Episode 63|放す
◆
王都の朝は祈りの間から始まる。
ミアは祭壇の前に立っていた。両手を空にかざす。胸の写しの言葉を唱える。結界が応え、街の上に薄く張り直された。今朝もなんとか届いた。
手を下ろしかけて、ミアは止まった。
遠く、北の方。結界の縁が一点、揺れている。
封じた鍵のひとつだ。アリスが街から遠ざけ、固く封じたもの。それが内側から押している。封が緩みかけていた。
ミアは写しを握り直した。結界を上書きするのと同じようにできるはずだ。そう思って、揺れる一点へ手を伸ばした。
——お護りを。
応えなかった。
もう一度。今度はもっと深く。
写しの言葉は結界をなぞることはできた。けれど、緩んだ封を新しく結び直すことは——できなかった。
ミアの手のひらが冷たくなった。
ミアにはできない。
なぜ自分にはできないのか、ミアにはうまく言えなかった。ただ、上書きは、すでに引かれた線をなぞって濃くするようなもの。けれど、結び直しは新しく線を引くこと。誰が引いたのか、その手の主を護り自身に認めさせなければならない。写しはアリス様の言葉にはなれても、アリス様にはなれなかった。
封の揺れはまだ小さかった。今日明日で破れることはない。けれど、放っておけばいつか。
ミアは祭壇に膝をつき、額を冷たい石につけた。
——アリス様。
声には出さなかった。出しても届かないとわかっていた。
——どうか、戻ってきてください。わたしでは、結び直せないものが出てきました。
祈りの間は静かだった。北の縁の揺れだけが、まだ消えずに残っていた。
■
地下はいつもの温度だった。
アリスは目を開けていた。天井の灰色。ファンの音。
指を握ろうとした。握れた。けれど、握る力が昨日より弱い。
意識をこの体に留めておく。それはずっと指を握り続けているのに似ていた。覚めてから一度も力を抜いていない。握り続けている。
その指が緩みはじめていた。
留める力が尽きれば、向こうへ引き戻される。眠るのとは違う。自分の意志ではなく、剝がされる。いつ、とは決められない。
そして、向こうでは。
自分がこちらに長くいるほど、向こうの務めに穴が空く。ミアさんがその穴を埋めている。自分の代わりに。あの日、託した人。そのミアさんがもう保ちきれなくなっている。握る力が緩むのと同じだけ、向こうの護りも薄れていく。アリスにはそれがわかった。
自分が向こうへ戻れば、ミアさんはもう代わりをしなくてすむ。
戻らなければ。一度、向こうへ。
でも。
母が今、あの男の懐にいる。母の言葉を父へ運ぶのは自分だ。父の言葉を母へ運ぶのも。自分が向こうへ戻れば、その手が止まる。
母が独りになる。
アリスは糸をたぐった。
——ケイさん。
◆
工房にケイは一人だった。
アリスから届いた。声ではない。糸を伝って意味だけが胸に落ちる。——ケイさん。戻らないと、いけません。
ケイは机に置いた手を止めた。
——そちらが、保たない。わたしが長くいすぎました。
ケイはすぐには答えなかった。
最悪の時だった。キャロルがあの男の懐へ自分から入っていった。これから何度もあの扉を叩く。そのたびに言葉を運ぶ者が要る。アリスがその一点だった。アリスが向こうへ戻れば、外と内を繋ぐ手が消える。
だが。
ケイは経路を読んだ。アリスが通した認証は道として残る。本人が離れても、期限が切れるまでは消えない。戻ってもう一度通せば、また繋がる。壁を一枚目から開け直さずにすむ。
だが、道が生きているのと言葉を運べるのとは別だ。崩れた文字を端末に書けるのはアリスだけ。アリスが戻れば、道は残っても運ぶ手は消える。キャロルへ伝える術が絶たれる。
それでも、とケイは思った。剝がされるまで待てば、いつ道が切れるか決められない。期限が尽きれば道そのものが死に、次は壁の一枚目からだ。最悪の時にすべてが振り出しに戻る。
それより、道が生きているうちに自分で選んで戻る方がいい。
ロジックはそう言っていた。
——戻れ。今のうちに。
ケイは糸に乗せた。
——道は、すぐには消えない。戻ってくれば、また繋げる。剝がされて切れたら、振り出しだ。
返事はすぐには来なかった。
——お母さんが、独りになります。
ケイは息を止めた。
母を独りにする。それを父が決める。娘に戻れと言う。懐に入った母を繋ぐ手から放す。
——わかってる。
ケイはそれだけ返した。ほかに言える言葉がなかった。
——だが、お前が剝がされて切れるよりいい。道は残る。キャロルは、独りでもやる人だ。
最後の一言だけはロジックではなかった。
■
アリスは目を閉じる前に、もう一度だけ糸をたぐった。
母の端末へ。崩れた文字をひとつだけ。
——すこし、こえが、とどかなくなります。まっていて。
理由は書けなかった。書いても伝わらない。向こうの世界のことを母は知らない。
ただ、待っていて、とだけ。
返事は来なかった。母は今、別の場所にいるのだろう。あの男の懐か、その帰り道か。
アリスは灰色の天井を見上げた。ファンの音。いつもの温度。
指の力を抜く。
握り続けていた指をゆっくりと緩める。剝がされるのではない。自分で放す。覚めてから、初めて。
意識がこの体から離れていく。地下が遠くなる。
母が次にあの扉を叩くとき。
その言葉を、もう誰も運べない。
アリスは最後にそれを思った。母を、少しのあいだ独りにする。父の言うとおり、道は残る。けれど、運ぶ手はいない。
——お母さん。
声は誰にも届かなかった。
目を閉じた。




