Episode 7|式の癖
◆
帰り道だった。
工房への角を曲がりかけた。
「聖詔者様」
声がした。教団の紋章を持つ男だ。騎士が二人、後ろに立っている。恰幅のいい、顔に緊張を張り付けた男だ。
「今回の件につきまして、ノデッサ本部より至急ご報告をと。大神官より直々のご連絡です」
男が続けた。声が少し低くなった。「護衛もなく前線に出られたとのこと——その点につきましても、ご説明いただく必要があります」
アリスの表情が、戻った。聖詔者の顔に。
「……わかりました」
一歩、踏み出した。足が少し遅かった。それだけだった。
男たちが前に歩きかけた。その隙だった。
「ケイさん」
小声だった。早口で。
「明日、工房に伺います」
もう振り返っていた。そのまま廊下の先へ消えた。
◆
翌日。
工房にはサトルがいた。机の上に羊皮紙が広がっている。昨日の戦闘ではなく——昨日サトルが持参した、以前の討伐で使われた鍵の型だ。新型には合わなかったあれを、清書している。
「昨日から気になっていて」サトルが羊皮紙を見たまま言った。「新型には合わなかった。ただ、この構造が面白い。既存の魔法陣とは根本的に書き方が違う。型として記録されているのに、まるで型から作られていない」
受け取った。
昨日も一度見ている。「新型です」と返したときに。
数式を追う。線。分岐。収束——。
視線が、ある展開式で止まった。
昨日は気づかなかった。
ここだけが、違う。変数の置き方。一般的な手法で処理すれば遠回りになる過程を、ある置き換えで圧縮している。どこかで読んだ手法ではない。
——書いた。
俺が書いた。
学部のとき。卒論に使った展開だ。遠回りを圧縮するためだけに作った。この変数の名付け方まで一致している。
◆
ドアが開いた。
アリスが入ってきた。昨日の礼服ではなく、動きやすい服だ。侍女はいない。入る前に廊下を一度確認していた。
「昨日のお約束の続きを」
「どうぞ——アリス様、もしかしてお疲れですか」サトルが顔を上げた。
「……三時間ほど」
「三時間」
「聖詔者が護衛なしで前線に出るのはいかがなものか、と」アリスが言った。「三時間ぶん聞きました」
サトルが口を押さえた。
「……お疲れさまでした」ケイが言った。
「ありがとうございます」アリスが少し間を置いた。「次からは必ず連れてまいります」
言い方が、真剣だった。
「護衛の方は」ケイが言った。
「……今日は来ていません」
「そうですか」
サトルが吹き出した。
「ちょうどいい。アリス様もご意見を。この展開式——ケイ君、見せてあげてください」
羊皮紙を差し出した。
アリスが受け取る。無言で見ている。
「……型ではないですね」
「そうなんです。だからこそ——」
「ここ」アリスが一点を指した。「この変数の置き方。他と違います」
ケイは黙っていた。
「なぜこの形になるんですか」
答えようとした。
止まった。
◆
「俺が書いた式です」
アリスが顔を上げた。サトルが振り向いた。
「学部のとき、卒論に書きました。この変数の展開の仕方——俺にしか書けない癖があります」
沈黙。
「この型の元になった鍵を作ったのが誰か、昨日聞かれましたね」ケイはサトルを見た。「答えられなかった」
サトルが頷く。
「今も答えられません。ただ——」
羊皮紙を見た。
「この式は、俺が書いたものです」
サトルが何かを言いかけた。止まった。
アリスは何も言わなかった。羊皮紙を見ていた。
指先が、展開式の上で止まっていた。
窓の外。石造りの壁が夕の光を受けている。橙色だ。
工房が、静かだった。




