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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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Episode 65|待っていて

【視点マークの読み方】

♠=施設を管理する側

♣=キャロル(アリスの母)の側



ほとんど誰も使わない、別室の端末だった。


キャロルは自分のデスクには戻らなかった。あのPCには見張りの印がついている。ここでなら、しばらくは気づかれない。


画面に指を走らせた。いつもの道へ。あの子と繋がる細い道へ。


画面は、暗いままだった。


わかってはいた。あの子は、最後にそう言い残していた。すこし、声が届かなくなる、と。待っていて、と。


だから、この沈黙は覚悟していた。それでも、すこしが、どれくらいなのか。あの子は言わなかった。言えなかったのかもしれない。


道は死んでいない。指先にかすかな手応えはある。ただ、その先で応える声だけが、途切れている。


あの子は今、どうしているのだろう。


胸の奥が、かすかに冷えた。


キャロルは画面に短く書いた。


『無事なの』


返事は、なかった。返らないと知っていて、それでも書いた。


『待っているから』


あの子が、待っていて、と言ったから。その言葉に、応えたかった。


指が震えそうになった。止めた。今、崩れてはいけない。


今日、あの男に会う。決めたのは自分だ。あの子の声が返らなくても、止まれない。むしろ——あの子が応えられない今だからこそ、自分が動くしかない。


背を押してくれる手は今はない。


それでも、行く。


キャロルは立ち上がった。



「キャロル」


声をかけられて、振り返った。


廊下の先にマコトが立っていた。


「ちょうど君を探していた」


キャロルは手元の書類を伏せた。とっさにそうしてから、伏せたことを悔いた。やましさに見える。けれど、マコトは気づいた様子もなく近づいてきた。


「昨日の話だ。端末のこと」


「……ええ」


「君の端末、一部戻しておいた。普段使う範囲は、これで開く。心配をかけた」


指一つで絞り、指一つで戻す。人の手の届く範囲を、この男はそうやって決める。


キャロルは声に安堵を乗せた。「ありがとう。助かるわ」


マコトは一歩近づいて、キャロルの腕にそっと手を添えた。


「あまり、根を詰めるな」


乾いて温かい手だった。あの子を運んだ手。キャロルは、その手を振り払わないように、ただ立っていた。


いつもなら、こういうときはあの子の文字が胸の内にあった。崩れた、けれど確かな声が背を押してくれた。今は、それがない。独りでこの手の温かさに耐えるしかなかった。


マコトはすぐには離れなかった。それから、何気ない調子で言った。


「昨日、何を開こうとしていたんだ?」


来た、と思った。


「……よく、覚えていないの」


キャロルは目を伏せた。


「眠れなくて。夜中に、ずっと端末の前にいて。気づいたら、自分でもわからない場所を開こうとしていたみたい。あの子のことばかり、考えていたから」


嘘の中に、本当を混ぜた。眠れないのも、あの子を考えているのも、本当だった。


廊下は静かだった。


マコトは何も言わなかった。


キャロルはそのまま一歩踏み込むことにした。支えはない。それでも、ここで退いたら何のために来たのかわからない。


「ねえ、マコト。あの子は、結局どこへ行ったの」


「……どこ、とは」


キャロルは顔を上げた。今まで伏せていた目で、まっすぐマコトを見た。


「車だけが見つかった。アリスは、見つからなかった。一年、ずっと考えてる。あの子は今どこにいるんだろうって」


マコトの目が、ほんの一瞬揺れた。


「捜索は尽くした」マコトは静かに言った。「川も、海も。できることは全部やった。……つらいのはわかる。だが、もう」


「もう諦めろと?」


「そうは言っていない」


キャロルは目を伏せた。すがる顔に戻して。


「ごめんなさい。あなたを困らせるつもりじゃなかった」


「いや」マコトの声が少しやわらいだ。「いつでも訊いてくれていい。私が答えられることなら」


答えられること、なら。


その一言の縁をキャロルは聞き逃さなかった。


マコトは一度だけキャロルの腕を軽く押さえてから、廊下を戻っていった。足音が遠ざかる。


キャロルは壁にもたれた。


膝がわずかに笑っていた。独りだった。誰にも、いま耐えたことをわかってもらえない。あの子の文字も返らない。


それでも、一歩は進んだ。


あの男が戻したのは、普段使う範囲だけだ。地下へ通じる道は、閉じたまま。確かめるまでもなかった。


地下の寝台の列。管に繋がれた眠る人たち。あれをキャロルは見た。マコトには言えない。言えば、降りたことが知れる。


けれど、見たものは消えない。なぜ生きた人をあれほど眠らせておくのか。考えると、自分が誰よりもよく知っているはずの何か——その手前で、答えはいつも形にならなかった。


今は、あの子だ。あの子を外に出すこと。それから——この場所が、何なのか。


キャロルは書類を抱え直した。



別室に戻った。


息がまだ整っていなかった。あの男の前で作った顔が剥がれ落ちるのに、少し時間がかかった。


画面にまた指を走らせた。


『今日、あの人に会った』


『近づいてる。もう少し』


返事は、なかった。


暗い画面に、自分の言葉だけが崩れもせず並んでいた。あの子の文字がないと、こんなにも静かなのか。


キャロルは画面に手のひらを当てた。冷たいガラスの感触。その向こうのどこかに、あの子がいる。声も返せない場所で、それでも生きている。生きていてほしい。


「待ってて」


声に出した。誰も聞いていない部屋で。あの子にも届かない言葉で。


「お母さんが、行くから」


指は、もう震えていなかった。


明日、またあの扉を叩く。あの子の声が返らなくても。返るその日まで、何度でも。



マコトは自分の部屋に戻って、扉を閉めた。


椅子に座らず、机の角に手をついた。


覚えていない、と彼女は言った。眠れず、気づいたら知らない場所を開こうとしていた、と。


筋は通っている。喪った母親なら、そうかもしれない。夜中に、あてもなく手が動く。


だが。


『あの子は今どこにいるんだろう』。あの問い。まっすぐ自分を見ていた。ただ悲しむ目ではなかった。


捜していたのか。答えを。自分の顔の中に。


マコトは目を閉じた。


彼女が自分を見た。頼ってきた。腕に触れても、振り払わなかった。十七年で初めてだ。それでいい。それで。


けれど、今日は沈みきらなかった。


夜明け前のあの認証。古い保守通路。誰のものか、記録は語らない。よりによって「覚えていない場所」と、彼女は言った。


念のためだ。マコトはそう自分に言った。あの区画へ通じる認証をもう一度洗っておこう。誰が、いつ、どの道を選んだか。その道の先にあるものを、彼女が見たのかどうか。


いや。彼女のためでもある。疑いを晴らすために。


そう思おうとした。


だが、指はもう端末に伸びていた。


夜明け前、誰がどの道を通ったか。記録は、嘘をつかない。


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