Episode 71|芝居
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
朝は、いつもどおりに来た。
キャロルは自分の席で端末を開いていた。開いてはいたが、中身は頭に入っていない。昨夜の一語が、まだ胸の底で鳴っている。
会うな。
会わない、と決めた。近づかなければいいだけだ。あの部屋に、行かなければ。
足音が、机の横で止まった。
マコトだった。
「おはよう。——少し、時間をくれないか。アリスのことで、話がある」
指がキーの上で止まった。
断る言葉を、三つ数えるあいだに探した。会議がある。手が離せない。体調が悪い。どれも使える。どれも、使えない。娘の名を出されて席を立たない母親はいない。立たなければ、それこそが答えになる。
「……ええ」
キャロルは立ち上がった。
会うな、という声を胸の底に沈めたまま。
廊下を、二人で歩いた。マコトは何も言わなかった。その沈黙が、一歩ごとに重くなっていく。
昨夜、会わないと決めた。
その扉が今朝、向こうから開いた。
♠
マコトは、キャロルに椅子を勧めた。
自分は机を回り、正面に座った。距離は、机ひとつぶん。近すぎず、遠すぎず。彼女の顔がいちばんよく見える位置だった。
今日は、話すためではない。見るためだ。
「朝から、すまない」
キャロルが顔を上げた。
「……アリスのことって、何」
声はかすかに掠れていた。眠っていない声だ。
マコトは、一度目を伏せた。深刻な話を切り出す男の顔を、丁寧に作る。作りながら、目の端は彼女の手を見ていた。膝の上で重ねられた、白い手を。
「落ち着いて、聞いてほしい」
「……何を」
「アリスは、生きている」
部屋の空気が、止まった。
キャロルの目が見開かれていく。唇が開き、声にならない息が漏れる。重ねた手が崩れて、椅子の肘掛けを掴んだ。
「……何を、言って」
「事故のあと、あの子は救われていた。公にできない場所で、生かされている。容体は重い。だが、生きている」
「そんな——」
声が割れた。
「そんなこと……だって、車だけが……一年、わたしは……」
言葉が砕けていく。砕け方に、淀みがなかった。
完璧だ、とマコトは思った。
知らなければ、信じただろう。疑う余地なく。娘の生を初めて知らされた母の顔として、どこにも綻びがない。
だが、知っている。
この女は地下に降りた。管に繋がれた娘を、その目で見た。生きていることを、誰よりも先に知っていた。
いま目の前で崩れているこの顔は、最初から最後まで作られたものだ。
「……どこ」
キャロルが濡れた顔を上げた。
涙まで、本物だった。
♣
驚きは、演技ではなかった。
中身が、違っただけだ。
生きている——その言葉に驚いたのではない。それを、この男が自分の口で言った。そのことに、背筋が凍った。
涙は、勝手に流れた。止める必要はなかった。理由だけ、すり替えればいい。
目の前の男は、娘を運んだ手で机に肘をつき、守ってきた、という顔をしている。事故のあと、ではない。事故を仕組んで、だ。救われていた、ではない。奪われていた、だ。
言葉のひとつひとつが、内側を焼いた。焼かれた分だけ涙が出た。それを、驚きの形に流し込む。
「どこにいるの」
「言えない。場所は、私にも動かせない決まりがある」
公にできない場所。——この建物の、足の下。
知っているとは、口が裂けても言えない。
「会わせて」
「今は、無理だ」
マコトは静かに首を振った。
「あの子は、特別な設備の中にいる。外から人が入れば、命に関わる。……だが、道は私が作れる。時間はかかる。それでも、私なら作れる。あの子のそばまで行ける人間は、私しかいない」
そこだけ、声が違った。
哀れみでも、慰めでもない。提示だった。
わかっている、とキャロルは思った。これは、鎖だ。差し出された手が、鎖の形をしている。娘への道の上に、この男が立った。通りたければ、この男を通るしかない。
——なぜ、今なの。
喉まで出た問いを一度呑んで、それから声にした。訊かない方が、不自然だ。
「なぜ……なぜ、今になって」
「ようやく、確かめられたからだ。確かでないことを、君に言えるわけがない」
胸の底で、声がした。
嘘だ。昨夜だ。昨夜、何かがあった。ケイの警告と、この告白は、同じ夜から生えている。
よくできた筋書きだ、と頭の隅が冷たく記録した。一年の嘘には、一年の言い訳が添えてある。捜索は尽くしたと言ったその口が、今朝は、救われていたと言う。
言わせた言葉は、消えない。いつか全部、並べ直せる。この男の口から出たものは、ぜんぶ、この男を暴く武器になる。
泣きながら、集めている。この涙の下で、一語も逃さずに。
「最後に、ひとつ」
マコトの声が、一段だけ低くなった。
「このことは、誰にも言うな。調べようともするな。君が動けば、私にも、あの子を守れなくなる」
守れなくなる。
その言い方を、キャロルは正確に聞いた。守っているのは自分だと、この男は言った。生かしているのも自分だと、言ったのと同じだった。
「……わかった」
受け取るしか、なかった。
◆
工房にも、朝が来ていた。
ケイは、道の図を組み直していた。
塞がれた真ん中——母へ事実を運ぶ中継を、どう開け直すか。マコトの端末にしか映らない区画。ならば、映らない道をもう一本。時間のかかる作業だ。
会うな、のひと言は届いた。母親は止まり、もうあの男には近づかない。あの男が知ったのは娘の目覚めだけで、母のことは何も掴んでいない。こちらの手の内は、まだ一枚も見られていない。
だから、急がなくていい。落ち着いて、太い道を組めばいい。
時間は、こちらにある。
そう、思っていた。
その朝、母親がどこで誰と向き合っていたかを、ケイはまだ知らない。
♠
扉が閉まった。
マコトは、キャロルの座っていた椅子を見た。
見事な驚きだった。声の割れ方も、砕けた言葉も、涙も。
知っていて、あれをやった。
なぜ隠す。そう考えると、答えはすぐに並んだ。会社を疑っているのだ。娘をあんな場所に置いた、この会社を。だから、誰も信じない。私のことも、まだ会社の側の人間として見ている。
私を、疑っているのではない。
疑われているなら、今朝あの顔は作れない。憎む相手の前で、人はあんなふうに泣けない。——そう、決めた。決めれば、楽になった。
冷たい声が、何か言いかけた。今朝は、鳴る前に沈んだ。
芝居でも、と思う。
芝居でも、キャロルは今朝、私の前で泣いた。私の言葉ひとつで崩れ、私の手の中にある道を受け取った。これからキャロルは、あの子のために、この部屋の扉を叩く。何度でも。
芝居のままでいい。その中でだけ、キャロルは私を見る。
マコトは、端末を開いた。地下の区画の、静かな波形。眠る娘。
「……悪いようには、しない」
誰にも届かない声で、そう言った。
扉は、私だ。
キャロルの道は今朝から、すべてこの部屋を通る。




