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解錠師と呼ばれる転移者——魔法の構造が丸見えなので、型など必要ない  作者: 紬 律
第4部

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Episode 64|触れる

【視点マークの読み方】

◆=ケイたちのいる世界

■=アリスの側



地下が、遠くなっていく。


現実の体を、置いていく。


アリスは、自分が細くなっていくのを感じた。指も、喉も、灰色の天井も、後ろへ置いていく。


残るのは、一本の糸だった。


ずっと前からそこにあった糸。声を運び、意味を運んできた、細い繋がり。今は、それが帰り道になっていた。たぐれば、向こうへ届く。


アリスは糸をたぐった。


暗がりを通る。長くも短くもない、奇妙な道だった。


ふいに、引き返したくなった。


母が、向こうにいる。あの男の懐に、独りで。自分は今、その母を置いて、動ける体のある方へ戻ろうとしている。


——ずるい。


そう思った。現実の自分は、指一本まともに動かせない。声も出ない。なのに糸の先には、立てる体と、話せる口が待っている。母を残して、自分だけが戻っていく。


それでも、進むしかなかった。向こうで務めを果たさなければ、この道ごと、すべてが消える。母を助ける手も、なくなる。


アリスは糸をもう一度たぐった。


光が、近づいてきた。



光がほどけて、床になった。石の床。木と、古い紙の匂い。見慣れた工房だった。


アリスは、立っていた。


自分の、足で。


膝に力を入れると、ちゃんと応えた。指を握る。開く。何の苦もない。喉に手を当てると、息が温かく出入りしていた。


——戻ってきた。


工房の奥で、人が振り返った。


ケイだった。


ケイは手元の何かから顔を上げ、アリスを見た。糸の揺れで、戻ることはわかっていたのだろう。驚きはなかった。ただ、いつもより少しだけ長く、アリスを見ていた。


「アリス」


名を、呼ばれた。


その声を、耳で聞いた。糸越しの、頭に直接届く意味ではなく。空気を震わせて届く、本物の声で。


アリスの胸の奥が震えた。


ここでは、聞こえる。ここでは、答えられる。


「ケイ、さん」


口が、言葉を作った。声になって、出た。


それから、アリスはもう一度言いかけて、止まった。


工房には、ほかに誰もいなかった。二人きりだった。


言ってみたかった言葉が、喉まで来ていた。向こうでは、声にならなかった言葉。指の揺れと、涙でしか伝えられなかった言葉。


アリスは、ケイを見た。


「……お父さん」


小さく、言った。


声に、なった。


ケイは、すぐには動かなかった。それから、ゆっくりと、手元のものを置いた。


「……ああ」


それだけだった。


短い返事だった。けれど、その一言を言うのに、ケイがどれだけ言葉を選んだか、アリスにはわかった。いつも、即座に答える人だった。その人が、一拍、置いた。


ケイが、アリスの方へ歩いてきた。


そして、手を上げかけた。アリスの髪に触れようとして——止まった。


その手は、宙で、行き場をなくしていた。


「悪い」ケイは手を下ろしかけた。「どうすればいいか、わからない」


アリスは、首を振った。


それから、自分から一歩近づいた。ケイの手を取って、自分の髪に乗せた。


ケイの手は、大きくて、少し硬かった。鍵を組む手。式を書く手。その手が、ぎこちなく、アリスの髪に置かれていた。


——あたたかい。


向こうでは、母も触れられなかった。後頭部の管が、深く埋まっていて。母は、手を伸ばしかけて、引いた。


ここでは、触れられる。


アリスは、ほんの少しだけ、目を閉じた。


「……会えた」


ケイが、言った。低い声だった。


アリスは、頷いた。何度も。声を出すと、泣いてしまいそうだった。せっかく、出る声なのに。


しばらく、二人とも、何も言わなかった。


やがて、ケイが手を離した。


アリスは、ひとつ息をついた。娘でいられたのは、その一拍まで。


それから、自分から口を開いた。


「お母さんのこと、話しておきます」


聖詔者の声に、戻していた。


「といっても、ほとんどわからないんです。戻ってきたので、もう繋げなくて。母に、まだ文字を送れなくて」


ケイの眉が、わずかに寄った。


「母は、まだあの男のところに」アリスは続けた。「置いてきました。独りで」


「お前が戻らなければ、道が切れた」ケイは言った。「正しい」


正しい。それは慰めではなかった。ただの事実だった。けれど、ケイがそう言うと、少しだけ楽になった。


「務めを終えたら、すぐ戻ります」アリスは言った。「母のところへ、道を、もう一度」


「ああ」ケイは頷いた。「だが、急ぐな。お前がここで何かをしくじれば、それこそ全部に気づかれる」


アリスは、頷いた。わかっていた。だからこそ、戻ってきたのだから。



工房を出ると、廊下にサトルがいた。


盆を手にしていた。湯気の立つ椀。ケイの食事を運んできたところらしい。


アリスを見て、サトルの足が止まった。盆の椀が、かたん、と鳴った。


「……アリスさん」


声が、固まっていた。それから、二歩、三歩と近づいて、まじまじとアリスの顔を見た。確かめるように。


「本当に、戻られたんですね」


「サトル様」


「よかった」サトルの声が、わずかに震えた。「長かった。向こうに行かれたきり、いつ戻られるか、誰にもわからなくて」


サトルは、盆を持ったまま、一度、深く息を吐いた。


「皆、案じていました。ジンさんも、口には出しませんが、夜にときどき、この廊下を通っていって。フウちゃんは、毎日です。アリス様はまだかと、何度も」


アリスの胸が、痛んだ。


皆が、案じていた。自分が向こうで目を覚ましているあいだ、ここでは、ただ帰りを待たれていた。


「心配を、かけました」


「いえ」サトルは首を振った。それから、ふっと、肩の力を抜いた。「お戻りになったなら、それで。……訊きたいことは、山ほどありますが」


サトルは、それ以上は訊かなかった。何かを察したような、けれど踏み込まない目で、ただ頷いた。


「ケイ君に、食事を。あの人、放っておくと食べないので」


サトルが、工房へ入っていった。


アリスは、廊下を祈りの間へ向かった。自分の足で、歩いた。一歩ずつ。床を踏む感覚が、確かにあった。



祈りの間に、ミアがいた。


祭壇の前で、膝をついていた。背中が丸まっていた。何度も手をかざしては、下ろしていた。北の封は、まだ揺れていた。


「ミアさん」


ミアが振り返った。その目が、大きく開いた。


「アリス、様」


声が、かすれていた。ミアは立ち上がろうとして、膝に力が入らないようだった。


アリスは、ミアの傍へ行き、北へ顔を向けた。


写しは、祈りをなぞることはできる。けれど、結び直すことはできない。それができるのは、自分だけだった。


アリスは、片手を上げた。


指先から結界が伸びていく。揺れていた一点へ、まっすぐに。ミアが何度かけても届かなかったところへ、ひといきに。


封が、結び直された。


たった、一度で。


揺れは止まった。北の縁はもう震えていなかった。固く、新しく結ばれていた。


ミアが、その光を見ていた。それから、両手で顔を覆った。


「わたし、何度やっても、できなくて」


「あなたのせいではありません」アリスは言った。「これは、わたしの務めです。ミアさんは、よく繋いでくれました」


ミアが、袖で目をこすった。


「お戻りに、なって……よかった」


アリスは、ミアの肩に手を置いた。


——もう少しだけ、ここにいます。


そう言いかけて、呑んだ。いられるのは、もう少しだけ。務めが片づいたら、また戻らなければならない。母のところへ。そのとき、また、この子に託すことになる。


それを、今は言わなかった。



務めは、ひとつではなかった。封の結び直し。溜まった祈り。籠っていたと装っていたあいだに滞った、聖詔者の役目。ひとつずつ片づけていくしかなかった。しくじれば、誰かが気づく。


アリスは、祭壇に手をかざした。動く手。出る声。立てる足。ここでは、何でもできる。


——ずっと、ここにいられたら。


その願いを、結界の光がすぐに押し流していった。早く終える。終えたら、戻る。母のところへ、道を、もう一度。



地下は、暗かった。


寝台の上で、ひとつの体が目を閉じている。指は動かない。胸だけが、機械の拍に合わせて、ゆっくりと上下していた。


その体が今どこにいるのか、ここでは誰も知らない。眠っているとも、目覚めたとも。


はるか頭上の階で、母が今もあの男の部屋の扉を見つめていることを、娘は知らない。


ファンの音だけが、変わらず鳴っていた。


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