Episode 68|独り
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
♠=施設を管理する側
♣=キャロル(アリスの母)の側
♠
決めてしまえば、あとは手が動くだけだった。
マコトは腰の端末を繰り、この一画の管理を呼び出した。寝台の並ぶ区画。その記録の宛先を、運用室の監視から外していく。定時の巡回対象から抜き、報告の経路を自分の卓だけに付け替える。個人の権限で、静かに。
これから、ここで起きることは、自分ひとりの目にしか映らない。
指は慣れていた。
本来なら、報告ひとつで済む。覚めた者がいた、と上へ伝えればいい。それをせず、独りで抱え込もうとしている。露見すれば、ただでは済まない逸脱だった。それでも、指は止まらない。
組み替えを終えて、もう一度、娘を見下ろした。
落ちくぼんだ頬。シーツからのぞく、細い手首。
——まだ歩けない頃。この子は、キャロルの膝の上で、差し出した指を握って離さなかった。小さな手だった。
その手が、いまはシーツの上で動かない。
「……すぐに戻る」
誰にも届かない声だった。眠っていろ、とは言えなかった。眠ってなどいないと、知ってしまった後では。
端末の灯が落ちた。
区画は、男ひとりのものになった。足音が遠ざかり、やがて消える。
◆
あの男が動けば、上へ声を上げる。覚めた者を見つけた、という報せ。それが道に乗った瞬間に掴んで、遅らせる。娘のために稼げる時間は、そこにしかなかった。
だから、経路を見張っていた。
報せは、来なかった。
一分。二分。上へ向かう通信は、ひとつも立ち上がらない。
道は、静まり返っている。
おかしい。
覚めた者を見つけて、報せない管理者はいない。手順を踏むなら、必ず経路に足跡が残る。掴めるはずだった。
残らないなら——踏んでいないのだ、あの男は。
背が冷えた。
組織の案件になら、手が出せた。追えた。遅らせられた。稼げた。だが個人が黙って呑み込んだものは、どの経路にも乗らない。掴む糸口すらない。
いちばん悪い形だった。
その静けさの底で、小さな組み替えが起きた。
寝台の並ぶ一画。その記録の宛先が、運用の監視から外れていく。定時の巡回から静かに抜かれていく。宛先は、ひとつの卓へ。
読めた。
あの男は報せる代わりに、この一画を丸ごと自分のものにした。監視からも、報告の宛先からも切り離して、自分ひとりに囲い込んだ。
娘は、あの男ひとりの手の中に落ちた。
止められなかった、と思った。
——だが。
なぞりかけた指が、止まった。
独りで抱え、監視から切り離したなら。その一画に起きることは、もう誰の記録にも残らない。あの男の卓のほか、どこにも。
残るのは、あの男がひとりで動いた跡だけだ。誰の指図でもない、あの男自身の足跡。
あの夜を決めたのは自分だと、あの男は寝台で語った。娘とその母が、聞いている。言葉は、もうある。
足りなかったのは、それを裏づける跡だ。それを、あの男はいま自分の手で残しはじめた。
罠の入口だった。
だが、罠を閉じるには手が足りない。
跡を押さえる自分。罪を語らせる、外のキャロル。そのふたつは、直には繋がらない。
自分から彼女へ渡せるのは、想いのひとかけらだけだ。事実も、名も、企ても——言葉にして運べるのは、アリスひとり。内と外を結ぶ、ただひとつの結び目。
なのに——
娘への糸は、届く。あの男には見えない糸だ。
だが、母へ声を送る道は、いまやあの男の卓にしか通じていない。アリスが開けば、その動きは真っ先にあの男の手もとに灯る。
娘を囲い込んだその手が、母への道まで塞いだ。
キャロルへ、報せる術がない。
掴んだのに、手が届かない。
ケイは、組みかけた鍵を握った。
時間はない。あの男が次にどう動くか、読めない。娘は、その手の中にいる。
そして外のキャロルは、まだ何も知らない。
娘が見つかったことも。あの男が、すぐそばにいたことも。
報せなければ。
——どうやって。
♣
キャロルは、暗い画面の前に座っていた。
誰も使わない、隅の端末。ここからなら、娘へ声を送れる。届くはずだった。
だが、文字は返らない。
——すこし、こえが、とどかなくなります。まっていて。
そう言い残して、娘の声は途絶えた。それきり、返らない。理由は書いてこなかった。書けなかったのだろう。それでも、待てと言われた。だから、待っている。
待っているだけでは、何も動かない。
キャロルは画面を閉じ、立ち上がった。
もう一度、あの人のところへ行く。
娘を運んだ手を持つ男に、母の顔で近づく。悲しむ母を演じ、頼るふりをして、あの夜のことを少しずつ引き出す。前に会ったときは、そこまで届かなかった。今度は、もう半歩だけ。
膝が、笑っている。振り払って、廊下へ出た。
なぜ生きた人間を眠らせ、管で繋いでおくのか。あの地下で見たものの意味は、いまも分からない。娘を取り戻すだけでは、たぶん足りない。あの場所ごと暴かなければ。
けれど、まずは娘だ。
廊下の先に、あの人の部屋の扉が見えた。
いまその扉の主がどこにいるのか、キャロルは知らない。
誰にも報せず地下へ降り、娘の目が開いているのを見つけ、その寝台を自分ひとりの手に囲い込んで——いま、何食わぬ顔で戻ろうとしていることを。
娘が見つかったことを、母は知らない。
誰も報せられない。
キャロルは息を整え、扉に手を伸ばした。
その指が把手に触れる前に、廊下の奥から、足音が近づいてきた。




