Episode 64|触れる
【視点マークの読み方】
◆=ケイたちのいる世界
■=アリスの側
■
地下が、遠くなっていく。
現実の体を、置いていく。
アリスは、自分が細くなっていくのを感じた。指も、喉も、灰色の天井も、後ろへ置いていく。
残るのは、一本の糸だった。
ずっと前からそこにあった糸。声を運び、意味を運んできた、細い繋がり。今は、それが帰り道になっていた。たぐれば、向こうへ届く。
アリスは糸をたぐった。
暗がりを通る。長くも短くもない、奇妙な道だった。
ふいに、引き返したくなった。
母が、向こうにいる。あの男の懐に、独りで。自分は今、その母を置いて、動ける体のある方へ戻ろうとしている。
——ずるい。
そう思った。現実の自分は、指一本まともに動かせない。声も出ない。なのに糸の先には、立てる体と、話せる口が待っている。母を残して、自分だけが戻っていく。
それでも、進むしかなかった。向こうで務めを果たさなければ、この道ごと、すべてが消える。母を助ける手も、なくなる。
アリスは糸をもう一度たぐった。
光が、近づいてきた。
◆
光がほどけて、床になった。石の床。木と、古い紙の匂い。見慣れた工房だった。
アリスは、立っていた。
自分の、足で。
膝に力を入れると、ちゃんと応えた。指を握る。開く。何の苦もない。喉に手を当てると、息が温かく出入りしていた。
——戻ってきた。
工房の奥で、人が振り返った。
ケイだった。
ケイは手元の何かから顔を上げ、アリスを見た。糸の揺れで、戻ることはわかっていたのだろう。驚きはなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、アリスを見ていた。
「アリス」
名を、呼ばれた。
その声を、耳で聞いた。糸越しの、頭に直接届く意味ではなく。空気を震わせて届く、本物の声で。
アリスの胸の奥が震えた。
ここでは、聞こえる。ここでは、答えられる。
「ケイ、さん」
口が、言葉を作った。声になって、出た。
それから、アリスはもう一度言いかけて、止まった。
工房には、ほかに誰もいなかった。二人きりだった。
言ってみたかった言葉が、喉まで来ていた。向こうでは、声にならなかった言葉。指の揺れと、涙でしか伝えられなかった言葉。
アリスは、ケイを見た。
「……お父さん」
小さく、言った。
声に、なった。
ケイは、すぐには動かなかった。それから、ゆっくりと、手元のものを置いた。
「……ああ」
それだけだった。
短い返事だった。けれど、その一言を言うのに、ケイがどれだけ言葉を選んだか、アリスにはわかった。いつも、即座に答える人だった。その人が、一拍、置いた。
ケイが、アリスの方へ歩いてきた。
そして、手を上げかけた。アリスの髪に触れようとして——止まった。
その手は、宙で、行き場をなくしていた。
「悪い」ケイは手を下ろしかけた。「どうすればいいか、わからない」
アリスは、首を振った。
それから、自分から一歩近づいた。ケイの手を取って、自分の髪に乗せた。
ケイの手は、大きくて、少し硬かった。鍵を組む手。式を書く手。その手が、ぎこちなく、アリスの髪に置かれていた。
——あたたかい。
向こうでは、母も触れられなかった。後頭部の管が、深く埋まっていて。母は、手を伸ばしかけて、引いた。
ここでは、触れられる。
アリスは、ほんの少しだけ、目を閉じた。
「……会えた」
ケイが、言った。低い声だった。
アリスは、頷いた。何度も。声を出すと、泣いてしまいそうだった。せっかく、出る声なのに。
しばらく、二人とも、何も言わなかった。
やがて、ケイが手を離した。
アリスは、ひとつ息をついた。娘でいられたのは、その一拍まで。
それから、自分から口を開いた。
「お母さんのこと、話しておきます」
聖詔者の声に、戻していた。
「といっても、ほとんどわからないんです。戻ってきたので、もう繋げなくて。母に、まだ文字を送れなくて」
ケイの眉が、わずかに寄った。
「母は、まだあの男のところに」アリスは続けた。「置いてきました。独りで」
「お前が戻らなければ、道が切れた」ケイは言った。「正しい」
正しい。それは慰めではなかった。ただの事実だった。けれど、ケイがそう言うと、少しだけ楽になった。
「務めを終えたら、すぐ戻ります」アリスは言った。「母のところへ、道を、もう一度」
「ああ」ケイは頷いた。「だが、急ぐな。お前がここで何かをしくじれば、それこそ全部に気づかれる」
アリスは、頷いた。わかっていた。だからこそ、戻ってきたのだから。
◆
工房を出ると、廊下にサトルがいた。
盆を手にしていた。湯気の立つ椀。ケイの食事を運んできたところらしい。
アリスを見て、サトルの足が止まった。盆の椀が、かたん、と鳴った。
「……アリスさん」
声が、固まっていた。それから、二歩、三歩と近づいて、まじまじとアリスの顔を見た。確かめるように。
「本当に、戻られたんですね」
「サトル様」
「よかった」サトルの声が、わずかに震えた。「長かった。向こうに行かれたきり、いつ戻られるか、誰にもわからなくて」
サトルは、盆を持ったまま、一度、深く息を吐いた。
「皆、案じていました。ジンさんも、口には出しませんが、夜にときどき、この廊下を通っていって。フウちゃんは、毎日です。アリス様はまだかと、何度も」
アリスの胸が、痛んだ。
皆が、案じていた。自分が向こうで目を覚ましているあいだ、ここでは、ただ帰りを待たれていた。
「心配を、かけました」
「いえ」サトルは首を振った。それから、ふっと、肩の力を抜いた。「お戻りになったなら、それで。……訊きたいことは、山ほどありますが」
サトルは、それ以上は訊かなかった。何かを察したような、けれど踏み込まない目で、ただ頷いた。
「ケイ君に、食事を。あの人、放っておくと食べないので」
サトルが、工房へ入っていった。
アリスは、廊下を祈りの間へ向かった。自分の足で、歩いた。一歩ずつ。床を踏む感覚が、確かにあった。
◆
祈りの間に、ミアがいた。
祭壇の前で、膝をついていた。背中が丸まっていた。何度も手をかざしては、下ろしていた。北の封は、まだ揺れていた。
「ミアさん」
ミアが振り返った。その目が、大きく開いた。
「アリス、様」
声が、かすれていた。ミアは立ち上がろうとして、膝に力が入らないようだった。
アリスは、ミアの傍へ行き、北へ顔を向けた。
写しは、祈りをなぞることはできる。けれど、結び直すことはできない。それができるのは、自分だけだった。
アリスは、片手を上げた。
指先から結界が伸びていく。揺れていた一点へ、まっすぐに。ミアが何度かけても届かなかったところへ、ひといきに。
封が、結び直された。
たった、一度で。
揺れは止まった。北の縁はもう震えていなかった。固く、新しく結ばれていた。
ミアが、その光を見ていた。それから、両手で顔を覆った。
「わたし、何度やっても、できなくて」
「あなたのせいではありません」アリスは言った。「これは、わたしの務めです。ミアさんは、よく繋いでくれました」
ミアが、袖で目をこすった。
「お戻りに、なって……よかった」
アリスは、ミアの肩に手を置いた。
——もう少しだけ、ここにいます。
そう言いかけて、呑んだ。いられるのは、もう少しだけ。務めが片づいたら、また戻らなければならない。母のところへ。そのとき、また、この子に託すことになる。
それを、今は言わなかった。
◆
務めは、ひとつではなかった。封の結び直し。溜まった祈り。籠っていたと装っていたあいだに滞った、聖詔者の役目。ひとつずつ片づけていくしかなかった。しくじれば、誰かが気づく。
アリスは、祭壇に手をかざした。動く手。出る声。立てる足。ここでは、何でもできる。
——ずっと、ここにいられたら。
その願いを、結界の光がすぐに押し流していった。早く終える。終えたら、戻る。母のところへ、道を、もう一度。
■
地下は、暗かった。
寝台の上で、ひとつの体が目を閉じている。指は動かない。胸だけが、機械の拍に合わせて、ゆっくりと上下していた。
その体が今どこにいるのか、ここでは誰も知らない。眠っているとも、目覚めたとも。
はるか頭上の階で、母が今もあの男の部屋の扉を見つめていることを、娘は知らない。
ファンの音だけが、変わらず鳴っていた。




