Episode 70|いま
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
誰も使わない、隅の部屋。
キャロルは後ろ手に扉を閉めた。灯りは点けない。椅子にも座らず、立ったまま端末に触れた。
浮かんだのは、短い記号の列だった。誰が開いても、機械の呟きにしか見えない切れ端。
読んだ。
声がした。
ケイの声だ。気の急くところで一度立ち止まる、あの運び。同じ机で毎日聞いていた癖。
——会うな。
それだけだった。
誰に、とは書いていない。書く必要もない。会いに行く相手は、ひとりしかいない。マコトだ。
ケイは、あの計画を知っている。マコトに近づいて、罪を語らせる計画を。反対していることも、娘の文字が伝えてきた。あの男はあなたのすべてを読む、と。
けれど、これは反対ではない。反対なら、もっと前に来ている。
記号列の端にある刻限を見た。
今夜。それも、マコトの部屋を出て廊下を歩いていた、そのあいだ。
今夜、何かが変わったのだ。
古い棟の側から戻ってきた足。机を挟んで動かなかった距離。「似ていた、な」と言い直すまでの、長すぎた一拍。
ばらばらだったものが、この一語で束になる。
娘に、何かがあった。——あの直感が、輪郭を持つ。
指が、勝手に動いていた。
問いを短く畳んで、道に置く。
——あのこは。
待った。
画面は、暗いままだった。
答えは、来ない。
答えられないのだ。
思い返せば、ケイの声はいつもひと言だった。長い話は、娘の文字が運んできた。
その娘は「すこし、こえが、とどかなくなります」と言い残したきり沈黙している。すこし、と言ったまま、もう何日も。
そこへ今夜、この警告だ。
娘の身に、何かが起きたのだ。ケイはそれを知っていて、詳しくは伝えられない。だから、運べるいちばん大事なひと言を選んだ。——マコトに、近づくな。
沈黙が、何よりの答えだった。
膝から力が抜けかけて、机の縁を掴んだ。
叫び出したいのを潰すのは、今夜二度目だった。
十七年前。ケイは、何も言わずに消えた。
そう思って、生きてきた。ひと言もなかった。だから、探しに行くことさえできなかった。
今度は、ひと言ある。
言えないことの山の中から、通るだけのものを選んで寄越した。長い証明を一行に畳んでみせた、あの人が。
なら、足りる。
本当は、返したいことが山ほどあった。今夜もう会ってしまったこと。あの一拍のこと。娘に何があったのかという問い。
今夜すでに会った——それさえ、伝えられない。
指を置いた。
返すのも、ひと言だけ。
——わかった。
読まれるのを待たず、画面を落とした。
もう会わない。娘の声が戻るまで。この沈黙が解けるまで。
待つのは得意だ。ずっと、そうしてきた。
けれど、今夜からは違う。祈って待つのではない。構えて、待つ。
◆
道の上に、継ぎ目がひとつ増えた。
——あのこは。
ケイは、読んだまま動けなかった。
答えなら、ある。見つかった。いまは、マコトだけの檻の中にいる。
どれも、載らない。この道が運べるのは、ひと言がやっとだ。事実を書けば式が崩れる。崩れた式は壊れた信号として経路に残り、ログを洗う目に拾われる。
答えを持ったまま、答えられなかった。
やがて、もうひとつ増えた。
——わかった。
短く、息が漏れた。
ひと言から、全部を読んだのだ。刻限も、沈黙も、そこに畳んだものも。
同じ机で、そうやって解いてきた。片方が一行書けば、片方が続きを書いた。説明は要らなかった。いまも、要らない。
糸を揺らした。
——お母さんは、止まった。もう近づかない。
間を置いて、糸が震えた。——ほんとう、ですか。
——ああ。決めたら曲げない人だ。
——……よかった。
語尾が、震えて消えた。この数日で初めて緩んだ声だった。
ケイは、組みかけの式に目を戻した。
止めることは、できた。だが、止めただけだ。罠を閉じるには三つ要る。内の足跡、外の言葉、そして真ん中——母へ事実を運ぶ中継の道。その真ん中が、塞がれたままだ。娘の道は、開いた瞬間にマコトの端末へ灯る。
それでも、と思う。
間に合ったのだ。
母親は止まり、娘は隠れ、マコトはまだ何も知らない。
時間は、こちらにある。
♠
マコトは、灯りを点けなかった。
机の椅子に深く座ったまま、どれだけ経ったか。
疑え、と冷たい声が鳴っている。
今夜は、沈まなかった。
順に並べる。そうやって、ここまで登ってきた。
一度目。端末を絞った、その日にキャロルは来た。
二度目。地下へ降りた、その夜も彼女は立っていた。
偶然は、二度までは数えられる。
数えながら、並べたものの端に引っかかるものがあった。
言葉だ。
あの晩、廊下で。すがる顔のまま一度だけ顔を上げて、キャロルは訊いた。
『あの子は今どこにいるんだろう』
今。
死んだ子に、「今」は使わない。どこに眠っているの、なら分かる。骨さえ戻らなかった事故だ。せめて眠る場所を、と母親なら言う。
キャロルは、居場所を訊いた。生きている者の居場所を訊く形で。
あのときは、眠れない女の時間の狂いだと畳んで、忘れる側に置いた。
置けたのは、置きたかったからだ。
マコトは端末を引き寄せた。画面の明かりだけが、暗がりに顔を浮かばせる。
洗いかけの認証記録。古い保守通路。最新の監視には載らない、忘れられた扉。誰も使わないはずの経路に残った、古い鍵の跡。
誰かがその鍵で、あの扉を開けて地下へ降りた。その跡だ。
刻限を並べる。
今夜、寝台で見たものより前。あの区画の空気が変わった日の、未明。
キャロルが古い記録を漁っていたことは、掴んでいた。あのときは、端末を置いて消えた先を追いきれなかった。追いきれないまま、地下で何も見つけずに戻った。アリスは眠っていた。だから、閉じた。
閉じたのは——閉じたかったからだ。
降りたのだ。キャロルは。あの未明に、この足の下まで。
そして見た。管に繋がれたアリスを。死んだはずの、生きているアリスを。
今夜、寝台で見た、差し直された管。貼り直された電極。目を覚ましたアリスが自分でやったのだと思っていた。
違う。あれは、母の手だ。キャロルが娘の乱れを直し、隠して、出ていった。
知っている。
キャロルは知っていた。アリスが生きていることを。この建物の下にいることを。
あの夜のすがる顔も。小さいころの話をせがんだ声も。あなたにしか言えない、も。
全部、その上に組まれていた。
息が浅くなった。
十七年で初めて、キャロルが自分を見た。そう思った夜があった。
見ていたのは、私ではなかった。
私の向こう。この背中の、そのずっと下。地下の寝台を見ていた。
指先が冷えていく。
怒りが来るかと思った。来たのは、もっと静かなものだった。なぜ来たのか。なぜ二度も。なぜ、今夜も。——空いていたところに、答えがひとつずつ嵌まっていく静けさだ。
報告するか。
できない。それはとうに決めた。アリスの覚醒を報せれば、あの子は上のものになる。キャロルの侵入まで表に出れば、今度は彼女が切られる。どちらも、渡さない。
なら、どうする。
冷たい声は、もう鳴っていなかった。疑いは、疑いのあいだだけ鳴る。確信は静かだった。
キャロルは知っている。そして、知っていることを隠している。
隠しているということは——欲しいものが、まだ手に入っていないということだ。
アリスに届く道は、ひとつしかない。あの区画は、この端末にしか繋がっていない。キャロルが何を知っていようと、あの子へ通じる扉は、私だ。
十七年、差し出すものを彼女は受け取らなかった。
今度のは、受け取らないわけにはいかない。
胸の奥で、何かが灯った。
前と同じ場所で、前とは違う色をしていた。
マコトは立ち上がった。
窓の外はまだ暗い。夜明けまで間がある。それでいい。急ぐ話ではない。呼び出しはしない。書いたものも残さない。朝、キャロルの席の側を通るついでの顔で、短く言えばいい。
「少し、時間をくれないか。——アリスのことで、話がある」
断れるはずがなかった。
会うな、という声は、今度は間に合っていた。
キャロルはもう、会わないと決めている。
だが——会うかどうかを決める側に、彼女はもういない。




