Episode 67|見つかる
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
♠=施設を管理する側
■
務めが、片づいた。
溜まっていた祈りを納め、籠っていたと装っていたあいだに滞った役目を、ひとつずつ。もう、しばらくはミアに託せる。あとを、お願いします。そう告げて、アリスは祭壇に背を向けた。
祈りの間が、遠くなっていく。
立てる足を、置いていく。出る声を、動く指を。ここでできたことのすべてを、後ろへ残していく。
残るのは、一本の糸だった。声を運び、意味を運んできた細い繋がり。行きも帰りも、それが道になる。アリスは糸をたぐった。
暗がりを通る。光がほどけて——
冷たさが、戻ってきた。
灰色の天井。ファンの音。肌を這う冷気。重く、動かない体。こちらだ。戻ってきた。並ぶ寝台。管に繋がれた、自分の体。
戻れた。あとは、母へ——。
そこで、止まった。
顔が、あった。
すぐ上に。覗き込んでいる。灰色の光の中で、こちらを見下ろす目。
その顔を、知っていた。
母の隣で、笑っていた人。幼い頃から家に来ていた人。母が信じて、頼っていた人。そして、この寝台で、あの夜のすべては自分が決めたと語った人。
あの男だった。
声を上げようとした。喉が動かない。口の管が言葉を押し戻す。息だけが、細く漏れた。
腕を動かそうとした。鉛のように重い。戻ったばかりの体は、指の先までしびれていた。逃げる、という考えがまず崩れた。立てない。声も出ない。目を閉じることすら、もう遅い。
目が、合っていた。
男の指が、瞼のすぐ手前で止まっている。触れる寸前だった、と気づく。ほんの一拍、戻るのが遅ければ、閉じた瞼を確かめられていた。あと少し早ければ、目を開ける前に息を潜められたかもしれない。
どちらにも、間に合わなかった。
ケイへ、糸を握った。声にならない声で、ひとつだけ。
——見つかりました。
◆
工房でケイは、糸の張りが戻るのを感じた。
アリスが務めを終え、向こうの体へ帰って行った。ほつれていた道の端が、また息を吹き返す。あの子は、間に合わせたのだ。
安堵は、一拍も続かなかった。
アリスから届いた。細い、細い声。「見つかりました」
指が、止まった。
先に、告げていた。あの男が消した手順を逆から掘り起こし、道の出所へ——アリスの体へ辿りつこうとしている、と。間に合え、とも。
アリスは、封を間に合わせた。けれど、戻った先が、いちばん悪いときだった。
そこに何がいるのか、ケイには見えない。読めるのは道の構造だけだ。どの鍵が通り、どこに触れているか。だが、寝台を覗き込む顔も、伸ばされた手も、経路の外にある。糸は、心と言葉は運んでも、体は運ばない。あの子が「見つかりました」と言う、その一言だけが、向こうで何が起きているかを知らせる、たったひとつの窓だった。
戻れ、と叫んでも、あの子はもうそこにいる。
読めるのに、止められない。少し前も、同じことを思った。あのときはまだ、間に合うかもしれない一縷があった。今は、それもない。起きてしまった後だった。
膝の上の指が、震えた。
祈る、という言葉が浮かんで、押しやった。祈っても、あの手は止まらない。
代わりに、探した。あの男が、これを外へ報せるなら——その報せは、必ず経路を通る。上へ上がる声は、こちらの道の上を走る。それが経路に乗った瞬間に掴む。握り潰すのではない。遅らせる。時間を稼ぐ。それだけが、今、外から打てる手だった。
一つだけの手を、指がなぞりはじめた。
まだ、終わってはいない。あの男が、外へ報せさえしなければ。
♠
娘の目が、まっすぐ自分を映していた。
マコトの指は、瞼のすぐ手前で固まっていた。
眠っているのか。確かめようとした。ただ、それだけの動作だった。その指の先で、閉じているはずの瞼が開いた。灰色の光の中で、二つの目が焦点を結び、こちらを見ている。ゆるんだ、眠る者の目ではない。奥に、意識があった。
背筋を、冷たいものが上った。
眠らせた者が目を覚ます。そんなことは、この仕組みのどこにも起こらないはずだった。演算のために伏せさせた意識だ。役目を果たすあいだ、浮かんでくることなど、誰も想定していない。だから、目を覚ました者をどう扱うかという手順すら、ここにはなかった。
前例が、ない。
なのに、この子は目を開けている。
視線を、体へ滑らせた。差し直された口の管。貼り直された跡のある電極。乾いた染みを覆うシーツの裾。外から誰かが触れた、とさっき察した。キャロルか、と。
違った。
外から触れたのではない。この子が、自分で動いた。管を抜き、また戻し、目を開け、こちらを見ている。一年、眠っていたはずの、この子が。
腰の端末に、手が伸びた。
報せれば、運用室が動く。前例のない事態だ。上は総がかりでこの子を調べ、確保し、厳重な管理へ移すだろう。
指が、ボタンの手前で、止まった。
報せれば、この子は上のものになる。私の手を、離れる。ケイの鍵を証明できる、ただ一人が。
それに——。
覚めた経緯を、周が洗いはじめる。誰が、いつ、この体に触れたか。差し直された管の痕。私が昨日から独りで追ってきたものだ。周が同じ道を辿れば、行き着く先は、一つだ。
キャロル。
あの女が、ここへ降りてきたことに、辿りつく。この子を報せることは、キャロルを差し出すのと、同じだった。
それだけは、できない。
指が、ボタンから離れた。
「——起きて、いたのか」
声が、低く落ちた。誰にも届かない声だった。
「いい。誰にも言わない。私が、預かる」
覗き込む目が、ゆっくりと細まった。動かない娘の体を、見下ろしたまま。
「私が、決める。私だけで」




