Episode 72|穴
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
◆
夜に入っても、ケイは工房にいた。
朝から組みはじめた道は、まだ通っていなかった。
監視の報せがあの男の端末にしか行かない区画。そこを通らずに母の端末へ届く、もう一本の経路。いま使われている道は、どれを通ってもあの男のログに残る。
だから、古い保守回線を探した。会社がまだ小さかったころに引かれ、廃止の手続きだけを忘れられた回線。いまの監視は、そこを見ていない。誰も使わない。誰も外さない。忘れられたまま生きている。
——母親と、同じだ。
ふと思う。あの人は警備に映らないまま、地下の娘まで辿り着いた。恐らく、同じような忘れられた道を通って。
親が二人とも、忘れられた道を歩いている。この会社の新しさは、いつも足元が留守だ。
継ぎ目を確かめ、鍵を組んで通す。最後の認証が噛み合って、道の先に別室の端末が立った。細い。だが、あの男のログには残らない。
糸に声を置く。
「アリス。道が通った。書いていい」
急がなくていい、と続けそうになって、やめた。
急ぐ理由は、ないはずだった。
♣
夜の別室は、昼より狭い。
キャロルは扉を背にして、暗い画面の前に座っていた。画面を開くのは、今日で何度目か分からない。娘の声は、朝から一度も返っていない。
廊下に耳を澄ます。足音はない。それだけ確かめて、画面に向き直る。
画面が、光った。
崩れた文字が、一字ずつ浮かぶ。
『おかあさん。きこえます』
息が止まった。
両手で口を覆った。覆ったまま、二度うなずいた。誰も見ていない部屋で。
『無事なの』
『はい。もう、だいじょうぶ』
だいじょうぶ。その六文字を、しばらく見ていた。何がどう大丈夫なのかは、ひとつも書かれていない。それでも、この文字はいま、娘の指から来ている。
伝えることがある。
今朝から胸の底で重くなり続けていたものを、キャロルは打ちはじめた。
『きいて。今朝、あの人に呼ばれた。断れなかった』
指は止めない。
『あの人は言った。アリスは生きている。公にできない場所で生かされている。会わせることはできない。道は自分が作る。誰にも言うな——』
文字にすると、ただの報告になる。あの部屋の空気も、机ひとつぶんの距離も、涙も載らない。それでいい。載せるべきは事実だけだ。
『わたしは知らないふりをした。涙は嘘じゃない。理由だけ、すり替えた』
一度だけ、手が止まった。
『これからも、あの人の部屋に通う。あの人の口から全部を言わせるまで。言わせた言葉は、ぜんぶ武器になる』
送ってから、最後に付け足した。
『昨夜、何があったの』
■
母の言葉が、道を流れてくる。
アリスは寝台の中で、一字ずつ受け取っていた。
今朝、呼ばれた。断れなかった。
——会って、いた。
父の警告は届いていたのに、扉は向こうから開いた。
あの男は母の前で言ったのだ。生きている、と。自分の手で運んだ娘のことを。守ってきた、という顔で。
動かない指の先が、シーツをかすかに掻いた。それだけにした。声は出ない。涙は、こぼさない。こぼせば痕になる。こぼれた一筋を、あの男に見られかけた夜があった。
怒りは載せない。一字も欠かさず、そのまま運ぶ。それが自分の務めだ。
糸に、母の言葉を移していく。
移し終えると、糸の向こうで父が黙った。
長い沈黙だった。
糸がこんなに静かなのは、初めてだった。
◆
読み違えていた。
数えれば、三つ。
母親は止まった——止まる前に、呼ばれていた。
時間はこちらにある——なかった。盤面は昨夜のうちに動いて、こちらだけが朝の図を見ていた。
手の内は見られていない——それはまだ、分からない。あの男が今朝動いた理由を、こちらは何も読めていなかった。
息をひとつ吐く。
式は違えたことがない。人を、違えた。
だが、と目を戻す。
母親は、呑まれていなかった。知らないふりで受けていた。通う口実を自分の手で掴み、言わせるまで通うと書いてきた。誰にも支えられず、罠の入口に独りで立っていた。
——独りでも、やる人だ。
十七年前から知っていた。
ならば、渡すものを渡す。
内から、あの男の越権の足跡。外から、あの男自身の言葉。中で、娘が両方を運ぶ。
三つが初めて同じ図の上に載った。
糸に声を置く。
「お母さんに伝えろ。あの男は昨夜、お前の目覚めを知った。だから今朝、動いた。あの男の『生きている』は、半分だけの告白だ」
一拍、置いた。
「それから——独りにして、悪かった、と」
♣
送ったまま暗くなっていた画面が、また光った。
『あのひとは、あなたのめざめを、しっています。きのうの、よるから』
読み終えるより先に、背筋が冷えた。
昨夜、娘の目覚めが知られた。だから今朝、あの告白があった。
生きている、とあの人は言った。目覚めている、とは言わなかった。容体は重い——聞かされて胸が千切れそうになった、あの言葉ごと嘘だった。守っている顔の下で、もう知っていたのだ。娘が目を開けていることを。
半分の告白。半分の、鎖。
『それから』
文字は、ひと呼吸置いて続いた。
『ひとりにして、わるかった。——と』
息が詰まった。
娘の言葉ではない。すぐに分かった。
十七年前、ひと言もなく消えた人が、娘の指を借りて、初めて詫びた。
泣かなかった。泣くのは、あの部屋での仕事だ。
『わかった』とだけ打った。指が、勝手に続けた。
『今度は、三人で』
♠
運用室に、夜が満ちていた。
周はひとり残って、三巡目の洗い直しに入っていた。
内に、いる。そこまでは詰めた。だが内側の誰かは痕を残さない。ならば痕ではなく、痕の消え方を数える。
巡回の記録。報告の宛先。定時の波形。異常はない。
——正確には、異常のなさすぎる区画が、ひとつ。
指が止まった。
地下の一区画。昨夜から、定時巡回の一覧に載っていない。監視は動いている。報せる先だけが共有の台帳から消えて、どこかへ付け替えられている。宛先は封じられていて読めない。封じられていること自体が、答えの半分だった。
網に、穴が開いている。
外から破られた穴ではない。破られた痕がないからだ。内から開けた穴でもない。隠れている者は、網に触れられない。開けるには、網そのものに触れる権限がいる。
——上から、開けられた穴だ。
この網に触れる者は少ない。網の上に立つ者は、もっと少ない。
周は画面の光の中で目を細めた。
外を洗った。空だった。内を洗った。痕がなかった。
「……次は、上だ」
低い声は誰もいない運用室に落ちて、消えた。




