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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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Episode 75|道を作る

【視点マークの読み方】

◆=ケイたちのいる世界

■=アリスの側

♠=施設を管理する側

♣=キャロル(アリスの母)の側



 その扉を、今朝は自分から叩きに行く。

 朝いちばんの廊下は冷たかった。キャロルは歩幅を変えずに歩いた。昨夜ひとりで試した声を、胸の内で一度だけ確かめる。震えなかった声。人前でも震えさせない。

 執務室の扉を叩いた。

 「入ってくれ」

 マコトが端末から顔を上げた。驚いた顔は、作らなかった。

 「早いな」

 「眠れなかったの」

 嘘ではない。嘘ではないことから話しはじめるのは、この部屋で覚えた作法だ。

 勧められた椅子には座らなかった。机ひとつぶんの距離に立ったまま、あの人の目を見た。

 「お願いがあって来た」

 「聞こう」

 「会わせて」

 部屋が、静かになった。

 「あの子が生きているなら。重くて、外に出せないなら、わたしが行く。近づかなくていい。離れたところからでいい。息をしているのがこの目で分かれば、それでいい」

 用意した言葉は、そこまでだった。その先は用意がいらなかった。声が勝手に本物になっていく。

 マコトはすぐに答えなかった。目を伏せて指を組んだ。悼むときと同じ形。

 「……危険がある。前にも言った。外から人が入れば、あの子の命に関わる」

 「道はあなたが作れると言った」

 「言った」

 「なら、作って」

 沈黙は、思っていたより短かった。

 「——いいだろう」

 キャロルは、まばたきを一つぶん遅らせた。

 早い。

 何日も粘るつもりで来た。泣いて、縋って、駄目ならまた通って。そういう坂を上る覚悟で来た。坂は、なかった。

 「今夜だ」

 マコトが立ち上がり、窓の外へ目をやった。

 「遅い時刻に、私が迎えに行く。誰にも言うな。何も持つな。端末も時計も置いてこい。……いいね」

 「わかった」

 声は震えなかった。

 部屋を出た。扉が閉まって三歩進んだところで、指先が冷えているのに気づいた。

 ——早すぎる。

 押すつもりだった扉が、触れる前に開いた。向こう側にも、開けたい誰かがいたということだ。

 理由は見えない。見えないまま、今夜が来る。



 扉が閉まった。

 マコトは椅子に戻らず、しばらく立っていた。

 完璧な頼みだった。

 与えた筋書きの上を、一歩も踏み外さない。生きていると告げられ、会えないと言われ、それでも母だから一目だけ——そういう役の、完璧な頼み。

 知っているくせに。

 声にせずに、そう言ってみる。お前はもう一度、自分の足で降りているくせに。

 毒は、湧かなかった。代わりに来たのは静かな満足だった。

 知っていて、私の前では知らない顔をする。私の筋書きの中でだけ頼り、縋り、私を見る。あの芝居の中でだけ、十七年で初めて、彼女の目がこちらを向く。

 ——偶然にしては、拍が合いすぎている。

 観察の側が、低く言う。先に終わらせると決めた夜が明けた、その朝の頼み。測ったような。裏で誰かが拍を数えているような。

 願いが叶っただけだ、と別の側が言う。

 十七年、後者が勝ったことは一度もない。

 今日、初めて勝たせた。

 端末に、地下の波形を映す。静かな線。目覚めていることを私だけが知っている娘。

 いずれ周の監査がここに届く。穴は隠せても、開けた事実は隠せない。分かっている。届けば、あの区画は上のものになる。娘も、上のものになる。

 扉は、私でなくなる。

 だから、先に終わらせる。持っているうちに、この扉を使う。

 会わせれば、彼女は共犯になる。娘が生きていると知りながら、誰にも言えない母になる。言えば、娘に累が及ぶ。今夜を分け合える相手は、世界で私ひとりになる。区画は取り上げられても、この夜だけは誰にも取り上げられない。

 娘の息を見た母親は、もう二度とこの扉から離れられない。生かすのも会わせるのも黙らせるのも、全部この私を通る。

 ——道は今朝から、この部屋を通っている。

 今夜からは、永遠に。

 今夜彼女を連れて降りても、露見の危険は増えない。あの区画の目は、もう全部この端末にしか流れない。何が映ろうと、見る者は私しかいない。増えるのは部外者ひとりぶんの通行の痕だけ。それは私の権限の陰に畳める。

 この会社でいちばん重い禁を、指一本で越える。

 権限の層を、一枚ずつ剥がしていく。

 彼女が私を見るのは芝居の中だけだ。

 なら、舞台ごと本物にしてやる。



 昼のあいだに、母の言葉が届いていた。

 今夜。手ぶらで。誰にも言うな。

 ケイは、道の仕上げにかかった。作り損ねれば、今夜の全部が沈む一本だ。

 あの区画の目——夜ごと寝台の列を巡るドローンが見たものは、いまは全部あの男の端末にしか届かない。宛先を全部、自分に付け替えたからだ。今夜あの目が何を映しても、あの男の手の中でなかったことにされて終わる。それでは記録は死ぬ。

 だから、分かれ道を作る。映像の流れの途中に細い枝を一本。行き先は施設の正規の台帳。あの会社が、自分で自分を検分するための帳簿だ。

 枝は今夜まで眠らせておく。目が向けられた瞬間にだけ目を覚まし、一度だけ運んで消える。早く見つかれば、そこで終わる。幸い、あの男は自分の端末を疑わない。自分で開けた穴の中を覗く者はいないと思っている。

 ——宛先を付け替えたのはお前だ。もう一度付け替えられても、文句は言えないはずだ。

 手を止めて、数える。

 母の舞台。娘の目。この枝。

 三本の道が、今夜ひとつの部屋で交わる。どれか一本が欠ければ、残りの二本は罠に変わる。舞台が崩れれば、母は地下で敵と二人きりになる。目が外れれば、娘は最後の力をただ捨てる。枝が見つかれば、こちらの存在ごと敵に知れる。

 数えられるものは、数え終えた。

 あとは、数えられないものだけだ。



 糸を、細くしてある。

 アリスは、暗い天井を見ていた。声のやり取りは今日、最小限まで落とした。父の声も母の文字も、いまは遠い。

 残しておくためだ。帳と、向けるための力。あと一度分しかないものを、今夜の一点に置くために。

 握った指の感触は、昨日よりさらに薄い。だから今日は、なるべく何もしない。呼吸を数えて、ただ待つ。

 覚めてからいちばん静かな夜になるはずだった。静かなぶんだけ、遠くの音がよく聞こえた。

 ——『まっていて』。

 いつか、母にそう残した。理由を言えないまま黙って、母はそれでも待ってくれた。

 ——今夜は、わたしが待つ番だ。

 母が敵の隣を歩く。糸は細く、様子は届かず、祈ることしかできないまま。あのときの母は、こんな夜をひとりで越えたのか。

 瞼の裏で、手順を一度だけなぞる。

 母があの男に、いちばん重い言葉を言わせる。その瞬間、巡ってくる小さな目を掴む。逸らすのではなく、あの男へ向けて——言葉が終わるまで、離さない。

 逸らすのは、軽い。通り過ぎる目を薄い帳でひと撫でするだけ。だから毎晩できた。

 向けるのは、違う。決められた道を巡る目の向きを掴んで、巡回に逆らって留め続ける。そのあいだも、わたし自身には帳を掛けたままにする。目が覚めているわたしが映れば、記録の主役はあの男の罪ではなくわたしになる。

 隠れたまま、掴んで、留める。帳と、向ける手。二つを同時に張る力は、あと一度分しかない。

 目がこの列にいる時間は長くない。その短い幅に、あの言葉が落ちてくれるかどうか。

 向ければ、記録が残る。記録は人を呼び、来た人はいつか、帳の下のわたしに辿り着く。

 一度きり。当たっても、外れても、隠れ場所は消える。

 怖い、と思った。思ってから、それでいいと思い直す。怖くない賭けなら、母を歩かせる理由にならない。

 廊下の遠くで、低い駆動音がした。夜の目が、今夜も巡りはじめる。

 ——今夜は、こっちを見て。

 声にならない声で、そう言った。



 夜が来た。

 退勤の時刻が過ぎ、フロアから足音が消えていく。キャロルはひとり残って、机の上を片づけた。

 端末を引き出しにしまう。時計を外す。鍵も置く。持たされてきたものを一つずつ外すたび、体が軽くなった。軽さは、崖のふちの軽さに似ていた。

 昼のうちに、別室の端末から娘へ短い報せだけを送ってある。今夜、そちらへ行く。舞台は今夜、開く。返ってきた文字は崩れて、短かった。

 『きをつけて。——みてます。みんなで』

 みんなで、の四文字をキャロルは胸の内で折り畳んだ。ひとりで歩く夜ではない。

 廊下に、足音がひとつ。

 「……行こうか」

 マコトが立っていた。昼と同じ顔で。目の奥だけが、昼と違って見えた。

 並んで歩いた。人のいない廊下ばかりを、あの人は選んで歩いた。その迷いのなさは、何度もこうして歩いてきた人のものだった。

 階段を降りる。空気が変わる。冷気と、機械の低いうなり。

 マコトが言った。

 「ここから先は——私しか、通れない」

 その通りなのだろう。この人はずっと、この扉そのものになろうとしてきた。娘への道の、最後の一枚に。

 認証の台に、あの人の手が置かれる。

 一歩後ろで、キャロルはそれを見ていた。

 ——知っている。

 この先の廊下も。寝台の並びも。管の白さも。あなたの声が、眠る娘の枕元で何を言ったのかも。

 知らない顔の下に全部をしまって、開く扉を待った。

 重い錠の外れる音が、扉の奥で動きはじめた。


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