Episode 74|問い
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
夜は、まだ終わっていなかった。
キャロルは、端末の前に残っていた。新しい一手は渡った。その代償には、まだ誰も触れていない。
席を立てなかった。眠れるはずもなかった。頭が、勝手に恐ろしい計算を始めていた。
——あの地下は、いくらかかる。
端の見えない寝台の列。冷気。管。装置。電力。薬剤。一床で数えて列を掛け、年を掛ける。出てきた桁は、慈善で払える額ではなかった。
会社は慈善をしない。払うなら、取る。あの寝台の列から、この会社は何かを取り出している。
——何を。
そこで、思考が自分の足元に落ちた。
毎日の仕事に。
暗号を扱う部署で、毎日触れている式。世界中の通信が、この会社の暗号の上で動いている。その心臓部にある式を知っている。誰よりも知っている。
書いた人を知っているからだ。
十七年、遺作だと思っていた。死んだ人の式が世界を動かしている。そう思って、守るように扱ってきた。
彼は、生きていた。
そして、彼はまだ知らない。自分の式が外でどうなったのか、彼には知りようがないのだ。あの春から、ずっと。
娘の眠る建物と、彼の式。同じ会社が二つとも抱えている。
新型のシステム。そう聞かされて、疑ってこなかった。——地下を見るまでは。
キャロルは端末に指を置いた。
打つのは報告ではない。問いだ。
『聞いて。伝えていないことが、ひとつある』
◆
工房の夜に、娘の声が母の言葉を運んできた。一字も欠かさずに。
『あなたの式は、死んでいない。この会社の暗号の核はあなたの式。世界中の通信が、いまもその上で動いている』
ケイの手が止まった。
——動いているはずがない。
理論は世界に出ていた。学会で発表した。国外の研究施設から声もかかっていた。誰でも読める場所に、あの式はあった。
そして読んだ者は、みんな同じことを言った。美しい、だが動かせない。あの式は全部の通信に毎回、新しい鍵を作り続ける。その計算の量は、世界中の計算機を集めても足りない。
——足りないと、書いた本人がいちばん知っている。
紙の上の理論。そのはずだった。
それがいま、世界中の通信を回している。
机の端を指が掴んでいた。力を抜くのに一呼吸かかった。
——考えろ。
像を結んだものが、もうひとつあった。
この世界に来た日から、ずっとあった違和感。魔法陣が読めた。型の中身が見えた。誰の術式でも、開け方が分かった。
向こうへ——娘の体が眠る側へ潜りはじめてからも、同じだった。防火壁が読めた。門が読めた。罠の置き場所まで読めた。誰かがこちらの読み方を先に知っている——そう思っていた。
逆だ。
読めたのではない。
自分の字だった。
鍵を破っていたのではない。自分で掛けた鍵を開けて回っていただけだ。
声もなく短い息が漏れた。笑いにいちばん近い息だった。
だが、と指が動き出す。数字が合わない。
「式は本物だ。だが、あれを動かせる計算機はない。俺のいた頃には、なかった」
娘の声が言葉を運び、母の文字が答えを返してくる。
『いまも、ない。昔、見積もったことがある。会社は新型のシステムと呼ぶだけ。わたしのいる暗号の部署にも、中身を見た者はひとりもいない』
二人の見積もりが、同じ場所で止まった。
式は現に動いている。動かせる計算機は存在しない。
「なら——何が計算している」
声に出して問うた。母の文字は、すぐには返ってこなかった。
目の前に、見たことのない部屋が浮かんだ。娘の言葉だけで知っている部屋。端の見えない寝台の列。管。後頭部へ刺さる一番太い束。
『わたしも、同じものを思い浮かべてる。あの地下を見た夜から、ずっと』
この世界の住人が、あの部屋で管に繋がれて眠っている。それはもう知っている。知らずにいたのは——なぜ繋ぐのか、だ。
「人の脳は、使われている場所より使われていない場所の方が広い。大半は眠ったままだと、研究室では笑い話だった」
『眠らせたまま、残りを全部使えたら。……でも、一人分では足りない』
「なら、並べる。何百と繋いで、ひとつの計算機にする」
言葉が、そこで途切れた。
「……計算、させられているのか」
誰も、すぐには答えなかった。
あの管は、栄養でも薬でもない。後頭部の一番太い束は——脳へ、仕事を運ぶ線だ。
寝台の列が、計算機の列に見えた。見えた瞬間、世界の底が一枚めくれた。
——人を並べて、脳の余りを束ね、計算機にする。俺の式を回すために。
証はまだない。だが他に、答えの置き場がない。
そして、もうひとつ。
——論文は、誰でも読めた。作るだけなら、俺は要らない。
——なら、あの夜。俺を運ぶ必要は、何だ。
——では、俺は。
問いが、そこまで形になったときだった。糸が細くなった。
「アリス」
「……だいじょうぶ、です」
大丈夫という声が、大丈夫ではなかった。
問いを置いた。指先は冷えたままだったが、置いた。
——いま数えるべきは俺の問いじゃない。娘の残りの力だ。
■
アリスは、緩んだ指を握り直した。
握った感触が、昨日より薄い。
覚めた最初の朝から、ずっと握り続けてきた指。意識をこの体に留めるための見えない指。長い言葉を運んだ夜は緩むのが早い。今夜は、いちばん長い夜だった。
父の声が糸を渡ってきた。いつもの短さで。
「今夜は、もう運ぶな」
「もう少しだけ。……言わないまま眠れないことが、残っています」
代償の話だ。
「ドローンが見たものは、施設の記録に残ります。記録が増えれば、管理の人がこの区画を調べに来ます。来た人は、これまでの記録も遡ります」
夜ごとのドローンが、この寝台の前でだけ何も映してこなかった。遡る人はいつか、そこに気づく。帳に。帳の下で目を覚ましていた者がいたことに。
「あの一手は、隠れるのをやめる一手です。守ってきた隠れ場所を自分たちの手で差し出します。それを分かった上で、使いたいんです」
糸の向こうで父が黙った。端末の向こうで母も黙っているのが分かる。
最初に返ってきたのは、母の文字だった。
『だめ』
二字だけだった。
少し遅れて、続きが届いた。
『あなたを、賭け札にはしない』
「お母さん」
アリスは、天井の暗がりを見た。夜ごと巡ってくるドローンを思った。
「あのドローンを、ずっとわたしが逸らしてきました。向けるのも、わたしがやります。誰かの札ではなく、わたしの手で」
糸も端末も、しばらく黙っていた。
父の声が先に戻ってきた。
「勝算の話をする」
いつもの声だった。それが、ありがたかった。
「今夜の話の続きだ。寝台の人間が計算させられているなら、この世界での力は、そのままあの会社での仕事だ。俺の式が向こうで通信を回していたように、お前が毎日やってきた証明も、向こうで何かを回している。アリス。お前の証明の力は、通信の認証を担っている。会社はお前の力で、鍵を確かめている。お前を消せば、会社中の通信が確かめられなくなる。だから会社は、お前を消せない」
証のない仮説だ、と父は言った。だが数字はそこしか指していない、とも言った。
「見つかっても、消されはしない。そこに賭ける。……ただし」
声が一段低くなった。
「帳と、向けるドローン。二つ同時に張る力は、あと一度分しかない。そうだな」
「……はい」
隠しても、糸の細りで知られている。
「なら、一度で決める。外せない場所と、外せない言葉を選ぶ。その舞台を作れるのは——」
父の声が、母へ向いた。
糸と端末が、同じ人を指していた。
♣
運ばれてきた言葉を、キャロルは読み終えた。
舞台。
一度きりなら、外させない。あの人がいちばん重い言葉を口にする場所と時間を、こちらが決める。言い逃れの利く言葉ではなく、逃げ場のない言葉を。記録の残る場所で。
それを作れるのは、何も知らないふりをして、あの人に縋ってきた人間だけだ。
——わたしの番だ。
端末に指を置く。震えていなかった。
だめ、と打った指だ。娘を札にはしないと打った同じ指で、これから娘の一手が外れないための舞台を組む。
母親のやることではないのかもしれない。
でも、母親にしかできないことだった。
打った。
『わかった。舞台はわたしが作る』
作り方は、ひとつしかない。
あの人に頼むのだ。娘に会わせて、と。
息を吸う。誰もいない部屋で、明日あの人の前で使う声を一度だけ試した。
「——会わせて」
声は震えなかった。
芝居の台詞のはずだった。
世界でいちばん、本心に近い台詞だった。




