Episode 75|道を作る
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
その扉を、今朝は自分から叩きに行く。
朝いちばんの廊下は冷たかった。キャロルは歩幅を変えずに歩いた。昨夜ひとりで試した声を、胸の内で一度だけ確かめる。震えなかった声。人前でも震えさせない。
執務室の扉を叩いた。
「入ってくれ」
マコトが端末から顔を上げた。驚いた顔は、作らなかった。
「早いな」
「眠れなかったの」
嘘ではない。嘘ではないことから話しはじめるのは、この部屋で覚えた作法だ。
勧められた椅子には座らなかった。机ひとつぶんの距離に立ったまま、あの人の目を見た。
「お願いがあって来た」
「聞こう」
「会わせて」
部屋が、静かになった。
「あの子が生きているなら。重くて、外に出せないなら、わたしが行く。近づかなくていい。離れたところからでいい。息をしているのがこの目で分かれば、それでいい」
用意した言葉は、そこまでだった。その先は用意がいらなかった。声が勝手に本物になっていく。
マコトはすぐに答えなかった。目を伏せて指を組んだ。悼むときと同じ形。
「……危険がある。前にも言った。外から人が入れば、あの子の命に関わる」
「道はあなたが作れると言った」
「言った」
「なら、作って」
沈黙は、思っていたより短かった。
「——いいだろう」
キャロルは、まばたきを一つぶん遅らせた。
早い。
何日も粘るつもりで来た。泣いて、縋って、駄目ならまた通って。そういう坂を上る覚悟で来た。坂は、なかった。
「今夜だ」
マコトが立ち上がり、窓の外へ目をやった。
「遅い時刻に、私が迎えに行く。誰にも言うな。何も持つな。端末も時計も置いてこい。……いいね」
「わかった」
声は震えなかった。
部屋を出た。扉が閉まって三歩進んだところで、指先が冷えているのに気づいた。
——早すぎる。
押すつもりだった扉が、触れる前に開いた。向こう側にも、開けたい誰かがいたということだ。
理由は見えない。見えないまま、今夜が来る。
♠
扉が閉まった。
マコトは椅子に戻らず、しばらく立っていた。
完璧な頼みだった。
与えた筋書きの上を、一歩も踏み外さない。生きていると告げられ、会えないと言われ、それでも母だから一目だけ——そういう役の、完璧な頼み。
知っているくせに。
声にせずに、そう言ってみる。お前はもう一度、自分の足で降りているくせに。
毒は、湧かなかった。代わりに来たのは静かな満足だった。
知っていて、私の前では知らない顔をする。私の筋書きの中でだけ頼り、縋り、私を見る。あの芝居の中でだけ、十七年で初めて、彼女の目がこちらを向く。
——偶然にしては、拍が合いすぎている。
観察の側が、低く言う。先に終わらせると決めた夜が明けた、その朝の頼み。測ったような。裏で誰かが拍を数えているような。
願いが叶っただけだ、と別の側が言う。
十七年、後者が勝ったことは一度もない。
今日、初めて勝たせた。
端末に、地下の波形を映す。静かな線。目覚めていることを私だけが知っている娘。
いずれ周の監査がここに届く。穴は隠せても、開けた事実は隠せない。分かっている。届けば、あの区画は上のものになる。娘も、上のものになる。
扉は、私でなくなる。
だから、先に終わらせる。持っているうちに、この扉を使う。
会わせれば、彼女は共犯になる。娘が生きていると知りながら、誰にも言えない母になる。言えば、娘に累が及ぶ。今夜を分け合える相手は、世界で私ひとりになる。区画は取り上げられても、この夜だけは誰にも取り上げられない。
娘の息を見た母親は、もう二度とこの扉から離れられない。生かすのも会わせるのも黙らせるのも、全部この私を通る。
——道は今朝から、この部屋を通っている。
今夜からは、永遠に。
今夜彼女を連れて降りても、露見の危険は増えない。あの区画の目は、もう全部この端末にしか流れない。何が映ろうと、見る者は私しかいない。増えるのは部外者ひとりぶんの通行の痕だけ。それは私の権限の陰に畳める。
この会社でいちばん重い禁を、指一本で越える。
権限の層を、一枚ずつ剥がしていく。
彼女が私を見るのは芝居の中だけだ。
なら、舞台ごと本物にしてやる。
◆
昼のあいだに、母の言葉が届いていた。
今夜。手ぶらで。誰にも言うな。
ケイは、道の仕上げにかかった。作り損ねれば、今夜の全部が沈む一本だ。
あの区画の目——夜ごと寝台の列を巡るドローンが見たものは、いまは全部あの男の端末にしか届かない。宛先を全部、自分に付け替えたからだ。今夜あの目が何を映しても、あの男の手の中でなかったことにされて終わる。それでは記録は死ぬ。
だから、分かれ道を作る。映像の流れの途中に細い枝を一本。行き先は施設の正規の台帳。あの会社が、自分で自分を検分するための帳簿だ。
枝は今夜まで眠らせておく。目が向けられた瞬間にだけ目を覚まし、一度だけ運んで消える。早く見つかれば、そこで終わる。幸い、あの男は自分の端末を疑わない。自分で開けた穴の中を覗く者はいないと思っている。
——宛先を付け替えたのはお前だ。もう一度付け替えられても、文句は言えないはずだ。
手を止めて、数える。
母の舞台。娘の目。この枝。
三本の道が、今夜ひとつの部屋で交わる。どれか一本が欠ければ、残りの二本は罠に変わる。舞台が崩れれば、母は地下で敵と二人きりになる。目が外れれば、娘は最後の力をただ捨てる。枝が見つかれば、こちらの存在ごと敵に知れる。
数えられるものは、数え終えた。
あとは、数えられないものだけだ。
■
糸を、細くしてある。
アリスは、暗い天井を見ていた。声のやり取りは今日、最小限まで落とした。父の声も母の文字も、いまは遠い。
残しておくためだ。帳と、向けるための力。あと一度分しかないものを、今夜の一点に置くために。
握った指の感触は、昨日よりさらに薄い。だから今日は、なるべく何もしない。呼吸を数えて、ただ待つ。
覚めてからいちばん静かな夜になるはずだった。静かなぶんだけ、遠くの音がよく聞こえた。
——『まっていて』。
いつか、母にそう残した。理由を言えないまま黙って、母はそれでも待ってくれた。
——今夜は、わたしが待つ番だ。
母が敵の隣を歩く。糸は細く、様子は届かず、祈ることしかできないまま。あのときの母は、こんな夜をひとりで越えたのか。
瞼の裏で、手順を一度だけなぞる。
母があの男に、いちばん重い言葉を言わせる。その瞬間、巡ってくる小さな目を掴む。逸らすのではなく、あの男へ向けて——言葉が終わるまで、離さない。
逸らすのは、軽い。通り過ぎる目を薄い帳でひと撫でするだけ。だから毎晩できた。
向けるのは、違う。決められた道を巡る目の向きを掴んで、巡回に逆らって留め続ける。そのあいだも、わたし自身には帳を掛けたままにする。目が覚めているわたしが映れば、記録の主役はあの男の罪ではなくわたしになる。
隠れたまま、掴んで、留める。帳と、向ける手。二つを同時に張る力は、あと一度分しかない。
目がこの列にいる時間は長くない。その短い幅に、あの言葉が落ちてくれるかどうか。
向ければ、記録が残る。記録は人を呼び、来た人はいつか、帳の下のわたしに辿り着く。
一度きり。当たっても、外れても、隠れ場所は消える。
怖い、と思った。思ってから、それでいいと思い直す。怖くない賭けなら、母を歩かせる理由にならない。
廊下の遠くで、低い駆動音がした。夜の目が、今夜も巡りはじめる。
——今夜は、こっちを見て。
声にならない声で、そう言った。
♣
夜が来た。
退勤の時刻が過ぎ、フロアから足音が消えていく。キャロルはひとり残って、机の上を片づけた。
端末を引き出しにしまう。時計を外す。鍵も置く。持たされてきたものを一つずつ外すたび、体が軽くなった。軽さは、崖のふちの軽さに似ていた。
昼のうちに、別室の端末から娘へ短い報せだけを送ってある。今夜、そちらへ行く。舞台は今夜、開く。返ってきた文字は崩れて、短かった。
『きをつけて。——みてます。みんなで』
みんなで、の四文字をキャロルは胸の内で折り畳んだ。ひとりで歩く夜ではない。
廊下に、足音がひとつ。
「……行こうか」
マコトが立っていた。昼と同じ顔で。目の奥だけが、昼と違って見えた。
並んで歩いた。人のいない廊下ばかりを、あの人は選んで歩いた。その迷いのなさは、何度もこうして歩いてきた人のものだった。
階段を降りる。空気が変わる。冷気と、機械の低いうなり。
マコトが言った。
「ここから先は——私しか、通れない」
その通りなのだろう。この人はずっと、この扉そのものになろうとしてきた。娘への道の、最後の一枚に。
認証の台に、あの人の手が置かれる。
一歩後ろで、キャロルはそれを見ていた。
——知っている。
この先の廊下も。寝台の並びも。管の白さも。あなたの声が、眠る娘の枕元で何を言ったのかも。
知らない顔の下に全部をしまって、開く扉を待った。
重い錠の外れる音が、扉の奥で動きはじめた。




