Episode 73|向ける
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
敵の執務室は、昼の光で満ちていた。
マコトが椅子を勧めた。
「もう、珍しくなくなったな」
「仕事の手が止まってしまって」
キャロルは腰を下ろした。すがる母の顔を、今日も丁寧に着る。
「あの子のことを聞かせて。……一年前、本当はどこまで捜してくれたの」
マコトは目を伏せた。悼む顔を、丁寧に作って。
「警察が打ち切ったあとも、民間の調査を三つ入れた。川筋も、車の記録も。……見つからないことが、あのときは答えに見えた」
三つ、とキャロルは胸の中に刻んだ。
嘘ではないのだろう。この人は本当に三つ、調査を入れたのだ。自分で隠した娘を、捜してみせるために。筋書きに骨を入れるのは、いつも本物の数字だ。
「救われていた、と言ったわね。誰が救ったの」
「それは言えない。決まりの話じゃない。君を守るための話だ」
守る。今日も、その言葉を使う。
「……ただ、間に合ったのは幸運だった」
幸運。
仕組んだ者だけが、そう言える。偶然を知らない者だけが、偶然を軽々しく口にできる。
一語も逃さない。泣きそうな顔の下で、キャロルは並べていく。打ち切り。三つの調査。幸運。守るための決まり。この部屋で拾った言葉は、ぜんぶ持ち帰る。記録に残せる日まで、一語も錆びさせない。
「君は、強いな」
不意に、マコトが言った。
「一年、よく立っていた」
探る色が、声の底にあった。ないのかもしれない。もう、分からない。
「弱かったら、誰があの子を待つの」
間を置かずに返せた。マコトは少し目を細めて、それから頷いた。
立ち上がりながら、キャロルは訊いた。
「また、来てもいい?」
「いつでも」
扉が閉まるまで、母の顔は脱がなかった。
◆
夜の工房に、母の言葉が届いていた。
ケイは、運ばれてきた言葉を並べた。打ち切られた捜索。三つの調査。幸運。守るための決まり。嘘の柱が、一本ずつ立っていく。
並べ終えて、手が止まった。
——これを、どこへ出す。
外へ届けることは、できる。警察にも、報道にも、道は組める。だが外に、地下を見た者はいない。言葉だけでは、あの会社の敷居をまたげない。そして外の目が向いたとき、あの会社が最初にするのは罪を認めることじゃない。消すことだ。
証拠は、寝台の上で息をしている。
——外は、使えない。皆が繋がれたままでは、使えない。外を使える日は、皆を外に出した後にしか来ない。
なら、中だ。だが。
あの会社は、地下に何百の寝台を並べた会社だ。人を管に繋ぐことを、設備にした会社だ。娘をひとり運んだことなど。
——あの男の罪は、あの会社では罪にならない。
仕事だ。
糸の向こうで、娘の気配が固くなるのが分かった。それでも、言い直さなかった。甘い見立ては、母を殺す。
だが、と思う。
あの男は、会社からも隠れている。
区画を切り離した。部外者に施設のことを漏らした。会わせる、と口にした。部外者を、あの区画へ入れると言ったのだ。どれも、あの会社が許すはずのないことだ。
俺たちから隠れるために開けた穴は、そのまま、会社から隠れている穴でもある。
運んだ罪は、裁けない。なら——
「罪にならないなら、罪になる場所へ突き出す。あの男の穴を、あの会社の目に見せる」
言ってから、足りないものに気づいた。
見せる目が、ない。あの区画の目は、あの男が全部、自分の端末に付け替えている。
■
アリスは、二人の言葉を運びながら聞いていた。
罪にならない。仕事。
運ばれた夜のことが、あの会社の帳簿では仕事と呼ばれる。怒りよりも先に、体の芯が冷えた。この冷たさの中に、皆が並んで眠っている。
見せる目が、ない。父の声が、そこで止まっている。
アリスは、天井を思った。
夜ごと決まった時刻に、寝台の列を見て回る小さなドローン。覚めた最初の夜から、帳をかぶせて目を逸らし続けてきた。逸らすことしか、考えたことがなかった。
あの目が見たものは、施設の記録に残る。
糸に声を置いた。
「お父さん」
「聞いている」
「巡る目を、わたしはずっと逸らしてきました」
アリスは一拍置いて、続けた。
「逸らせるなら——向けられます」
糸の向こうが、止まった。
長い沈黙のあとで、父の声が戻ってきた。いつもの短さで。いつもより、低く。
「……それは」
言いかけて、止まった。父が言葉を途中で置くのを、初めて聞いた。
母へも、同じ言葉が渡っていく。三人の図の真ん中に、新しい一手が置かれた。
その一手の代償を、まだ誰も口にしていない。
♠
同じ夜、マコトは自分の端末の前にいた。
封じた宛先に、外から触れた痕があった。一度ではない。台帳の照合。巡回一覧の突き合わせ。洗い方に、見覚えがある。無駄がひとつもない、効率だけで組まれた手順。
「……周か」
外を追っていたはずの男が、内を向いた。いまは、上を向いている。
封は破られていない。破られる作りでもない。だが、あの男にとっては、封じてあること自体がもう答えだ。穴は、隠せる。穴を隠したという事実は、隠せない。
時間の感覚が、変わった。
昨日までは、いくらでもあった。キャロルは通ってくる。芝居のままで、いつまでも。その中でだけ、彼女は私を見る。
いつまでも、ではなくなった。
「……急がなくてはならなくなった」
道を作る、と約束した。作るつもりのなかった道を。
端末に、地下の波形を映す。静かな線。目覚めていることを、自分だけが知っている娘。
扉は、私だ。
だがその扉を、叩く者が増えていく。
「先に、終わらせる」
誰にも届かない声で、そう言った。




