。内を洗った。次は上だと決めていた。

 洗うまでもなかった。答えのほうから、台帳に載って届いた。

 映像を開いた。

 白い灯りが、寝台の列を順に撫でていく。その目が途中で道を外れ、二つの人影に留まった。

 男と、女。

 男は、知っている。女の顔は端末が照合した。暗号部門の技師。

 音声を上げた。

 『——私だ。私が決めた。事故も。この場所へ運んだことも。全部、私が決めた』

 周は、二度聞いた。一度目は内容のために。二度目は、扱いを決めるために。

 事故。搬入。どちらも古い決裁簿にある。承認の通った業務だ。誰が決めたと男が名乗ろうと、帳簿の上では罪にならない。

 罪は、別の行にあった。

 『心配ない。この区画の目も耳も、全部私の端末にしか繋がっていない。何が見ていようと、見るのは私だけだ』

 再生を止めた。この一言で、足りる。

 女の声も入っていた。知っている、ぜんぶ、と。漏洩は昨夜が最初ではない。行がまたひとつ増えた。

 区画の宛先を洗わせると、この数日の報せはすべてマコトの端末ひとつに流れ込んでいた。差し押さえた端末の中に、報告のない映像が眠っていた。

 寝台の上で、目を開けている被験体。

 前例のない異常。発見されたのは何日も前。報告は、どこにもなかった。

 ひとつだけ、埋まらない欄が残った。宛先をすべて奪われた区画から、なぜこの一件だけが正規の台帳へ届いたのか。洗わせたが、道は出てこなかった。付け替えの綻びでしょう、と部下は言った。

 周は、その欄を空白のまま残した。埋まらない欄を勝手に埋めるのは、素人のすることだ。

 立ち上がった。怒りはなかった。あるのは費用の感覚だけだった。

 この穴は、いくらで塞がる。



 マコトは、自分の机にいた。

 逃げてはいない。眠ってもいない。夜明け前に一度だけ立ってコーヒーを淹れ、飲まずに冷ました。

 権限が死んだのは、八時十三分だった。端末がすべての扉を閉じ、ただの黒い板になった。それで分かった。台帳は、開かれた。

 ノックはなかった。

 周が入ってきた。後ろに、顔を知らない男が二人。

 「おはよう」

 我ながら、静かな声だった。

 周は挨拶を返さなかった。端末も見ずに、立ったまま数え始めた。数字は全部、頭に入っている。昔からそういう男だ。

 「区画の監視宛先の無断変更。被験体の重大異常の未報告。部外者の機密区画への引き入れ。機密事項の漏洩。——まだ続けられるが」

 「いい。全部、事実だ」

 言い逃れは、夜のうちに捨てた。あの道の組み方を見た瞬間に。

 言っていないことが、二つある。

 あれが罠だったこと。あの道を組んだ手が、誰のものかということ。

 どちらも言えば、この負けの形は少し変わるだろう。言わない。守っているのか詫びているのか、自分でも分からない。

 周が、初めてまっすぐ目を合わせた。

 「ひとつ聞きたい。動機の欄が空白では、報告が閉じない」

 マコトは、一拍おいて答えた。十七年をひとつの言葉に量り直すのに、それだけかかった。

 「愛だよ」

 周は瞬きをひとつして、それ以上は問わなかった。

 「では、罪状をひとつにまとめる」

 息を吸う音もなく、それは来た。

 「君は、リソースを私物化した」

 それが、すべてだった。

 娘を奪ったこと。母を騙したこと。親友を眠らせたこと。そのどれでもなく——帳簿の行が、乱れたこと。

 笑いは出なかった。代わりに、深いところで何かが腑に落ちた。この会社で犯せる罪は、最初からこれひとつしかなかったのだ。

 周が端末を机に置いた。

 通話は、すでに開いていた。いつからかは分からない。

 「お聞きのとおりです」

 応えは、すぐには来なかった。回線の向こうで、乾いた息の音がした。

 マコトは、背筋を伸ばした。十七年仕えて、この声を聞いた回数は片手で足りる。

 「——彼を外せ。記録は伏せろ」

 静かな声だった。

 「昨夜の記録は台帳から抜き、金庫の階層へ移せ。閲覧の鍵は、私だけが持つ」

 消すのではない。沈めるのだ。キャロルが命懸けで表に引き出した言葉は、誰の目も届かない底で、会社の持ち物になる。

 周が訊いた。

 「被験体の処置は。目を開けた個体です。前例がありません」

 「認証は止まっているのか」

 「一度も」

 「なら、触るな」

 乾いた声が、理由を足した。

 「あの個体の証明が、ケイの式を認証している。対で、ひとつだ。片方に触れて認証が乱れれば、世界の通信ごと止まる。動いているものに触るのは、素人のすることだ」

 それだけだった。娘の覚醒は、それだけで処理された。医療でも倫理でもなく、稼働の一語で。

 娘が生かされる理由は、父と対で動いていることだった。それを誰より早く見抜いたのは、この私だ。その私が、いま切られている。

 「引き入れられた女の処分は」

 「触るな。……今は」

 短い沈黙のあと、声が続けた。

 「人はいくらでも替えが利く。……あれも、そうだった」

 私のことだ、とマコトは思った。名前は、呼ばれなかった。

 どこかで聞いた構文だった。思い出すのに、時間はかからなかった。

 ——お前の式は要る。お前自身は要らない。

 十七年前、眠った親友に向かって言った言葉だ。同じ形のまま十七年かけて回ってきて、いま胸に刺さった。

 「だが、ケイだけは替えが利かない。あれは——最高傑作だ」

 声に、初めて温度が乗った。

 「外せるものを外せ。外せないものには、指一本触れさせるな」

 通話が切れた。

 男たちが、両脇に立った。

 マコトは立ち上がり、上着を取った。持って出る物は何もない。十七年がこの部屋にあり、その全部が会社の物だった。

 扉の前で、一度だけ振り返った。

 黒い板になった端末。あの画面の向こうで十七年、ケイの式が回り続けていた。世界でいちばん美しい仕事を、毎朝誰よりも先に見てきた。

 「……見事だったよ」

 周が、わずかに眉を動かした。誰に向けた言葉か、分からなかったのだろう。それでいい。分かる者はこの部屋にいない。

 「外せ、と言われた。私は、外される」

 黒い画面に向かって、言った。

 「だが——お前だけは、外せない。世界中の通信が、お前で動いている。私はお前を、世界の心臓にした」

 誇りか詫びか、それとも呪いか。言った本人にも、分からなかった。

 マコトは、部屋を出た。



 周は、残った仕事を順に片づけた。

 区画の宛先を正規へ戻す。端末の中身を金庫へ移す。被験体の行をリスク台帳へ書き加える。目を開けた個体。認証は正常。稼働に支障なし。継続監視。

 最後に、昨夜の映像がもう一度流れた。

 白い灯りの下で、男が言う。私が決めた、と。

 この音声が外で流れれば、会社は一晩ともたない。だから金庫へ沈む。上が許す限り、二度と浮かばない。

 言葉を殺すのではない。閉じ込めるだけだ。帳簿は、そういうふうにできている。

 台帳にはふたつ、空白が残った。道の欄と、動機の欄。どちらも、埋めずに閉じる。

 周は台帳を閉じかけて、指を止めた。

 ひとりの男に、ひとつの区画の目と耳を全部預けていた。今回の穴の、いちばん深い底はそこだ。

 ——ひとりに全部を預ける設計は、いつか必ず一度、躓く。

 報告書に書きかけて、消した。設計への疑念は、運用者の仕事ではない。

 消した一行は、しかし消えなかった。

 閉じた台帳。ふたつの空白。その下で、一行だけが静かに脈を打ち続けた。


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