Episode 69|一拍
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♣
足音は、止まらなかった。
キャロルは把手から手を離した。振り返る前に、顔を作る。すがる顔。頼る顔。作り慣れたはずの顔が、今夜は一拍遅れた。
廊下の奥。夜間灯の下に、背の高い影が立っていた。
「……キャロル?」
マコトだった。
「こんな時間に、どうした」
「家に、いたくなくて」
声は、思ったより自然に出た。
「あの子の部屋が、そのままだから。仕事をしているほうが、まだ楽なの。……帰る前に、あなたの部屋に灯りがあるかと思って寄ったの。いなかったから、帰ろうとしていたところ」
「そうか」
マコトが歩み寄ってくる。その足が来た方向を、目の端で測った。エレベーターホールの側ではない。反対の、古い棟へ渡る廊下の側。夜のこの時間にあの側から戻ってくる用事を、キャロルは知らない。
訊けなかった。訊けば、知りたがっていると知られる。
「あなたこそ、こんな時間まで?」
それだけを、すがる声に混ぜた。
「例の件だよ。侵入があってから、夜のうちに確かめることが増えた」
マコトは鍵を出しながら言った。声は、いつもの穏やかさだった。
「立ち話もなんだ。入って」
扉が開く。十七年隣にあった名前のプレートが、夜間灯を鈍く返した。
♠
鍵を差す指が、いつもより重かった。
マコトは、背中で彼女の気配を測っていた。
よりによって、今夜だった。誰にも報せず地下へ降りた。娘の目が開いているのを見た。あの区画を、自分ひとりの手に囲い込んだ。その足で戻れば、扉の前に彼女が立っている。
なぜ、今夜なのか。
胸の内で、冷たい声がまた鳴った。前に彼女が来たのは、端末を絞ったその日だった。今度は、地下へ降りたその夜だ。二度とも、こちらが動いた日に彼女が来る。
偶然が、二度続くのか。
だが。
彼女は何も知らない。知りようがない。地下で起きたことは、どの記録にも残らない。残る先は、すべて自分の端末に付け替えた。廊下で会ったのは、ただの偶然だ。
そして彼女は、また来た。自分から。この数日で、二度。十七年で一度もなかったことが。
胸の奥が、灯った。
いずれ、と思った。いずれ彼女は、私を頼るしかなくなる。あの子は、いま私の手の中にいる。あの子を返せるのは、私だけだ。私だけが——
その考えの形に自分で気づいて、マコトは短く息を吐いた。
形は、消えなかった。
疑え、と冷たい声がまだ鳴っている。
今夜は、その声が沈みきるまでにいつもより長くかかった。
「座って」
声は、穏やかに出た。出せることを、確かめるように。
♣
部屋は、前に来たときと同じに片づいていた。机の灯りだけが点いて、部屋の半分は暗い。
キャロルは、勧められた椅子に座った。
マコトは、机の向こうに立った。前に来たとき、この人は距離を作らない座り方をした。今夜は、机を挟んだ向こうから動かない。
「あの子の部屋を、まだ片づけられないの」
前置きは、しなかった。
「扉を開けるたびに、あの子がいた形のまま、時間が止まっている。だから夜は、家にいたくない」
「……そうか」
マコトが目を伏せた。よくできた沈黙。十七年、見てきた沈黙だ。
「ねえ、マコト。あの子の話を、してもいい?」
「ああ」
「小さいころのあの子を知っているのは、あなたくらいだから」
これは、嘘ではなかった。嘘ではないから、声が勝手に湿った。その湿りごと、演技の側へ押し出した。
「憶えている? あの子が小さかったころ」
「憶えているよ」
マコトの声が、少しやわらいだ。
「歩けるようになったばかりのころだ。君の膝の上で、差し出した指を握って離さなかった。小さな手だった」
「そう。あなたの指を」
「芯の強い子だった。顔は、君に似ている」
部屋が、静かになった。
一拍。
「……似ていた、な」
マコトは言い直した。目は伏せたままだった。
キャロルは、膝の上で手を重ねた。重ねた手の下で、指が冷えていく。
似ている、と言った。
言い間違いなら、誰にでもある。死んだ子の話をするとき、時制は揺れる。わたしだって、揺れる。
けれど、言い直すまでの一拍が長すぎた。
あれは言い間違えた人の一拍ではない。思い出していた人の一拍だ。
遠い昔を、ではない。もっと近くを。——たとえば今夜、見てきたばかりの、誰かの顔を。
——この人は、今夜、何かを見てきた。
根拠はない。古い棟の側から戻ってきた足。机を挟んで動かない距離。いまの一拍。それだけのものが束になって、ひとつの方向を指していた。
娘に、何かがあった。
叫び出したいのを、喉の奥で潰した。訊けば、終わる。この部屋で積み上げてきたものが、全部。
「……ごめんなさい。こんな時間に、こんな話」
キャロルは立ち上がった。すがる顔のまま。
「聞いてくれて、ありがとう。少し、眠れる気がする」
「ああ。いつでも」
扉を閉めるまで、顔は保った。
廊下を歩き出して、三歩目で足が速くなった。
誰も使わない隅の部屋まで、角を二つ。呼びかけても返らないことは、知っている。それでも、呼ばずにいられなかった。
◆
糸が、震えた。
アリスからだった。——あの男が、出ていきました。足音が、消えました。
ケイは、組みかけの鍵から手を離した。
出ていった。
地下を離れて、あの男はいま自由に動いている。どこへ向かったかは、読めない。経路は読めても、人の足は読めない。
——聞け。あの男は、上に報せていない。おまえの寝台ごと、監視から切り離した。おまえの区画で起きることは、もうあの男の端末にしか届かない。
間を置いて、糸が震えた。——わたしは、どうすれば。
——動くな。道を開くな。開けば、真っ先にあの男に知れる。
——お母さんは。
すぐには、返せなかった。
母親は、あの男に近づく。そういう計画だった。だが状況が変わった。あの男は娘を握った。それを知らないまま犯人の懐へ入るのは、目隠しのまま罠の上を歩くのと同じだ。
止めたい。だが、事実を運ぶ道がない。名も、企ても、言葉にして運べるのはアリスだけだ。そのアリスの道は、開いた瞬間にあの男へ知れる。
——だが。
あの男が握ったのは、娘の寝台から出る通信だ。内側から道を使うぶんには、あの男には見えない。
そして、式なら書ける。
言葉ではない。ただの記号の列。誰が見ても機械の呟きにしか見えない。周が見ても、あの男が見ても。
ひとりだけ、違う。同じ机で、この式の癖を声のように聞いていた人間がいる。
あの回路は、多くを運べない。事実を書けば式が崩れる。通るのは一語。短い息のようなものだけだ。
一語で、何が伝わる。娘のことも、檻のことも、載らない。
載らなくていい。止まってくれれば、それでいい。彼女は、一語から全部を疑える人だ。
ケイは、新しい式を組み始めた。
一語だけの式。
——会うな。
式を、道に流した。
届いたかどうかは、わからない。読まれたかどうかも。
糸の向こうで、娘が息を詰めている。
——お父さん。お母さんは。
——手は打った。
それだけを、返した。
打った手が一語きりだとは、言えなかった。
♣
誰も使わない、隅の部屋。
暗い画面が、一度だけ明るくなった。短い記号の列がひとつ、浮かんでいる。誰が開いても、ただの機械の呟きにしか見えない。声として聞ける人間は、この会社にひとりしかいない。
その人はいま、この部屋へ戻る廊下を歩いている。
会うな、という声は間に合わなかった。




